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ノンフィクションインタビューvol.1

発達障害(ADHD,アスペルガー)
双極性障害
学校2つ中退
正社員歴ほぼ無し
片耳聴力消失
それでも強く生きる男の生き様

米粒です!
久しぶりの更新になりました。

今まで自己紹介の記事はいくつか書きましたが、
箇条書きなどでわかりにくかったところもあると思うので、もしインタビューされたらこう答えるだろうなという感じで自己紹介を改めてしていきます。

今回は学生時代をまとめた記録です。

ではいこう!

インタビュアー (以降イ)
ー今日はよろしくお願いします。

米粒 (以降米)
ーよろしくお願いします。


ー米粒さん今は何をされている方なんですか?


ー今は個別指導塾で塾講師のアルバイトをしています。
転職回数が今まで多かったんですが、ここで少し落ち着いています。


ー事前に色々障害を持っていると聞いていたので、働けているだけでもいいと思いますね。


ー色々聞いていきたいと思います。
事前に発達障害と聞いていたんですが、
どんな診断を受けたんですか?


ー自分はADHDとアスペルガー、双極性障害の診断を受けました。


ーそれぞれの症状はどんな感じなんですか?


ー同じADHDでも人によってさまざまなんですよ。
自分の場合は忘れ物や無くしものが尋常じゃないこと、

あとは衝動的に買い物をしたり、思い立ったら他のことが全く見えなくなってしたいと思ったことに熱中するんです。

衝動に駆り立てられるとじっとしていられないんですよね。

あと時間の逆算がめちゃくちゃ苦手で、遅刻をよくしてしまうんです。本当に1分〜5分くらいですけど。

これはADHDに関係あるかはわかりませんが、小さい頃靴紐が全然結べなかったんです。ネクタイも結び方がわからなくて、それがスーツを着る職業に就きたくなかった理由のひとつでもあります。


ーADHDの症状で特にこれが困る!
というのはありますか?


ー無くしものがとにかく多いのでそれを買い直したり、衝動買いでお金を使うのでお金がかなりかかるんです。

あとは遅刻によって信用が失われたりすることが多かったです。


ーアスペルガーはどんな症状なんですか?


ーこれは実際に自分と話していたら気づくと思うんですが、相手の質問に対してよくズレるというか、的を得ない回答をしてしまうことがよくあるんです。

他にも冗談や皮肉が通じない、
相手の言葉を額面通りに受け取る、
人の気持ちを読み取ることが難しい
という症状ですね。


ー人と話が噛み合わないのはキツいですね。
双極性障害というのはなんですか?


ーこれは気分がいいときと悪いときの差が激しいんです。
気が大きいときにいろんな買い物をしてしまったりするので、
双極性障害とADHDを持っている人は借金しやすいそうです。


ー借金と深い関係があるというのは嫌な組み合わせですね‥


ーあと米粒さんは学校を2つ中退ということだったんですが、高校と大学とかですか?


ーいえ、自分は専門学校と大学を中退しました。
高校も出席日数がギリギリだったので、学校というのに向いていなかったんでしょうね。


ー不登校だったんですか?


ーいえ、小中学校はほとんど欠席しませんでしたし、高校も3年の2学期までは皆勤でした。


ー経歴が気になりますね。
幼少期からのことを尋ねてもいいですか?


ーいいですよ。

幼稚園時代


ー米粒さんは幼稚園か保育園ではどういった子供だったんですか?


ー協調性がない子供でした。
お遊戯会でステージの上で楽器演奏があるんですが、みんな真剣に演奏してる中、1人だけ飽きてウルトラマンのポーズをしたり、鈴のタンバリンみたいなのを頭に載っけて天使ごっこなどしてました。

あとは当時から何かを作るということが壊滅的にできなかったんです。

凧揚げを作って園の庭で遊ぼうみたいな時間のときに自分だけ凧が完成せずに、先生も自分を放っておいて庭で他の子達と遊んでいたんです。
そして電気の消えた教室でひとり取り残されていたところに園長先生が来てけっこう大騒ぎになりました。

他には折り紙もグシャグシャにしか折れなかったですし、何かを作って提出するというものは全て母親に頼んでいました。

小学生時代


ー小さい頃から手先は不器用だったんですね。
小学生の頃はどんな子供でしたか?


ー今度はかなり生意気になったんですよ。
自分をお世話してくれた6年生のお兄さんに喧嘩売ったりしていました。


ー喧嘩って‥1年生と6年生で喧嘩になるんですか?


ーとにかくタックルしたり、蹴ったりしていたんです。
向こうも相手が1年生なんでまともに相手はせず「すげー俺の負けだ」なんて言ってたんですよ。
そしたら6年生に勝ったと思い込んで
「俺って喧嘩強いぜ!」
って思っていました。

他には1年生のときに、スカートを履いている女子に向かってヘッドスライディングをしてスカートの中を覗いたりしました。
あとでチクられて先生にかなり怒られましたが。


ーそれはそうでしょう(笑)


ー1年生のときはそんな生意気なことばかりしてて、2年生になるととたんに学校が嫌になったんです。


ー何かあったんですか?


ー自分は給食で食べられないものが多かったんですが、残すのを許してくれない先生だったんです。
献立表を見るたびに膝が震えたりする、今でいうノイローゼみたいな感じだったと思います。


ーそれで不登校とかにはならなかったんですか?


ー2年生のときは本当に考えたこともありましたが、3年生で担任が変わるとその不安は無くなりました。


ー良かったです。小学生で何か打ち込んでいたことはあったんですか?


ー当時は野球、ゲーム、テレビにめちゃくちゃハマっていました。
自分はこれ面白い!って思ったら他の人が飽きてもずっとそれに熱中していたんです。
今思うと過集中ですかね。


ー何かハマったきっかけや、好きなゲームやテレビを教えてください。

ー野球にハマったきっかけは、地元ホークスの応援に球場に行ったことです。
球場に行かない時はテレビで見たり、選手名鑑を眺めていました。

ゲームは家にあったスーファミのドンキーコングシリーズと、64のマリオストーリーを延々とやり続けていました。

テレビは色々ありましたが、
「学校へ行こう」
「世界仰天ニュース」
「ドラえもん、クレヨンしんちゃん」
などにハマっていました。

今でも当時の録画VHSが家にあります。


ー本当に好きだったんですね。
小学校のときの青春、または黒歴史などはありますか?


ーありますね。普通の友達との青春は、暑い夏の日にプールに行き、帰りに飲んだバニラコーラがとても美味しかったことです。

あとは当時小6のくせにモテたくて、ギターとスケボーを始めたんです。

そして小学校の夏祭りの時に格好つけてスケボーで行ったんですが、そのときに好きだった女の子が浴衣で来ていたんです。

そしてスケボーに乗っている自分に女の子が近づいてきて、「私も乗せて」
って言われて一緒に手を繋いで一つのスケボーに乗ったのが1番の思い出ですかね。

小学校の頃の黒歴史だと、理科の実験でアルコールランプを使う授業があったんですよ。

そのときにマッチをつけて隣にいた女子に
「俺に触るとヤケドするぜ」
言ったことですね。

先生にビンタされて
「火遊びするな!」って怒られました。


ーそれはそうなりますよ(笑)

中学時代


ー中学に入るとさらに黒歴史が増えていったんです。


ー例えばどんなのですか?


ー中学入学したての5月くらいに、友達と
「どっちがエロいか」
で喧嘩になったことがありました(笑)


ーどんな喧嘩なんですか(笑)


ー同じ部活の友達だったんですが、その友達が下ネタばかり話していたんです。

それで「そんな話してないで練習しろ」って言ったら、「お前のほうがエロいやろ!」
と言われてそこから取っ組み合いでした(笑)


ーそんなん究極の水掛け論でしょ(笑)


ー他には中2のときに、国語で
「走れメロス」というのを習ったんですよ。


ー太宰治さんの有名な作品ですね。


ーそれ習った後に
「仲間のために走るメロスかっけえ!」
って思ったんです。
そして当時好きだった女子が別クラスにいたんですが、渡り廊下挟んだ少し遠い教室だったんです。
そのときに渡り廊下の向こう側から、
「米粒くん、好きな子がからかわれてるよ」
という声が聞こえたんです。

そして
「メロス激怒!
待ってろセリヌンティウス!」と叫んで廊下を全力疾走してその先にいた先生に長めの説教くらいました。


ーなんかやっていることが小学生レベルなんですよね(笑)


ーたぶんここまで読んでくれた人は絶対自分のこと、どうしようもないやつだと思ってるでしょうね。
ただ自分は中3になって、偏差値60くらいの公立高校に行きたくて必死に勉強していたんです。結局偏差値は62まで上がったんです。

ですが1、2年生のときの内申が足りなくて偏差値52くらいの高校にレベルを下げたんです。


ー米粒さんは本気を出すとすごいポテンシャルがあるのかもしれませんね。
高校生活はどうなんですか?

高校時代


ー自転車で15分くらいの近い高校に入り、最初は同じ中学出身の友達とばかりつるんでいたんですよ。
ですが徐々に高校で知り合った友達が増えていきました。
部活にも入りましたし。


ー部活は何部に入るんですか?


ーこれは特定される可能性があるので、有料記事のほうで言いたいと思います(笑)それくらい珍しい部活です。


ーわかりました。部活の成績とかは聞いていいですか?


ーインターハイ常連の強豪校でした。


ーそんなに厳しそうな部活で米粒さんはついていけたんですか?


ーついていけなかったんです。
先輩の言っていることがうまく聞こえなかったり、先輩から聞かれたことにトンチンカンな答えをしてしまうんです。


ー先輩によってはイジメとかもありそうですけどね。


ーそれがそれはなかったんです。
自分が精神的に幼かったので、高校生の集団の中に小6が混ざっているような感覚ですかね?
それで怒られるというよりは呆れられていました。

結局先輩との上下関係や金銭関係、人間関係などにより1年生の10月で部活を辞めたんです。

個人的にこれが1番最初の挫折だと思っています。


ーまあ合わない環境で無理するよりかは賢明な判断だったかもしれないですね。
そのあとの学校生活はどんな感じだったんですか?


ーそれまで部活で遊べなかった分、糸が切れたように遊びました。
友達と深夜まで福岡の博多あたりを駄弁りながら歩いたり、
溜まり場みたいになっていた中学の同級生の家で徹夜でゲームをしたり、
おげれつなDVDをみんなで見たりしていました。


ーある意味高校生らしいですね(笑)


ーあとは小学生の頃と同じくモテたいと思い、ヘアワックスをつけ始めました。
ファッション雑誌にもヘアワックス一覧が載っていたので、高2の頃にはワックスの種類、値段、効果などを全て暗記して友達に勧めるアドバイザーをやっていたりしました。


ー興味がある分野に関しての米粒さんの記憶力はやはりすごいですよ。


ーそのかわり興味のないものには一切関心を持たないんですよね。
自分は中学生のときから文系で英語と国語が得意で、理科が苦手だったんです。

高2のときの期末テストで、
英語91点、理科9点という点数を取ったこともありました(笑)


ー両極端すぎませんか‥


ーそれも英語はテスト勉強せずに普段の勉強だけで、理科はめちゃくちゃテスト勉強してこれだったので、その頃から苦手なものの克服は辞めようと思っていました(笑)


ー確かに勉強して9点ならもう諦めたほうがいいのかもしれませんね。


ー高2に上がるとさらにオシャレするようになりました。
休みの日は髪はハードワックスでツンツン、それに加えてカラーワックスも大量につけて髪の色は茶色〜金色、近所の古着屋で買ったアロハシャツを着て、ジーパンにはウォレットチェーンをつけていました。


ーザ・チャラ男って感じですね‥


ーこれは流石にやりすぎていたみたいで、同級生の女子と街中で会ったら引かれていました。

そんな感じで3年生に上がったんですが、
高3のクラスは地獄でした。


ー何があったんですか?


ー高2のときは休日あんな格好をしていても、普段は真面目に勉強していてテストの点数はクラス40人中7位だったんです。

その成績を見た先生が、
「お前は来年から特進クラスだ」
と言ってきたんです。

自分は2年生のときから美容師を目指して専門学校へ行きたかったんですが、成績的にも大学に行かせるほうがいいと学校が判断したんでしょうね。

そしてその特進クラスに馴染めなかったんです。


ー馴染めないというのは具体的にはどんな感じだったんですか?


ーまず自分は大学に興味がなかったんですよ。
そんなモチベーションで受験ガチなクラスに行くとついていけないわけなんです。

合わない環境で無理をしたら突然発熱したりするんですよ。
そして登校のときに学校が近くなると動悸や息切れ、吐き気がしてくるんです。


ーそれは病院行ったほうがいいんじゃないですか?


ー何軒も行きましたよ。
ただこれが後に診断された
「自律神経失調症」であり、
精神的な問題なので内科で診てもらっても何も異常が出ないんです。


ー厄介な症状なんですね。


ーそれで最初は心配してくれていた父親も
「内科で異常がないのはサボってるだけ」
と言うようになったんです。

学校に行くと体調が悪くなり、
帰るように言われて帰ると家で父親から怒られるという、まさに居場所がなかったんです。


ー理解がないのってつらいですね。


ー結局、自分は高3の9月に学校を休み始めて最後らへんはまともに通えていなかったんです。


ー卒業はできたんですか?


ー本当にギリギリできました。
あと何回か休んだらアウトだったので、高1から高3の途中まで皆勤だったのが救いでした。


ー米粒さんの卒業後の進路はどこになるんですか?


ー結局学校もまともに通えない状態だったので大学受験はせず、高3の12月に美容専門学校を受けて合格していました。
卒業前に心療内科に行って貰った薬が自分と合っていたこと、それと卒業して学校という縛りがなくなったら、嘘みたいに体調が回復して専門学校へは翌月の4月から通えたんです。


ーでは米粒さんは本当に高校生活が重荷になっていたということですね。
美容専門学校での学校生活はどんな感じだったんですか?

専門学校時代


ーもう問題児です。
幼稚園のときから手先が不器用だったので
カットはガタガタ、シャンプーでは相手の背中にお湯かけてしまう、メイクの授業ではファンデーションを相手の顔に塗りまくって金色の顔にさせたり‥
でも全部これ、ふざけていたんじゃないんです。

先生の説明も理解できないですし、見様見真似がわからないので
「できないところが多すぎてどこから改善したらいいかわからない」
という状態でした。


ーまあ問題解決能力というか、どうにかできるように練習できればいいですけど‥


ー先生からは直接、
「学校創立以来、あなたほどできない生徒は初めてです」
って言われたんです。


ーではやはり細かく手先を使うことは米粒さんには難しかったんでしょうね。


ー憶えているのが、パーマ巻きは先生からの温情で追試をしていただいたんです。
それで追試は合格したいと思い、家で毎日必死に練習していたら時間内に巻けるようになったんです。

それで迎えた追試の日に、時間内で終わると思ったときに巻くロッドがひとつ足りなかったんです。
多分家で落としていて無くしたんでしょうね。
それで単位落としてしまったんです。


ーついていませんね‥


ーそれでいて、いつも金髪や赤髪にしていました。
さらに耳だけでなく眉毛にピアスを開けたりもしていましたし、
「スケボーで学校通うの楽しそう!」
って思った次の日に本当にスケボーで登校して先生に没収されたりしていました。


ー米粒さんって好奇心や行動力はすごいんですね‥


ー美容学校って経営法や衛生管理などの座学の授業もあり、それは点数取れていたんです。

その成績表を見た父親から、
「やはりお前は勉強はできるんだから、進路変えて大学に行くのはどうだ?」
と言われたんです。

自分も技術系の単位いくつか落としていて精神的に悩んでいたので、親と学校と病院で話し合った末に1年の3月に学校を辞めることになったんです。


ーなんだかもったいないですね。
辞めた後悔とかは残っていますか?


ーほとんど残っていなかったです。
同級生ともかなり差がついていたので、就職できないか、できても全く仕事できないと思っていたので。


ー1年で切り替えられるなら長い人生では良かったかもしれませんね。
3月で辞めたということはその翌月の4月から大学に入るんですか?


ー自分としてはそうしたかったんですよ。
ただ父親から、美容学校を辞める代わりにというか‥
適当な大学じゃなくて、どうせなら1年死ぬ気で頑張っていい大学に入ることを条件にされたんです。

浪人時代


ーでは米粒さんは1年浪人するわけですね?
予備校に通うんですか?


ー自分は予備校ではなくて個別指導の塾だったんですよ。

塾が少し遠かったこともですが、
結局浪人したところで相変わらず大学に興味はないので全く勉強する気にならないんです。
専門学校を辞める直前からスーパーでバイトをしていたんですが、勉強よりもバイトしに行くほうが楽しかったですね。

塾では何回もやる気のないことで説教されて、
家ではまた父親とケンカする日が続いたんです。


ー高校時代もそうですが、米粒さんに居場所がほとんどないのが心配ですね‥

志望校とかは決めていたんですか?


ー地元の私立の大学を一応目指していたんですが、途中から
「地元の大学に行っても父親と一緒に暮らすのがしんどい」
と思うようになったんです。

そこで途中から敢えて、長崎のおじいちゃんの家から通える大学に志望校を変えたんです。


ー県外の大学はお父さん認めてくれるんですか?


ー反対でしたよ。
なのでそこでまた喧嘩になり、家出のような形で出て行っておじいちゃんの家に居候させてもらいました。

その間に、長崎にある大学を受験して合格したんですよ。


ー合格したのはいつぐらいのことなんですか?


ー合格通知が来たのは2012年の1月です。
2011年3月に美容学校を辞めて、
4月から浪人していましたが結局9ヶ月くらいのことでした。


ー大学が決まったなら良かったですね。
では2012年の4月から大学に行くんですか?


ーそうです。
ただ、大学入学の1ヶ月前に、おじいちゃんが「1人にさせてくれ」
と言ったんです。
なので自分はおじいちゃんの家から大学に通う予定だったんですが、大学近くにアパートを借りて一人暮らしをしないといけませんでした。


ー一人暮らしは初めてですよね?
料理とか家事は大丈夫なんですか?


ー一人暮らしはかなり快適でした。
全てにおいて干渉されることもなく、
自由ってこんな感じなんだと思ったんです。
料理はコンビニやスーパーのご飯で、家事もそのときはできていました。


ー今まで安全な場所が少なかった分良かったと思います。

大学生活はどうでしたか?

大学時代


ー問題なく友達もでき、毎日遊びました。
大学入学の2ヶ月前から生活費のために長崎のピザ屋でバイトも始めていたので、
ザ・大学生という感じですかね。

ただ問題だったのが、朝全く起きられなかったんです。

5月には早々に1限の授業を5回欠席で必修の単位を落とし、自暴自棄のようになりました。

他にも前日まで必死に勉強した講義も、テストの時に起きれなくて寝過ごしてしまったんです。


ー誰か起こしてくれる人とかいれば良かったですね。


ーさらに大学の授業に全然興味が無くて、
講義の時間が苦痛で苦痛で仕方ないんです。

たいてい大学に行っても寝るか、起きてるときはPSPでパワプロをしたりで。
酷い時には友達と数人で、肌色が多く使われている本を講義中に読んでいたんですよ。
それで女子からは相当嫌われていました。


ーそれは嫌われますよ(笑) せめて家で読んで下さい(笑)

そんな感じで4年どころか、1年の最初で学校に飽きてしまったんです。


ーADHDのひとところに留まれない特性がある感じですね‥
サークルには入っていなかったんですか?


ーバンドサークルでボーカルをしていました。
ですがメンバーと意見は合わないし嫌われているしで、居場所がなくなり辞めました。

学校も1年の7月までは行っていましたが、夏休みを挟んでしまって9月から行かなくなりました。
大学の学費も奨学金を借りていてそれもギリギリだったので、それなら辞めようと思ったんです。

結局12月に除籍という形で辞めることになったんです。


ー9月から12月まではどうしていたんですか?


ー大学の授業には出ずに友達と遊んでいました。
あとはピザ屋のバイトと、
学習補助員のバイトで中学校に教えに行っていました。


ーなんか本当に色々していますね。
それで12月に除籍というか退学して、
そこからはどうしていくんですか?


ー1月までピザ屋で働いてから、2月に福岡に戻ることにしたんです。


ー自分で福岡を出たのに戻るんですか?


ーはい。当時、福岡の博多や天神などでアパレルの仕事がしたいって思っていたんです。


ーなぜアパレルだったんですか?


ー美容学校のときの友達がアパレル系で働いていて楽しそうだと思ったことと、接客が好きだったからですかね。

それで2013年2月ですかね。
福岡に戻って、福岡で一人暮らしを始めたんです。


ー実家ではないんですか?


ー戻れるはずがないですよね。(笑)
大学中退したことだけ報告したら
「お前と一緒にいると気分が悪くなるから帰ってくるな」
って言われましたし。

それで実家から車で20分程のところでアパートを借りて一人暮らしをまた始めました。

それで博多や天神にアパレルの面接をいくつか受けに行ったんですが、全て不採用だったんです。


ーなにか不採用の原因とかはあるんですか?


ー自分がパッパラパーだったからですかね、
学校を2つ辞めていますし、金髪ロン毛でしたし。
あとは接客がしてみたいというだけで、
自分は服のブランドなんて全く知らなかったんです。


ーある意味度胸があるというかなんというか‥

ただ一人暮らしで生活費もかかるので早く仕事は決めないといけないですよね?


ーそうなんです。
焦っていたときにスーパー時代の後輩に会って、
「今スーパーが人手不足なんでバイトしながら仕事探ししませんか?」と言われたんです。

生活がやばくて選んでいる余裕もなかったのでスーパーでのフリーター生活がスタートしたんです。

つづく
#自己紹介
#学生時代
#会食恐怖症




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