執筆の楽しさ


昨夜はプロットは出来ていた小説を2,000文字書いて、菓子パン食い散らかして寝たらしい。

なーにやってんだ。

どちらかと言えば今はただ鍛錬がしたいので、賞金などなんだのより講評してもらえるコンペ探してる。
とはいえ、世の中それすら選考の元行われるらしい。そりゃそうだ。一人ずつやってられんよな。

私は今、壮大に右手をイカれさせてから精神科医にも止められて絵を描くことをとめているのだけど、それの欲求の捌け口が執筆と造形に向いてる。

正直回りくどい。私の好きな、瞳の開き方で寂しさを表現する挑戦とか、開き切らない手で躊躇いを表現するだとか、絡み合う手に遠慮を持たせるとか、そういう言語の要らぬ、描写による美しい人間の所作を封じられると 

ああ面倒臭えなあとなる。

これって現実でも言えることだよね。100万文字の言葉よりハグ一回が勝つことってあるよね。

でも小説にも良いところはある。昨日書いていて気づいたことなのだけど、伏線を張り巡らせる行為、楽しいわ。
あれ、読んでる側が気持ちいいだけかと思っていたけど、書いてる側も気持ちいいらしい。
不穏な結末に向かって平穏パートの中に違和感を書き巡らせるのはなんと楽しいことだろう。
こうして見ると、私の大好きな映画というものに成り立ちは似ているのだなと感じる。

一見善良な母親をいかに最後にひっくり返すか、そして後から考えて見ると初めから怪しさ満点にするか、そしていかにそれを悟られないようにするか…
楽しい。

それにしても、創作全てに言えることだけど、
センスだの知識だのの前に、評価されなかった時
「わかんないかあ〜〜」とか
「私に時代が追いついてないな〜〜」って
舐め腐った態度を取れるか否かってすごく大事だと思っていて。

いちいち自分はダメなんだとか思ってたら持たないのがこの世界だなと思う。そういう点では私は適性がありすぎる。

でもよく考えてもみてくれ。どんな巨匠にもアンチはいる。
私も良さがわからん巨匠はゴロゴロいる。わからんもんはわからんのが芸事の世界なのだから、そのわからんが99%を占めていても世界の真理かもしれないから。

とりあえず今の目標は、代理ミュンヒハウゼンの物語を完成させることと、数ヶ月かけてる詩集を完成させること。
詩集は、せっかくだし本にする。一冊だけの自分だけの本。
画集の時利用したけど、結構簡単に出来るんですよ。

つくるってたのしいね。

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