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【つの版】度量衡比較・貨幣138

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 元禄8年(1695年)から正徳元年(1711年)にかけ、江戸幕府は財政危機に対処するため、勘定奉行・荻原重秀の主導により大規模な貨幣改鋳を行いました。しかし悪貨が市場に流通して物価が高騰し、資産価値が下落する等社会不安を招き、新井白石の弾劾により重秀は失脚します。白石は幼い将軍徳川家継を奉じて幕政の実権を握り、国政改革を行いました。

◆白◆

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新井白石

 新井白石はくせきは幼名を伝蔵、仮名けみょうを与五郎・勘解由かげゆ、諱を君美きみよしといい、白石は雅号です。先祖は上野国新田郡新井村(現群馬県太田市)の土豪で、河内源氏義国流の新田義房の子・新井覚義の末裔と称しました。白石の父正済は上総国久留里藩に仕えましたが、藩主と対立して追放され、白石は貧困のうちに儒学を学びます。一時は大老の堀田正俊に仕えることができましたが、仕官の翌年に正俊が暗殺されてしまい、浪人生活は10年に及びました。

 貞享3年(1686年)、29歳の白石は朱子学者の木下順庵に入門し、元禄6年(1693年)に順庵の推挙で甲府藩に仕官します。藩主の徳川綱豊は時の将軍徳川綱吉の兄・綱重の側室の子で、綱吉からは疎まれていましたが、宝永元年(1704年)に綱吉の養子とされ家宣と改名、宝永6年(1709年)には将軍に就任します。このため白石ら甲府藩士は新たに幕臣・旗本となり、旧勢力である綱吉以来の幕臣・旗本とは対立することになったのです。

 家宣は綱吉の大老格であった柳沢吉保を隠居させ、側用人松平輝貞松平忠周を解任し、自らの小姓で猿楽師の出身であった間部詮房を側用人・老中格に抜擢します。また大学頭の林信篤を抑え、自らの侍講(学問講義役)である新井白石にその職責の大半を代行させました。ただ白石の身分は本丸寄合(無役の旗本)に過ぎず、家宣からの諮問を間部詮房が白石へ回送し、それに答えるという形で幕政に参与しています。勘定奉行には他に適任がいないとして荻原重秀が留任しましたが、正徳2年(1712年)10月に失脚させられます。まもなく家宣が薨去し、その子家継が3歳で将軍に就任すると、詮房・白石は幼い将軍を傀儡として幕政の実権を握ります。

正徳改鋳

 とはいえ、改革への道は多難でした。まず正徳2年7月、白石は綱吉が設置し重秀が廃止した勘定吟味役(会計監査官)を再設置し、綱吉以来の勘定方役人であった杉岡能連萩原義雅を任命します。旧甲府藩士には幕政や勘定方のノウハウがないため、綱吉以来の幕臣も活用せねばなりません。ついで10月には重秀を失脚させますが、翌月に家宣が薨去したため喪儀や次の将軍を立てるための儀式で忙しく、家宣の遺言として「幣制を東照宮様(家康)の制度に戻すべきである」との声明が発せられるにとどまります。

 また、低品位の悪貨が複数流通している状態で品位を戻した良貨を発行すれば、即座に良貨が退蔵され流通しなくなるのは目に見えていました。市場に流通する貨幣のうち四ツ宝銀は銀の含有率が2割しかなく、元禄金は小判の重さは慶長小判と同じ4.76匁(17.76g)ですが金は56%(金10g弱)ほどしかなく、宝永金(乾字金)は金84.29%ながら小判でも重さ2.5匁(9.33g)で、金の総量(7.7g)では元禄金にも劣ります。これらを回収して慶長金銀の制度に戻すため、白石は一時的な便法として銀鈔(銀札)の発行も検討しますが、困難を伴うとして見送っています。

 家継の元服と将軍就任から1年経過した正徳4年(1714年)5月13日、幕府は「将軍の決裁を得ず荻原重秀と内密に吹き替え(改鋳)を行った」として銀座に対する強制捜査を実行し、関係各位を処分して人員を入れ替えます。その2日後に金銀改鋳の御触れが出され、まず金貨改鋳が実行されます。

 この正徳金は、小判(1両)の重さは慶長小判と同じ4.76匁(17.76g)、品位は宝永金や初期の慶長金(武蔵墨書小判)と同じ84.29%(金14.97g)です。また正徳金1両は元禄金・乾字金の2両と等価通用するとされ、回収時は元禄金・乾字金100両につき正徳金50両に加え1両1分つけるとされました。しかし金の総量では元禄小判が10g弱、宝永小判が7.7gですから、2倍すればそれぞれ20g弱と15.4gで、正徳小判1枚に含まれる金よりも多くなります。また初期の慶長金は品位84.29%でしたが、後期の慶長小判はやや品位が上昇していたため、世間には正徳金発行に対する不満が溢れました。

 慌てた幕府は正徳金の発行と流通を3ヶ月半ほどで停止させ、同年8月2日に品位をあげた金銀を発行します。同じ正徳4年の発行ですが、次の享保年間(1716-36年)に通用した期間の方が長いため、歴史上では「享保金銀」と呼ばれます。小判は前回と同じく重さ4.76匁で、品位は86.79%に引き上げられ、金含有量は15.4gほどとなり、宝永小判のちょうど倍です。

 銀の方は慶長銀と同じく品位8割に戻され、通用銀(銀4割の永字・3割2分の三ツ宝・2割の四ツ宝)はいずれも10貫を新銀5貫と引替え(10割増)、銀が5割の二ツ宝銀は3割増、銀が6割4分の元禄銀は6割増とされます。当時流通の大半を占めていたのは最も低品位の四ツ宝銀で、これを回収するのが目的でしたが、品位の異なる3種の通用銀を等価流通させるのは無理な話で、市場では銀品位に応じて差別されました。

 また改鋳時に不足分の銀は幕府が補填することになっていましたが、そもそも金銀の産出量は低下しており、高品位の金銀は海外へ流出するか退蔵され、幕府の御金蔵の残高も乏しい有様で、悪貨回収と新銀流通は遅々として進みませんでした。なおかつインフレをもたらす悪貨であろうと貨幣流通量を急に減らせば、デフレをもたらして経済を冷え込ませます。要は重秀も白石も、急激で極端な改鋳によって市場経済を混乱させてしまったのです。

貿易制限

 翌正徳5年(1715年)には、金銀の国外流出を抑制するため「海舶互市新例」を施行し、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えます。これにより清国船は年間30艘・銀6000貫、オランダ船は年間2艘・銀3000貫まで制限され、長崎奉行所等の改革や来航期限を定めた信牌を交付することも行われました。輸入を抑えるため生糸や綿布、砂糖や鹿革等は輸入よりも国産化が推進され、商品作物が奨励されて殖産興業に繋がってはいますが、貿易額の抑制という政策自体は綱吉時代の路線を踏襲したものです。

 これに先立つ正徳元年(1711年)、家宣の将軍就任を祝うため朝鮮国から通信使が送られましたが、白石は経費節減を提言して100万両の応接費を60万両に抑えています。また朝鮮側の国書の宛先は寛永13年(1636年)以来「日本国大君」としていたのを、「大君は朝鮮では王子の嫡子の意である」とする白石の提言により古来の「日本国王」に戻しました。

 朝鮮国王は宗主国たる明朝・清朝の皇帝から冊立されており、足利将軍や豊臣秀吉は明朝から「日本国王」に冊立されたため、大義名分上は朝鮮国王と対等ですが、日本の天皇から冊立されていません。そこで白石は「日本の天皇は明朝・清朝の皇帝と対等である」とし、江戸幕府の将軍を国王の孫扱いの大君ではなく「天皇により冊立された日本国王だ」と定義したのです。このことは朝鮮や日本で議論を呼び、後年には大君に戻されています。琉球との国書でも「大君」号が問題視されましたが、この件に関しては琉球を実効支配する薩摩藩に一任されました。

白石失脚

 混乱が続く中、正徳6年(1716年)4月末に将軍家継が数え8歳で病没し、他の兄弟も夭折していたため家宣の血筋が断絶します。跡継ぎ候補としては家宣の同母弟で上野国館林藩主の松平清武、その嫡男の清方がいましたが、甲府藩士の越智家に養子に出ていたこと等が理由で反対されます。しかし彼らを除外すると秀忠・家光から続く徳川宗家が断絶してしまいます。

 そこで、徳川宗家に次ぐ家柄である尾張徳川家(家康の9男義直の子孫)か紀州徳川家(家康の10男頼宣の子孫)から宗家に養子が迎えられることになります。間部詮房・新井白石らは尾張藩主の継友を推挙しますが、家宣の正室であった天英院(近衛熙子)及び綱吉派の幕閣・諸大名の推挙により、紀州藩主の吉宗が後継者に指名されました。詮房・白石らは失脚し、詮房は越後へ転封、白石は屋敷を没収されて千駄ヶ谷に隠棲させられます。

 正徳6年は6月に「享保」と改元され、吉宗は8月に将軍に就任して幕政改革(享保の改革)を開始します。白石らが推し進めた改革の多くは白紙に戻されますが、改鋳事業と貿易制限政策は続行されました。複数の品位の金銀が混在して流通する状態はなお続きますが、正徳改め享保金銀は次第に流通していきます。しかし貨幣流通量の減少は結局デフレをもたらして経済を低迷させ、吉宗は対応に苦慮することになります。

◆DEF◆

◆LEPPARD◆

【続く】

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