物象化論の継承的拡張と現代資本主義(注1)――   石塚良次

《本稿は注に記したように、「第5回廣松渉国際シンポジウム」(2017年)の報告原稿が元になっている。国際シンポジウムと銘打ってはいるが、聴衆の半分を占める外国人のほとんどは中国人の研究者だった。
したがって、本稿の内容については、シンポジウムのそのような性格と与えられた課題に制約されている部分がある。そのため現時点での筆者の考え方とは若干異なる部分がある。そのことを予め申し添えて置く。》

2022年8月14日、追記

1はじめに――「モノからコトへ」


 廣松渉の著書『哲学入門一歩前』の副題である「モノからコトへ」という命題が、近年、とりわけマーケッティングなどの領域で頻繁に使われるようになっています。たとえば、財務省が2015年に出した報告書『財務局調査による「個人消費の動向」』(注2)などでも、消費動向として「モノ消費からコト消費へ」という流れがあることが指摘されています。また総務省の報告書『「コトづくり」の動向とICT連携に関する 実態調査研究』(注3)でも、廣松の名前をあげて「モノからコトへ」の流れを分析しています。
 しかし、廣松の事的世界観そのものが人々の注目を集めているわけではありません。(注4)そこで語られているのは、かつてのようにモノとしての財の所有に価値を見出す消費ではなく、財やサービスを購入したことで得られる体験(コト)に価値を見出す消費が増えてきた、ということです。「モノ」と「コト」については経済産業省の『平成27年度地域経済産業活性化対策調査報告書』では次のように説明されています。「モノ消費」とは、「個別の製品やサービスの持つ機能的価値を消費すること。価値の客観化(定量化)は原則可能。」これに対し、「コト消費」とは、「製品を購入して使用したり、単品の機能的なサービスを享受するのみでなく、個別の事象が連なった総体である「一連の体験」を対象とした消費活動のことである。」
 かつては中国人観光客が日本で沢山の商品を買い込む、いわゆる「爆買」が話題になりました。しかし、その後、リピータが増えるにしたがって、モノを買って帰るのではなく、様々な体験を楽しむ観光に変わった、と言われています。日本人の消費動向について言えば、上掲の総務省の報告書では、1980年代半ばに、消費者のニーズがモノからコトへと変化したとの指摘があります。この時期、ボードリヤールBaudrillardの「記号の消費」という考え方が流行しました。消費者はモノとしての商品を消費するのではなく、記号としての商品を消費する、というのです。ボードリヤールが指摘したのも、モノ消費からコト消費へということでしょう。そのような文脈で使われる「モノからコトへ」は、中国人観光客の場合でも、あるいは日本の消費者の消費動向の場合でも同じなのですが、富裕化にともない、物的消費財の消費が飽和し、サービス消費の比率が上昇している、ということを示しているに過ぎません。
 これに対し、廣松の事的世界観はそのような消費動向の変化ということとは直接の関係はありません。廣松の言う「モノからコトへ」は、人々の目にはモノの集合であるかに見える世界は、物象化的錯視の結果であり、世界は本来、関係としてのコトとして存在しているのだ、という世界観です。錯視といっても実在しないという意味ではなく、物象化された世界は我々を現実的に拘束しているという意味で実在しております。
 したがって、近年の流行語である「モノからコトへ」は、たしかに廣松の命題を言葉のうえでは踏襲しているかにみえますが、その意味するところは異なります。先に紹介したような「モノからコトへ」という命題は、現代資本主義の表層の変化を捉えたものに過ぎません。我々はそのような表面的な理解を超えて、その背後にある資本主義の構造変化をとらえなければなりません。では、その背後にある資本主義の変化とはどのようなものか。上述したように、人々の消費動向の「モノからコトへ」の変化の背後にあるのは、先進資本主義国におけるフォーディズムの終焉です。フォーディズムのもとでは、自動車や家電などの大衆消費財という物的財の消費が主軸でした。しかしながら、そのフォーディズムの終焉にともない、消費は物的な財の消費からサービスの消費のウェイトが増してゆきました。他方で資本は、モノの生産・販売から利潤を得ることが難しくなり、あらたな利潤の獲得領域として金融産業が大きな役割を果たすようになってきました。

2 ピケティの資本概念と資本論の物象化論

では、そのような現代の資本主義の変化はマルクスの『資本論』の立場からはどのように捉えられるのでしょうか。
 今から3年前、2014年にピケティThomas Pikettyの『21世紀の資本』が世界的なベストセラーになりました。この本は中国語訳では『21世纪资本论』となっていますが、マルクスの『資本論』とはほとんど重なるところがない本です。唯一共通点を見出すとしたなら、資本主義においては「資本」を持つ者と持たない者との間での不平等が資本蓄積とともに拡大する、という認識です。(ただし、「資本」の定義はマルクスとピケティとでは異なります。)
 ピケティの『21世紀の資本』は、世襲資本主義、不労所得社会への批判です。ピケティの資本概念の捉え方がマルクスと大きく異なるのは、まずはこのような問題意識の相違に由来します。ピケティは、相続財産がその所有者に不労所得をもたらし、そしてその財産が相続されることで世襲資本主義を生み出すことを批判する、という問題関心から、富を生み出すものを[資本]と捉えます。ピケティが、狭義の資本のみならず、不動産をも彼独自の[資本]概念に含めてしまうのは、それらがいずれも相続可能なモノであり、そのようなモノが自己増殖することにより、資本を持つ者と持たざる者との格差が拡大してゆく、という現象を捉えようとしたことが理由です。
 このようなピケティの関心をマルクスの視点から捉え直すならば、まさにモノである資本が利潤を生み出す、という資本主義のフェティシズムが現代の資本主義においても格差拡大の原因である、ということになります。本来は関係であるはずの資本がモノの形をとる。モノの形をとるがゆえに、それは所有の対象となり蓄積され相続されるようになる。関係のままでは売買したり蓄積したりできません。ピケティの議論で興味深い点は、彼が徹底して不労所得者を批判している点です。邦訳書では「不労所得者」と訳されているフランス語は「ランティエrentier」です。資本の収益はレントになり、資本所有者はランティエになるというのです。(注5)
 しかしながら、これはマルクスの用語法とは異なります。ピケティのレントには資本利潤と地代Grundrenteが区別されることなく含まれます。したがって、資本がレントを生み出す、というピケティの考え方は、利潤概念と地代概念の混交ということになるのですが、見方を変えていうならば、ピケティのそのような考え方が生み出される背景として、現代資本主義のもとでの物象化の新たな発展があると考えられます。
 マルクスは『資本論』の末尾で三位一体範式を批判します。すなわち、資本が利潤を生み、土地が地代を生み、労働が賃金を生む、という本来は異なるそれぞれの関係を生産要素と所得との関係として並置する常識的な考え方を批判します。資本と利潤との関係は、利潤から利子が引かれた部分が企業者利得として、あたかも資本家の労働所得であるかのごとく観念される結果、さらに資本-利子へと転化します。金融化した現代の資本主義は、マルクスが倒錯視として批判した生産過程から切り離された資本そのものが利子を生み出す、という物象化をより高度化した形で作り出しています。ひとたび、資本が生産過程から離れ、それ自身が利子という所得を生み出すことになるのであれば、生産過程から遊離しているという意味で、土地が地代という所得を生み出す、という関係と同じと見なされます。資本も土地も生産過程に直接関わらず、ただその物件Sacheを所有している、ということによってその所有者に富をもたらすからです。
 ここで注意すべきは、資本主義という経済体制にとっては、そのような物象化は不可避である、ということです。後述するように、資本主義は株式会社制度によって、現実資本とは切り離された譲渡可能な株式という擬制資本を作り出します。同様にして債権も証券化されます。リーマンショックの一因となったように債権をも譲渡可能なモノにして流動化させます。そのことによって、それらが本来どのような債権債務関係によって作り出されたのかが、帳簿上から消えて不可視になります。これらは、いずれもより高い利潤率を求める資本の運動が必然的にもたらした物象化です。
 産業資本主義の段階であれば、資本はまだ生産過程と不可分に結びついていました。しかし、金融資本主義へと変容することにともない、生産過程からは切り離された貨幣資本それ自身が利子所得の源泉となり、物象化はより高度化します。生産過程から切り離され、それ自身で利子所得を生み出す資本は、譲渡可能なモノとして親から子へと相続される。その所有者は、生産過程に係わることなく利子所得を得ることができ、生まれながらに不労所得者としての生活が保障されます。そして、その一部を消費し、残りをふたたび蓄積することにより[資本]の額は増大してゆきます。そのことを表したのが、ピケティのいうr>gです。
 これはおそらく、近年、変容をとげた資本主義を認知資本主義と捉える論者たちが「利潤のレント化」とよんでいる事態と同じことだと思います。「利潤のレント化divenire rendita del profitto」はカルロ・ヴェルチェッローネCarlo Vercelloneが提唱した概念(『価値法則の危機と利潤のレント化』 La crisi della legge e valore it divenire rendita del profitto)です。(注6)土地が生産過程において機能を果たさないにもかかわらず地代を生み出すのと同じように、資本もまた生産過程において機能を果たさず、利潤を生み出すようになるというのです。このような事態は、「認知資本主義」と彼らがよぶ資本主義の現段階において生じると彼らは言います。(彼らの言う「認知資本主義」の細かい説明は省略します。)

3 金融資本主義の成立と物象化の発展


 時間が限られておりますので、詳細を説明することはできませんが、1970年代に資本主義が大きく変容したということは経済学者の共通認識だと思います。そのような資本主義の新しい段階は、上述したように認知資本主義とよばれたり、あるいは金融主導型蓄積体制とよばれたりしますが、ここでは金融資本主義とよんでおきます。
 『資本論』でのマルクスの物象化論の特徴のひとつは、商品が貨幣を生み、貨幣が資本を生み出すという形で、物象化が重層的に発展するということです。その過程で、富が生産から生み出される、という関係が隠蔽され、生産とは切り離された物象自身が価値を生み出すという物象化が生じます。
 市場経済が成り立つためには、貨幣を介した交換が不可避です。貨幣は金であれ、紙であれ、あるいは情報であれ、その背後にある制度がそれらを貨幣として流通させます。そのような貨幣信用制度は資本主義の発展とともに進化してきました。貨幣や信用制度は資本の労働に対する支配の装置として進化してきたのですが、貨幣が搾取の装置として機能するために重要なのは、それが希少である、ということです。貨幣はそれが希少であるかぎりにおいて、一部の人がそれを独占的に所有し、その所有から排除されたひとを労働者として雇用するという資本主義の生産関係を作り出すことができます。金本位制のもとで貨幣の希少性を担保していたのは金が希少であるという自然的事実でした。しかし、資本蓄積の発展はジレンマを生み出します。貨幣は希少であるから貨幣として機能するのですが、経済成長とともに流通に必要な貨幣量は増加してゆきます。金貨幣だけでは成長に必要な通貨を供給しえない。したがって利潤を獲得する機会を拡張しえない、ということで信用貨幣が生まれます。
 信用貨幣は、生まれた当初は、金を裏付けにしていました。しかし、やがてそのような貨幣制度のもとで資本主義の再生産過程が安定的に進行するにともない、金の準備をもたない貨幣が流通するようになります。ひとびとは金というモノではなく、制度によって作り出される貨幣を受領するようになったのです。そのような制度の実効性を支えているのは、それが現実に拘束力をもち、したがって、他者がそれに従うであろうという予想を人々が共通して持ちうる、ということです。人が貨幣を受領するのは、自分が受けとった貨幣を他の人々もまた自分と同じようにそれを受けとるはずだと予測するからです。なぜそのように予測するのかといえば、自分と同様に相手もまた制度によって拘束されていると認識しているからであり、換言するならばそのような物象化的なシステムの安定性を信憑しているからです。

 1929年に資本主義システムを襲った恐慌が、貨幣制度の変革を促進させました。生産能力の拡大に応じる需要の増大を支える貨幣供給を実現するためには、金とのつながりを断ち切る必要がありました。貨幣の希少性を政策的に緩和することによって成長を維持しようとする仕組みを作り出したのです。これが管理通貨制度です。金という物質の希少性に基礎をおく貨幣制度は、一国の内部では兌換制から非兌換通貨制度に替わりました。
 しかしながら、国際的な通貨制度としてはアメリカのドルだけが金とつながるという金ドル本位制が第2次大戦後のブレトンウッズ体制においても続いたのですが、1971年にはそのつながりも切断されました。ドルを中心とした国際的な決済システムが構築され、長い間運用され続けたことにより、国際的な決済においても国内と同様、もはや金に頼ることなく、制度そのものが安定的に運用されるようになりました。
 他方で、19世紀後半以降の資本主義の重化学工業化は、増大する固定資本をファイナンスする仕組みを発展させます。上述したような銀行信用の仕組みは、流動資本を融通する仕組みとして作られたものであり、長期の固定資本のファイナンスには適していなかったからです。そこで大きな役割を果たしたのが上述した株式会社制度なのですが、その要点は株式市場を作り出すことによって出資証券である株式を売買可能、譲渡可能な金融資産にしたことです。関係としての会社そのものがモノとして譲渡可能な資産に組み替えられました。
 その後に続いた金融資本主義の発展は、物財の生産から利潤を生み出すというそれまでの産業資本主義の限界への対応でした。資本は物財の生産からではなく利潤を獲得しうる新しい仕組みを作り出す必要がありました。金本位制の最終的な廃止は、そのような新しい資本主義に都合がよいものでした。中央銀行に準備reserveされたのは、かつてのように金ではなく、その多くは政府の発行する国債です。実体経済での需要の伸びが行き詰まった結果、政府の財政支出が需要を支える構造が定着します。そしてそれをファイナンスするのが中央銀行による緩和政策です。市中銀行は、企業や家計に融資をすることによって、貨幣を造り出すことができます。信用創造です。そのための準備が中央銀行に積まれなければならないのですが、その実体は政府の発行する国債です。そのようにして作り出された多額の貨幣資本が新たな利潤の源泉になります。
 そのような過程を経て、貨幣資本が生産から切り離された場面で収益を上げる仕組みが発展したのですが、70年代以降の変動相場制のもとで資本主義市場経済が不確実性を高めてきたこともそのような変化の契機のひとつになりました。産業資本主義のもとでの金融の働きは、マルクスが『資本論』で述べたように、産業資本家が相互に遊休貨幣資本を融通しあうことによって利潤率を高める仕組みでした。その結果、産業資本の資本蓄積を加速する機能を果たしました。その意味で資本の生産過程と不可分に結びついていました。しかし、1970年代以降新しく現れたデリバティブなどなどは違います。よく知られているものではクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)があります。保険の一種であり、リスク回避の手段ですが、その売買によって金融的な収益を生み出すことができます。
 金融資本主義のもとでの需要の慢性的な不足に対し、資本主義は債務を作り出すことにより、将来の需要を先取りする仕組みを発展させます。一方では、政府などの公的債務を増加させ、他方では労働者への住宅金融などの貸し付けにより、需要を生み出す仕組みです。そして、それらの債権は上述したように譲渡可能なモノとして売買され、金融資本主義の新たな利潤の源泉となりました。
 おおよそ以上のような過程を経て、資本主義は資本の生産過程からは遊離した資産そのものが生産過程と関わりなく収益を生み出す金融資本主義へと発展しました。資本主義の物象化は新しい段階に入ったと言えます。

4 資本主義の制度変化と物象化論――物象化論の継承的発展


以上述べてきたように、マルクス以後、資本主義は段階的に発展をとげているのですが、それは資本主義を構成する様々な制度の進化といえます。したがって、物象化論はそのような制度の存立構造、そしてその変容の仕組みを解き明かすものでなければなりません。
 そのためには、廣松が主張したようにマルクスの物象化論を継承しつつ発展させる必要があります。物象化論が現代資本主義を分析する手段たりうるためには商品・貨幣・資本のような経済的場面での物象化のみならず、より広く制度一般をも説明しうる理論として拡充されなければなりません。すでに廣松は、「マルクスの業績を継承的に拡張しつつ、「制度」の物象化、「規範」の物象化、「権力」の物象化」などをも射程に収め、「要言すれば、一切の経済的・社会的・政治的・文化的な歴史的諸形象の物象化を、統一的な視座、統一的な原理、統一的な方法のもとに論究」することを志すと書いています。(注7)
 廣松は物象化論の継承的発展に際して、役割論的構制を導入することが不可欠であると書いています。その点に異論はありませんが、資本主義経済の現状分析、あるいは変革の展望を論じる際には、廣松の議論は本質論的、原理的なレベルの議論であり、直接の応用が難しいことは認めざるをえません。
 その点に関連して我々が参照すべきは、近年の経済学における制度への学派を越えた関心の高まりです。この点については、青木昌彦について触れておくのがよいかと思います。青木の比較制度分析と廣松の物象化論とを並べて論じることは、あるいは奇異に感じられるかもしれませんが、青木自身が自らの研究が「マルクスの「物象化論」と似ている面もある」(注8)と話しています。青木昌彦がどのような経路で物象化論に関心をもったのかはわかりませんが、廣松から学んだ可能性は否定できません。青木昌彦と廣松渉は、ある一時期、出会っているからです。青木は廣松との邂逅が、「私の人生行路の方角を決める出会いとなった」と回想しています。(注9)その後、二人のたどった道は大きく分岐しました。新古典派経済学の研究を経て青木の到達した地点は比較制度分析です。それに対し、廣松はマルクスを基軸にしつつ物象化論、四肢的構造論など、独自の概念を軸に体系を構築しました。二人の方法論は大きく異なり、交わるところがないかに見えます。しかしながら、両者は共通の課題を扱っています。
 廣松と青木に共通した制度についての考え方は、制度が諸個人の外部にあり、諸個人に対し、拘束力をもった存在として実在する、という点です。(注10)青木は当初は、ゲーム理論に基づいて、たとえばナッシュ均衡のような状態を制度と捉え、制度の自己拘束力を説明していました。つまり、別の戦略を選択することがゲームのプレイヤーにとっては不利な選択となるため、その状態にとどまるというような場合です。この場合、制度は主体の外部にあるのではなく、その内部の心的な状態ということになります。しかし、その後、青木はさらに考えを進めています。そのような均衡が成立する条件として、プレイヤーの間に共通事前予想common prior が成立していることが必要だ、というのです。そしてそれは、過去の歴史的経験から形成されると言います。この場合、制度は主体の外部にあることになりますので、新古典派経済学の立場を乗り越えて理論を拡充したのだといえます。(注11)
 青木は人間が作り出した規範や法、あるいは組織などの外形物 artifact などをひとびとが認識の手段として用いることによって社会の安定性が生まれると言います。青木は従来のゲーム理論にはそのような考え方、つまり人間が何かを認知するときに外在物を重要な道具として使うという考え方がなかったと言います。このような青木の到達点は、廣松のいう共同主観性とほぼ重なる認識です。
 廣松もまた、青木と同様に、制度を人々の外部に実在するものとして捉えながら、他方で人々の営みから切り離されて存在するとみなすような社会を実体視する見方をも批判します。これは制度が人々の外部にありながらも、人々の行為の結果として内生的endogenous に作り出されるという青木の考え方と同じです。青木は、内生的であり外生的であるという性質はマルクスの物象化論と近似している(注12)と指摘しています。
 青木が開発した様々な理論装置はマルクスおよび廣松の物象化論と相互に補い合う理論であると考えます。以下、その具体的な構想と現代資本主義分析への応用について論じるべきところですが、すでに与えられた時間を大きく越えています。次回の課題としてここで降壇します。


(1)本稿は、「第5回廣松渉国際シンポジウム(2017年11月12日、中央大学駿河台記念館)」での報告用原稿を加筆修正したものである。
(2)https://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/kannai/201502/syouhinodoukou078.pdf
(3)2013年委託先:株式会社富士通総研http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/linkdata/h25_06_houkoku.pdf
(4)東利一は論文「コト・マーケッティング――顧客をコトとして捉える――」のなかで、廣松の四肢的存在構造論のマーケッティング理論への応用を試みているが、例外的な事例である。http://www.umds.ac.jp/kiyou/r/21-2/r21-2higashi.pdf
(5)ピケティは資本は「資本の所有者が働くことなく得られる所得を生み出す」(『資本』、p.440) と書いている。
(6)同様の考え方は、アントニオ・ネグリAntonio Negriやクリスティアン・マラッツイChristian Marazziにも見られる。
(7)『物象化論の構図』岩波現代文庫、p.348
(8)『青木昌彦の経済学入門』、筑摩書房、2014年、p.25。
(9)「一九五六年の東大入学時は歴史学者を目指していた。だから入学と同時に、駒場の時計台建物の中にあった歴史研究会(歴研)の部室に出入りし始めた。……角帽時代の雰囲気を残した痩身長髪で、圧倒的なカリスマ性を発散させる先輩がいた。五〇年代の反レッドパージ学生運動時代に高校退学となり、大検で東大に入り、後の全共闘時代には、名大、東大の哲学教授として学生に大きな影響を与えることとなる、廣松渉だ。/彼に大学生協でコーヒーに誘われた。何事か、といぶかると「日本共産党はもうだめだが、東大細胞でもう一度本当のマルクスを復活させる。参加しないか」と言う。……これは私の人生行路の方角を決める出会いとなっただけに、はっきりと記憶がよみがえってくる。」『私の履歴書、人生越境ゲーム』、日本経済新聞社、2008年、p.32-3。
(10)制度の実在性について、廣松も青木もともにデュルケームの「社会的事実」に言及している点は興味深い。
(11)近年、新古典派経済学批判の立場からヘーゲルを再評価する研究が現れたことは注目すべきである。カーステン・ヘルマン゠ピラート、イヴァン・ボルディレフ、『現代経済学のヘーゲル的転回』、NTT出版、2017年、Carsten Herrmann-Pillath,Ivan Boldiyrev, Hegel,Institution and Economics:Performing the social, Routledge,2014.
(12)青木昌彦、『コーポレーシの進化多様性』、Corporation in Evolving Diversity.



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