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犯罪被害が家族に与える影響。

加害者が、裁判員裁判から
「性犯罪はどうやったら、なくなるのでしょうかね?」という質問の答えに
「小学生、いや小さいころから性教育をすることと、社会が潤うこと」と答えていた。

私は、その答えに全く納得が出来なくて、確かに周りの教員(高校の時の同級生の高校の応用化学教員)に聞いても
「性教育の授業って、めちゃくちゃセンシティブで避妊の方法とかを具体的に言うことすらもためらわれるような問題なんだよ、それを未就学児に教えるって、やばい問題に発展してもおかしくないわ」と言われたことがある。

そもそも、大体の男女も性犯罪をしちゃいけない教育など受けていないのだ。無断で、人の体に触れてはいけないとか、性的に嫌悪感を抱かせることをしてはいけないということは、家庭内の教育や学校内での集団生活の中で、道徳規範を学び、法規範としてもやってはいけないと思って暮らしているはずで、「性犯罪は、〇〇だからやっちゃいけない」どころか、
「殺人は〇〇だからしてはいけない」ということを日本国民のほぼ100%近い人が説明され、納得したからしていないのではなく、全国民の共通意識の中でやってはいけないと、明文化はされていないけれど、そう分かっているのだ。
また、「社会が潤ったら・・・」という点においても非常な疑問がある、
「社会が潤っていない=性犯罪」にどう結びつくのか、せいぜい理解できるのは、社会的に弱者であって明日の生活費もないから切羽詰まった状態の極みで窃盗を働いてしまうというくらいで、性犯罪に関しては分からないのだ。加害者は「休日出勤で腹が立った」というが、それも本当かわからない上に、事件が発生する5日前からの勤務なら事件の日は土曜日であったが、出勤しても休日出勤にならないんじゃないか?18時には仕事が終わっているという時点で、ホワイトではないかと思ってしまっている。
じゃあ、当時8時半から夜23時までで、月に残業100時間をゆうに超えていた主人が、「うっわ、こんなに残業させられて社会がおかしい、犯罪しよう」と思ったことはないと、主人に聞いたら言っていた。
そういうことなのだと思う、とりあえず「社会のせいにしてやろう」という魂胆が丸見えで、5日目の労働で「休日出勤、腹立った。女襲ったろ」という思考回路になるのは、通常の状態ではないのである。
以前、私はサイコパスと反社会性パーソナリティ障害の研究をしていたのだけれど、脳の機序であるとか様々な論文を読んで、一時公開していたけれど、「もうこんなこと書いててもしょうがない、何もならない」と思って消してしまった。
カナダのロバート・D・ヘアという犯罪心理学者の人の本を読み、北九州監禁殺害事件や尼崎事件の研究をしていた。どこかの研究所に属していたわけではなく、独自に研究をしていたのだけれど、北九州監禁事件は松永太がまず、共感能力の低いサイコパス気質の人間であるが、そのあとに共感能力があったであろう内縁の妻、その家族までもが犯罪を犯していく、偽サイコパス状態になるのは一体どういった機序なのかを調べていた。
サイコパスと反社会性パーソナリティ障害は似て非なるものがあって、脳の構造が異なってるなどを画像を見て思っていた。
少し前の記事にも書いたけれど、車で1時間半くらいかかる場所にはなるが犯罪心理学科のある大学があり、私はそこに行きたいと思っていると。
現在35歳で、学業からも資格勉強程度でずいぶんと離れているけれども、勉強したい、犯罪がなにゆえにして起こるのかの機序を知りたいと。
もともと、私は理系の学校に通っていて応用化学を学んでいたので、文転するということを人生で考えたことがないけれども、犯罪被害に遭ってから、犯罪被害者の置かれている現実というものはたくさんの人たちとのかかわりでよくわかることが出来た。化学の世界や物理の世界で、数式を解いていけば答えが出ないということはなく、順序を間違えなければ確実に答えに至る。けれども、犯罪心理学という人の心の移ろいのようなものは、答えというものは出てこないと思っている。答えを持っているとしたら、その罪を犯した犯人しか知りえないことで、取り調べで答えたことには警察の作り上げたストーリーがあっただろうし、検察にもそれがあったと思う。刑事裁判にしてもストーリーが用意されていたように感じる。
実際に加害者が本心を全て語ったかというと、私はそうとは思わない。
それっぽい、「教育が悪い」「社会が悪い」「親が離婚したことが悪い」
「いじめにあったことが悪い」というのは、実際の犯行に至る道筋にはあまり関係がなく、生まれ持った器質であるとか衝動性の問題、知的境界域などが大きく関係していて、罪を罪と思わない特に性犯罪や暴行、恐喝などの衝動を大きく伴うものに「あのとき、いじめられたから・・・離婚したから・・・」と思って、犯行に至っていないと思う。
そのあたりを学術的に知りたいと思うけれど、重ね重ねだけれど主人は反対している。
「あなたが、一生、犯罪というものに取りつかれて大学に行く4年間を費やした上にその後も取りつかれ、答えを求めることは想像できる。それでメンタルがよくなることは、あなたの性格上ない。」と。
主人は極めてしなやかな論理的思考を持っているので、
まあ、仰る通りの言葉だと思っている。私の子どももあと3年もしたら、大学に行くだろうし、そうすると二人分の大学費用だけで1000万くらいはかかってしまうなあと思うと(娘の現成績では若干国公立は厳しいため)、私は地道に犯罪被害者の権利の拡充の活動をして、未来を担う娘に大学に行ってもらった方がいいと思う。
娘の年齢にもなれば「ママって、ずっとあの日の被害のことを気にしている。私が1人で学校に通うことも恐れて、極度に心配する」と思っているに違いない。高校に入学したとき「毎日、送り迎えした方がいいんじゃない?」と主人に言ったら、「説明会で言っていたでしょ、怪我とか病気でもない限り送り迎えは自立を阻害するからダメだって・・・」
確かにそう聞いたから、分かっているけれど、もしも娘が同じように力でねじ伏せられたりしたら、と思うだけでぞっとしてしまう。
この苦しみを感じさせない為だったら、なんだってやると。
イオンに行っても、「ここに無敵の人がいてもおかしくない」と思い、高校生の娘の手をぎゅっとにぎり周囲を警戒するような生活を送っている。
娘は「TwitterのDMに変なおじさんから変なメッセージが来た」などを教えてくれているから、関係としては良好にあると思うが、本当に心を切り刻まれるような深刻な被害に遭ったら「言えない」んじゃないか、ひょっとして実は言わないだけで何か嫌なことがあったんじゃないかとか、精神病器質的レベルで疑ってしまう自分がいる。その都度、主人は「大丈夫だから、大丈夫、何かあったら、絶対に何とかする。」と私を幾度となくなだめてくれている。極度の心配性になってしまったのは、私が高校生の頃に「お父さんの友達なんだけど、迎えに行ってって頼まれて」とバイト先に知らない男が来た、けれども後から聞けば「いや、お父さんはそんなこと頼んでないし、そいつが誰かも知らない」ということだった、車の中で「若いっていいね、若いっていいね」と言って、太ももを撫でられたという経験があり、疑うことを知らなかった私もわるいけれど、一歩間違えたら拉致されて殺されてたんじゃないかくらいに思う。娘は私と性格が似ているので「道を譲ってくれた、いいひと!」と短絡的な所がある。高校生の時の自分を見ているようで非常に危なっかしく、人を簡単に信じてはいけないと悲しいことを教える毎日だ。私が生まれた年くらいにおこった宮崎勤の事件から、公園に一人で遊びに行くことも、塾に行くこともできない社会になった。重大犯罪によって社会の状態が移ろい、近所の人ですら危ないと疑わなければいけなくなったことの一端にはやはり犯罪というものが関係していると思うと、この家庭という小さな社会の中で、「娘が性犯罪やほかの犯罪に巻き込まれたら・・・」という考えを常に持ち過覚醒状態になっているのは、仕方がないことかもと思いながらも、親離れ子離れが果たしてできるのかというところまで深く深く考えてしまう。

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