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すべてが対になる(ショート・ストーリー)

 吉村くんが三時休憩に喫煙所にのそのそとやってきた。喫煙所といえどもオフィスの一新でエレベーターホールの隅にあったガラス張りの個室は撤去されてしまい、非常階段をこっそり喫煙者たちは使っている。総務部の古舘さんも来るので暗黙の了解になっているのだろう。8階建てのビルで非常階段が外部にむき出しになっていて周りに見られないかと思われるだろうがすぐ目の前に箱型の立体駐車場が四棟文字通り並び、ほとんど壁に囲まれていると言って良い。風の強い日でも遮蔽物となってくれる。吉村くんが三時休憩に来たということは、あの事務員駒谷さんのヒステリーでも浴びて神経に痺れを覚えたからだろう。吉村くんは大阪出身で勤続年数に関わらず地雷的に行われる転勤でこの中部支社に来てもう2年目なのだがすっかり部署内でいなくてはならないと誰もが言う存在感のある社員である。メール係の私にでさえその噂は届くほどである。駒谷さんはそんな吉村くんに就いた新卒のピチピチ事務員である。外部研修でひと月ぐらいいなかったが、これで半年くらいになる。だんだん会社に慣れてくるかそうでないかはっきりする頃だろうが、吉村くんは彼女の思想が業務に介入するのが少々気に障るらしい。
「あいつまた言い始めたんだわ、俺がさ、見積りのリスト表にまとめといてって言っただけなんだけどさ、普通に了解しましたっとか承知しましたとか言ってくれればいいんだよ、ちょっとは愛嬌を持って「しょうちのすけです!吉村さん!」とか言ってくれたって良いんだよ。でもよ、あいつまた言ったんだわ」
「言ったわというか、言い足したんでしょ」
「あー、そうやそうや、言い足した。付け足した、「了解しました、戦争反対。虐殺反対。民族浄化反対。絶対絶対反対。」ってな」
なんやねんな〜とメビウスの煙を汽笛のように吹かす吉村くんに私は哀れみの目を向ける。

 初めて聞かされた時私は「は?思想?」と変な反応をして見せた。残業で8時くらいまで居残ってた時に、吉村くんがげっそりして給湯室に現れて、夜食のカップラーメンのフィルムをメリメリ剥き始めて、湯沸かし器のお湯が切れてて項垂れながら補充して沸騰するのを待ってる間、私もなんだ疲れて変な話をし始めていた。当時私が捕まえた男にフェラチオを強要される話だ。吉村くんは聞き間違えたかと思ったのか「あー、フェラチオですか」と退屈そうに相槌をうっていた。
「うん、フェラチオ」
 職場の給湯室でポツネンと交わされる「フェラチオ」というワード。
 おしゃれなカフェの話をするかのように飛び出す「フェラチオ」というワード。
 バーで注文する十八番のカクテルを答えるような「フェラチオ」というワード。
「フェラチオねぇ」
「そう。フェラチオ」
「吉村くん彼女にしてもらえるの?」
「僕彼女はいませんよ」
「あらそうなの」
「彼女がいてもさせたくないな」
「へえ」
「自分がしろって言われてしたいですか」
「へえ、そう考えるんだ」
「気が知れませんよ」
「じゃあ私が今ここで吉村くんにするって言ったらどうする?」
「え、やめてくださいよ、会社ですよ」
「吉村くんって思ったよりつまらないわね」
 吉村くんの陰茎は萎れた白菜みたいだった。何枚も葉っぱのように包皮が破れかぶれに折り重なっている。血管が葉脈のように筋を浮き出しているが、全体的にシワシワだった。
「うわ、なにこれ」
「なにって。ぼくのちんちんですよ」
「これちんちんなの?ほんとうに?」
「れっきとしたちんちんですね」
「こんなかたちのちんちんもあるのね」
「ありますよ。かめのようなちんちんもあれば、うどんのようなちんちんもあるように」
「うどんねぇ」
「うどんです」
「いや、これじゃあ白菜よ」
「白菜…!初めて言われました、あはは」
 ふぅ。いっぱつかんたくん。
 ちんとしちゃってとん。
 ちんとしちゃってとん。
 で?
 ファーーッ。吉村くんは果てるとそう叫んだ。ファーーッ? ファ? ドレミファ?
 吉村くんの白菜陰茎をキッチンペーパーで拭うとコーヒーが飲みたくなった。吉村くんはブルマありますよ、と言い出してなんのことかと思ったらブルーマウンテンのことだった。どうしてそんな略し方をするのだろう。吉村くんが学生だった頃にはもうブルマは廃止されてただろうに……伸びきってこんもりになったカップラーメンに飛びつきながら膝を給湯室のクソ汚い私たちのパンプスが歩き回った床について戸棚を机代わりにしている吉村くんが下半身裸で萎れたまだ湿り気を覚えている陰茎を引き出しにあてがえているのを私は愛おしげにみていた。犬が餌にありつくように齧り付いている。

 私がまともに駒谷と口を聞いたのがこの給湯室の戸棚に付いたシミである。白菜陰茎の魚拓である。駒谷は出社してから煎茶を用意するためにこの引き出しに目がついた。
「なんでしょう、これ」
先に珈琲を淹れていた私に簡単な挨拶を済ませたのちに、その流れで私に問いかけた。引き出しのとっての少し隅にしめじのようなシルエットを模したシミが付いていた。木目にしっかりと液物が染み込み、素人目でもなかなか取れないことは明白であった。
「なにかしらこれ」私も合わせた。多分あのバカの陰茎だわ、シルエットになるとまだ白菜にはならないのねと感心した。
「これ、とれるのかしら」
「とるというのは」
「いや、だって汚れでしょ」
「汚れでいいんですよね。でも汚れにしてはこんな狙ったみたいに付くのでしょうか」
 狙ったみたいに……?私は首を傾げた。どういう意味なんだ駒谷。
「わたし、これただの汚れじゃないと思うんですよ。きっとここでいかがわしいことがあったんですよ」
「はあ……」なによそれ、と私は引き気味に言った。
「きっと誰かの尊厳を破壊するような、そんなこと」
「こんなシミひとつでそんなこと考えるのあなた?」
「というと?」
「この会社でなんらかのハラスメントが起きてたって言いたいわけ?」
「じゃないんですか」
「じゃないんですかって、あなた、そんなシミひとつでそこまで考えるのはいくらなんでも飛躍しすぎじゃないの」
「はあ」
「あなたが喚いて社内がギスギスしたらどうするの」
「いや、わたしはよくないことを正してより良い職場環境を作った方がいいと思うんです」
「あのね、ただのシミよ。誰かが何かこぼしたんじゃないの?」
「こぼしてこんなことにはなりません!」
「何をそんなに腹を立ててるのよ」
「これ、私に対しての当てつけですよ。給湯室で課長らに煎茶を朝沸かす私に対しての当てつけですよ。第一女性社員が朝イチにすることが茶を沸かすってなんですか。それにも私は仕事だって割り切ってますけど、それに加えてこんなシミをつけられて」
「こんなシミをって、あなたこのシミに何抱いてるのよ」
「悪ですよ。悪。これは私に対しての宣戦布告ですよ。戦争反対。虐殺反対。民族浄化反対。絶対絶対反対」
「はあ?」

 吉村くんが喫煙所に来なくなったのでどうしたのかなって思って休憩中デスクへ覗きに行くと文庫本を読んでいた。表紙のカバーを剥き出しにして恥じらいもなく堂々と読んでいた。駒谷は睨みつけている。ヒトラーの「我が闘争」だった。私は流石に許容できないわと、苦笑いをして非常階段に逃げた。パンプスを扉の段差で蹴つまずいて顎から段に打ちつけて奥歯が割れて舌が切れた。そのまま転げ落ちてゆき、くるくる血まみれになって踊り場で止まった。私の事故以降、会社に喫煙所が無くなった。吉村くんは半年後退職するまでずっとヒトラーの「我が闘争」を読んでいた。休憩時間だろうと勤務時間中だろうとお構いなくだった。そのうち情勢が怪しくなって海外のいくつかの紛争がニュースでちらほら流れてきて駒谷がその度に荒々しくいつものフレーズを繰り返していた。怪我から復帰した私は溜まっていた激務に追われ、いつか特大の爆撃がこの会社のそばに落ちて何もかも木っ端微塵になればいいと思った。爆裂する事務所を想像すると、吉村くんのふさふさの白菜みたいな陰茎がシン・ゴジラの口みたいにパカって開いて白い光線が走るのを思い出した。ファーーーーーッ。
 キーボードは叩き壊されていた。

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