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奪ったものを返さない犯罪者。

私は、事件に遭う前に2年間祖母の介護をしていた。
2人目の子どもが欲しくて、落ち着いたら2人目を作ろうと思っていた。
しかし、事件に遭ってしまい痛みから薬を手放せる生活ではなくなった。
産婦人科で生理痛がひどいから、ピルを処方してほしいと相談に行ったとき、「私はこういう障害があるのだけれど、妊娠前に妊娠期間中、出産後は痛みを我慢してでも、2人目が欲しいのです」と話した。
婦人会は「あのね、もう1人いるんだからいいじゃん。痛みを我慢して本当だったら、ずっと飲まなきゃいけない薬でしょ?世の中には1人目も授かれない人もいるんだから、一生ピルを飲んで生きていったら」と言う言葉が返ってきた。
私は、子どもが大好きで、1人目の今高校生の娘を生んだ時からもずっと、母乳で育てて、泣いたらすぐ抱っこをして「〇〇ちゃんが〇〇ちゃんだから、大好きなんだよ」とずっと言ってきた。娘はアスペルガー症候群(現在は自閉症スペクトラム障害)があるため、ひどい変食や服の色や素材のこだわり、言葉も4歳まででない、4歳まで夜泣きをする子だった。
4歳まで、夫婦そろって朝まで寝たことは1度もなかった。
それでも、不思議なことにイライラすることもなかったし「泣きたいから泣いているんだよね」と夫婦で思っていた。
祖母の介護も逝去によって終わり、当時まだ24歳だったのでこれから2人目が欲しいねと話していた。

事件に遭ってから、腰をかばって歩くからか足の付け根の軟骨が削れてしまったり、圧迫骨折の後遺症でずっと腰が痛く、足もしびれる。
それでも、10か月、授乳期間は痛みを耐えることが私にはできると思っていた。だから、色々な医師に聞いても「妊娠は出来たとしても、おなかが大きくなると腰に大きな負担がかかるから、諦めたほうが良い」という答えだけが返ってきた。
今、35歳で娘は16歳。学生で結婚して、ごく普通の家庭を手に入れて
私と主人の思うような家庭を築くことも、犯罪被害によって壊されてしまった。上記に書いた、「1人生めたんだからいいじゃん」と言う言葉は、私にとって女性であることを事件で否定され、婦人科医にも否定されたと思った。今日、「35歳2人目」と検索をした。
「一生、後悔することになるかもしれない」と言う言葉が出てきたときに、
私は「一生、後悔するのかな」と言う気持ちになった。
主人も娘も「もう年も離れ切っているし、俺は育児があと数年で終わるって思っているから、昔みたいに2人目を考えられない」と言う言葉が何度かあった。私自身、主人の気持ちも娘の気持ちもわかる。
私は、手に入らないとわかっているからこそ、それを望んでしまうんだろうな。ないものねだりなんだなと言う風に思った。
もしも、事件に遭っていなかったらと考えると2人目を生んで普通に暮らしていたのだと思う。そういった、直接的に被害を与えるだけにとどまらず、
人生のプラン全体にも被害を与えるということはとても許せない気持ちになる。数回主人が「養子でもいいんじゃないかな」と言ったことがあった。
私にとって、血縁と言うものは重視するべき点ではあまりないのだけれど、
当然、出来ることならば主人の子どもが欲しい。
でも、家庭が無い子どもを引き取るということも社会福祉の1つとして候補の1つに入れてもいいのかもしれないと思ったけれども、やはり自分の中では「あんなことさえなかったら」がいつだって、心の中を渦まく。

「今、僕のいる場所が望んだものと違っても」と言う歌詞があるが、
私は、今自分が置かれている場所や待遇を受け入れなければいけないんだなと言う風に思っている。
昨日医師から言われた、「人は変化がないほうがいいと思うけれど、変化がないということはとても恐ろしいことで、加害者に変化を求めることは死んでしまった今は出来ない、だからあなたが何か変わっていくように」と言われた。

私の中で少しずつ、あすの会への入会申し込みや市のボランティアで家族会のようなものが作れないだろうかと考えたりしている。
加害者に対することでも、性犯罪と言うものがどれだけ人の尊厳であったり精神的、けがをさせていたら体にもダメージを与え、一生消え去る傷が残ることの重大性を話す機会が設けられないだろうかと考えたりもする。
私は、能動的に生きられると思っている。
やりたいように、したいように、周りの理解を得ながら活動することができたらならば、自分の存在と言うものに大きな価値が出来て、事件に遭った悲しい現実から抽出して、同じような人の励みになるかもしれない。

昨日も心療内科で話したように「10年と言う月日が、一方的に奪われたことにはとても不条理を感じる」と言う言葉。

医師が「加害者が死んだって、その親に仇討ちをしたとしても、あなたの10年も返ってこないうえに、違う苦しみが生まれてしまう。あなたはいつも、それを分かっていて言葉を紡いでいると思う。いろいろなことに絶望してしまったと思う。抱きつかれた感覚やその時の繊維の感じ、暴行を加えられたときの痛みはきっと、一生消えることはないと思う。人は、言葉で言われたひどいことよりも体に与えられたことは死ぬまで覚えているから」と言っていた。

私自身、いまだにフラッシュバックであるとか、パニック発作に襲われている。2年前に会社を退職したのだけれど、精神安定剤を飲まないと会社に行けないようなそんな精神状態だった。
自分がどこかで「あの人、性犯罪に遭ったんだって」と言うことが漏れてもおかしくない環境だったのだ(同僚に娘と同じ学校の人がいたため)
それにびくびくしながら、もしもそれが分かってしまったら、どうやって生きていけばいいのか全く分からなくなるだろうと思った。
会社を辞めたきっかけは、セクハラ被害で労働組合に訴えて人事の聞き取りの結果、該当社員は降格の処分になった。それを見届けて、私は退職をした。機密書類を保管してある小さな倉庫に該当社員が入ってきて、私に抱き着いたりしたことで、私の中で堰を切ったかのように色々な感情が沸き上がってしまった。この件に関しても、警察に被害届を出そうと思ったけれどもも、これ以上、裁判であるとかで戦うだけの精神的なゆとりもなく、処分と言う形で終わらせた。
人は、自分より弱く、誰かに言わなさそうな人間を狙って性的なことをするんだということを改めて痛感したことでもあった。

私は、腕力もない。男の人に力でねじ伏せられたら対抗するだけの力もない。基本的に無口で、おとなしいと言われる性格で比較的、人が失敗しても「失敗したから、つぎからこれをやらなかったらうまくいくって分かったね」と言うような、比較的ゆとりのある人間だった。
事件後に友人と会ったとき「〇〇ちゃん、性格変わったよね。すごくきつくなったというか」と言うことを言われたことがあった。
常に、過覚醒状態で臨戦態勢の状態ならば、そう思われたって仕方ないと思った。色々な友人が慰めの言葉をかけてくれたけれども、その言葉すべてが私にとって「何が分かるの?死んでなかったから何が良かったの?」と思いながらも「そうだね、ありがとう」と返した。

昨日、主人に「〇〇くん、いつも私に事件のことで言葉をかけてくれていたけれど、善意で言っているって分かっても、正直私は傷ついていたこともあった。」と事件の話の流れの中でそう言ってしまった。
主人は「だったら、何も言わないでいたらよかったわけ?言わないなら言わないで、絶対に齟齬が起きるでしょ。うつ病の人に「がんばれって言わないように」みたいなものだと思うけれど、誰しもに感情はあるんだよ。
一番つらいのは分かっているけれど、家族みんなが被害者なんだよ」と言う言葉に私は、とても傲慢なことを言ったと反省した。

今、2人目を持つことはもう年齢的にも娘の年の差を考えても、諦めている。娘が成人したら、2人でどこの山を買って古民家で暮らそうと話している。もしも、人生が2回あって記憶を引き継げるならば、私はわがままの極みを言ったかもしれない。でも、1回しかないから、わがままをいうことはできない。ただでさえ、迷惑をかけた家族に対してどうやって償っていけばいいのかの具体策も浮かばない今、いまだに壁と言うものは実際に存在していて、何も繕わずに気持ちを共有できるようなレベルには達していない。
いつまでも加害者を恨み続けるとは思うけれども、その気持ちをずっと持ったままでは家族と気持ちを1つにした暮らしと言うものは難しいと思う。

今日、犯罪加害者家族の現状と言う記事を読んだ。
どうして、当事者の親というだけでこんなにネット上などで誹謗中傷をされなければいけないのかと言う記事だった。それは少年犯罪だったので、通常の事件とは違うかもしれないけれど「自殺してしまいたい」と思ったと書いてあった。私はそこに、「自殺したいと思うのは被害者遺族だと思うよ」と思ってしまった。ネットに誹謗中傷を書いたことはないが、自己憐憫なだかのではないかと率直に思ってしまった。未成年の子どもであれば当然、親が見ていなければいけないし責任がある。夜遅くに出かけることを止めないことも私にしてみれば、理解不能の領域であるし、思春期の子どもの心のうちのすべてを知らなくとも、行動を見ていれば分かることはあると思う。
事実、自分たちが犯罪者を育てたのだから、とくに少年犯罪である場合は
賠償責任も親にある。子ども自身が犯罪者であるけれども、親も犯罪者ではないのかと思った。こうやって書くと「真面目に更生している前科のある人の人権が」と言う人もいるだろう、その人が更生したかどうかはその人の人生が終わるまで確定したものではないと思っている。中には誰も傷つけない犯罪もあるかもしれない、いつかの事件で捕まりたいから「一万円札をコピーした」と言うものがあったが、そこには被害者はいない。そういった犯罪であれば、被害者がいない以上、税金が使われるのみで苦しむ人はいない。だけれども、恐喝、強盗、強姦、強制わいせつ、特殊詐欺などの被害者が発生している犯罪で「更生」と言う言葉を司法が持ち出すこと自体がおかしydいと思う。そもそも、「あの人は罪を犯したけれど、更生したからえらい」と言う論調はおかしく、「ふつうは、犯罪を犯さず真面目に生きている人がえらい」のである。私は、前科のある人に対しても関わる際には「がんばっておられますね、その調子です」と言うけれども、絶対に罪を犯さないなんて言うことは思ってはいない。この世には絶対と言うものは存在しないからだ、1度でも罪に手を染めてしまった人の、再犯のハードルは実際低いわけなのだからそう考えたら、簡単に1年、5年、10年犯罪に手を染めていないからと言って、更生したと思うことは犯罪によって尊厳を奪われた身からすると、馬鹿言うなと思ってしまう。
今日はとても辛辣なことを書いたので、「あんまりじゃない?」と思われるかもしれないけれども、これが私の本心です。

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