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【つの版】ウマと人類史19・鮮卑勃興

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 東胡の残党のうち、シラムレン流域に住み着いた烏桓は勢力を広げて匈奴を圧倒し、南匈奴ともども漢に服属して経済支援を受け、繁栄しました。一方、烏桓の北には鮮卑という部族集団が興ります。彼らは北方に覇を唱え、のち分裂してチャイナに侵入し、新しい天下を打ち立てることになります。

◆鮮やかな◆

◆未来へ◆

鮮卑習俗

 では、前回に引き続き王沈の『魏書』を読んでいきましょう。

 魏書曰。鮮卑亦東胡之餘也、別保鮮卑山、因號焉。其言語習俗與烏丸同。其地東接遼水、西當西城(域)。
 王沈の魏書にいう。鮮卑もまた東胡の残党で、烏桓と別れて鮮卑山を保ったためそう号した。その言語や習俗は烏桓と同じである。その地は、(最盛期には)東は遼水(遼河)に接し、西は西域にあたる。

 鮮卑(上古音sar pe,sen pe)の語源は不明です。烏桓と同じく山の名に由来するとされますが、赤峰市より北であればモンゴル高原の東端の大興安嶺のことでしょうか。興安とは満洲語hinggan(丘陵)の音写ですが、山を指すモンゴル語はuul、テュルク諸語ではtagです。帯鉤(ベルトのバックル)を指すとも、そこに刻まれた神獣であるとも、諸説あって定まりません。

 常以季春大會作樂水上、嫁女娶婦、髠頭飲宴。其獸異於中國者、野馬、羱羊、端牛。端牛角爲弓、世謂之角端者也。又有貂、豽、鼲子、皮毛柔蠕、故天下以爲名裘。
 毎年春、作楽水(シラムレン)のほとりに集まって婚姻を行い、頭を剃り上げて酒宴する。チャイナでは珍しい獣として、野馬、羱羊(角の大きな羊)、端牛(一角獣?)がいる。端牛の角は弓の材となり、世にいう「角端の弓」とはこれである。また貂(テン)や豽、鼲子がおり、その毛皮は柔軟で、天下はこれを上等な皮衣として珍重している。

 テンは北米やユーラシアに広く分布しますが、モンゴル高原東部から満洲にかけてはキエリテン(黄襟貂)やクロテン(黒貂)がおり、古来毛皮が珍重されてきました。豽は猴(アカゲザル)の類ともいい、鼲子はタルバガン(シベリアマーモット)かも知れません。彼らはこうした山岳地帯の森林狩猟民でもあり、毛皮を売ることで生計を立てていました。

鮮卑歴史

 鮮卑自爲冒頓所破、遠竄遼東塞外、不與餘國爭衡、未有名通於漢。而自與烏丸相接。至光武時、南北單于更相攻伐、匈奴損耗、而鮮卑遂盛。
 鮮卑は(先祖の東胡が)冒頓単于に破られてから、遼東郡の長城の外へ遠く逃げ去り、他の国々と勢力を争うことがなく、漢にその名が知られることがなかった。ただ烏桓とは相接していた。光武帝の時に匈奴が南北に分かれて衰えると、鮮卑はついに盛んとなった。

 また『後漢書』鮮卑列伝によると、光武帝の初年に匈奴が強く盛んだった頃、鮮卑と烏桓は匈奴に率いられて漢の北部辺境を掠奪し、官吏や人民を殺戮・拉致すること毎年でした。建武21年(西暦45年)、鮮卑と匈奴が遼東郡に侵入し、太守の祭肜がこれを撃破して皆殺しにしました。やがて南匈奴が漢の属国となると、北方の異民族は弱体化し、建武25年(西暦49年)に鮮卑が初めて漢に通訳を通じて使者を送ってきました。また都護で鮮卑人の偏何らは、祭肜を詣でて戦功を立てることを求め、北匈奴を撃破して多数の首級を獲得し、遼東郡に持ち帰って賞与を賜ったといいます。

 建武三十年、鮮卑大人於仇賁、率種人詣闕朝貢。封於仇賁爲王。永平中、祭肜爲遼東太守、誘賂鮮卑、使斬叛烏丸欽志賁等首。於是鮮卑自燉煌酒泉以東邑落大人、皆詣遼東受賞賜、青徐二州給錢、歲二億七千萬以爲常。
 建武30年(西暦54年)、鮮卑の大人(部族長)の於仇賁は部族を引き連れて朝貢し、光武帝から王に封じられた。永平年間(58-75年)、祭肜が遼東太守となると、鮮卑に賄賂を送って誘い、烏桓の欽志賁らの首を取らせた(後漢書では永平元年)。これにより敦煌・酒泉以東の邑落の大人たちは、みな遠路はるばる遼東まで来て賜り物を受けたが、その出費は青州・徐州が負担し、毎年2億7000万銭にものぼった。

 鮮卑は大興安嶺の部族のはずですが、この頃には敦煌や酒泉にまで勢力が伸びていたのでしょうか。どうも北匈奴の残党がこの頃東方へ移動し、鮮卑と自称して漢からの贈物を受け取っていたようです。この頃の物価などから1銭≒現代日本の300円ほどとすると、2.7億銭は810億円にもなりますが、戦争すれば1回15億銭(4500億円)以上はかかりますから安いものです。これにより明帝・章帝の二代(57-75年)にわたって国境地帯は平穏でした。

 和帝時、鮮卑大都護校尉廆、帥部衆從烏丸校尉任常(尚)擊叛者、封校尉廆爲率衆王。殤帝延平中、鮮卑乃東入塞、殺漁陽太守張顯。安帝時、鮮卑大人燕荔陽入朝、漢賜鮮卑王印綬、赤車參駕、止烏丸校尉所治寗下。通胡市、築南北兩部質宮、受邑落質者二十部。是後或反或降、或與匈奴烏丸相攻擊。
 和帝の時(88-105年)、鮮卑大都護校尉の廆が部族を率いて護烏桓校尉の任尚に従い、(南匈奴の)反抗者たちを討伐し、功績により率衆王に封じられた。殤帝の延平年間(106年)、鮮卑が東から長城に侵入し、漁陽太守の張顕を殺害した。安帝の時(106-125年)、鮮卑大人の燕茘陽が入朝した。漢は彼に鮮卑王の印綬・赤い馬車・馬三頭を授け、護烏桓校尉の役所のある寗(上寧)に居留させた。また胡市(交易場)を設け、南北2つの質宮を建設し、鮮卑邑落から差し出される人質20部族分を受け入れた。以後、鮮卑は漢に反抗と降伏を繰り返し、匈奴や烏桓と争った。
 安帝末、發緣邊步騎二萬餘人、屯列衝要。後鮮卑八九千騎、穿代郡及馬城塞入害長吏、漢遣度遼將軍鄧遵、中郎將馬續出塞追破之。鮮卑大人烏倫、其至鞬等七千餘人詣遵降、封烏倫爲王、其至鞬爲侯、賜采帛。遵去後、其至鞬復反、圍烏丸校尉於馬城、度遼將軍耿夔及幽州刺史救解之。其至鞬遂盛、控弦數萬騎、數道入塞、趣五原寧貊、攻匈奴南單于、殺左奧鞬日逐王。
安帝の末年(125年)、国境地帯から歩兵・騎兵2万余を徴用して、要害の地に駐屯配備させた。のち鮮卑の騎兵8000-9000が代郡と馬城の砦を破って侵入し、役人たちを殺害した。漢は度遼将軍の鄧遵、中郎将の馬続を派遣し、長城を出て追撃させ、これを打ち破った。鮮卑大人の烏倫、其至鞬ら7000余人が鄧遵のもとに降伏を申し入れてきたので、漢は烏倫を王に封じ、其至鞬には侯の位を与えた。鄧遵が去ったあと、其至健はまたもや叛き、護烏桓校尉を馬城に包囲した。そこで度遼将軍と幽州刺史が救援に赴き、包囲を崩した。其至鞬は勢力を盛んにし、控弦の士(騎射可能な騎兵)は数万騎になった。彼らはいくつかのルートから長城内部に侵入し、五原郡の寧貊(オルドス)に向かい、匈奴の南単于に攻撃をかけ、左奥鞬日逐王を殺した。
 順帝時復入塞、殺代郡太守。漢遣黎陽營兵屯中山、緣邊郡兵屯塞下、調五營弩帥令教戰射、南單于將步騎萬餘人助漢擊却之。後烏丸校尉耿曄將率衆王出塞擊鮮卑、多斬首虜、於是鮮卑三萬餘落詣遼東降。匈奴及北單于遁逃後、餘種十餘萬落詣遼東雜處、皆自號鮮卑兵。
 順帝の時(125-144年)、再び長城内に侵入し、代郡太守を殺した。漢は長城付近に軍を駐屯させて軍事訓練を施し、南単于も歩騎1万余人を率い、漢軍を援助して鮮卑に攻撃を加え、これをしりぞけた。のちに護烏桓校尉の耿曄は、(烏桓の)率衆王を率いて長城を出ると鮮卑に攻撃を加えた。その結果、鮮卑の3万余落は、遼東郡の役所に降服を申し入れてきた。また匈奴は北単于は遁走した後、残党10余万落が遼東郡に移動して雑居し、みな鮮卑の兵と称した

 1落を20人とすると、3万落は60万人、10万落は200万人にもなりますが、10倍に誇張されているとみて3000落・6万人、1万落・20万人とすれば良さそうです。それでも遊牧民としては相当な数で、もとの鮮卑より匈奴の方が多いぐらいです。のちに「鮮卑」と総称される人々の中には、相当程度はもと匈奴の構成部族だった者がおり、宇文部なども含まれます。両者は雑居混血し、匈奴の先進文化が鮮卑や烏桓にも伝わったことでしょう。

 其至鞬は132年頃に死ぬまで勢力を振るい、鮮卑を匈奴に代わる強国としました。『後漢書』鮮卑列伝には鮮卑による掠奪が多く書かれていますが省略します。南匈奴・烏桓・鮮卑とも漢に服属したり背いたりし、財物や人畜を交易したり掠奪したりしていたのです。そしてこの頃、鮮卑には檀石槐という英雄が誕生します。彼には神秘的な誕生伝説があります。

檀石槐伝

 投鹿侯、從匈奴軍三年、其妻在家、有子。投鹿侯歸、怪欲殺之。妻言「嘗晝行聞雷震、仰天視而雹入其口、因吞之遂姙身、十月而產。此子必有奇異、且長之。」投鹿侯固不信。妻乃語家、令收養焉、號檀石槐。
 (鮮卑大人に)投鹿侯という者がおり、匈奴に従軍して外征すること3年であったが、その妻は家にあって子を生んだ。投鹿侯は帰ってくるとこれを怪しみ、(留守中に浮気をして儲けたと思って、その子を)殺そうとした。妻はこう言った。「かつて昼に外を歩いていますと雷鳴が聞こえ、天を仰ぐと雹が降ってきて、私の口に入りました。それを呑み込むと妊娠し、十ヶ月経って産まれたのです。この子は必ず奇異(非凡な力)があるでしょう。殺さずに成長をお待ち下さい」。投鹿侯は信じず、妻は実家に帰って事情を説明し、養育することにした。そしてこの子を檀石槐と名付けたのである。

 現世の父によらず、天から降ってきた雹を母が呑み込んで懐妊したというジーザスめいた異常出生譚です。殷商の始祖のは母が玄鳥(燕)の卵を呑んで孕んだといいますし、趙や秦など嬴姓の始祖とされる伯益も同様の誕生神話を持ちます。夫余の始祖の東明王は母に鶏卵のような気が天から降って孕んだとします(高句麗の始祖神話はこれを借用したものです)。モンゴルのボルジギン氏族の始祖ボドンチャルも、母アラン・ゴアが天からの光(あるいは光り輝く天使)によって夫なしに儲けたとされます。満洲の愛新覚羅氏の始祖ブクリ・ヨンションは天女がカササギの卵を呑み込んで孕んだと伝わります。いずれも北東アジアに分布しており、檀石槐の誕生伝説もこれらと関わりがあるのでしょう。「天の子」であるという箔をつけるための作り話であり、実際の父は投鹿侯だとは思いますが。

 長大勇健、智畧絕衆。年十四五、異部大人卜賁邑鈔取其外家牛羊。檀石槐策騎追擊、所向無前、悉還得所亡。由是部落畏服。施法禁、平曲直、莫敢犯者、遂推以爲大人。
 成長すると勇敢で壮健となり、知略は人並み外れて優れていた。14-15歳の時、別の部族の大人である卜賁邑が、母の実家の牛や羊を掠奪した。檀石槐は馬に鞭打って追撃し、向かう所敵なしの有様で、奪われた家畜を全て取り返した。このことで人々は彼に畏服した。また彼は法令や禁令を施行し、裁判は公平で、敢えて逆らう者はなく、ついに推挙され大人となった。

 絵に描いたような英雄譚です。しかし単に一部族の大人にとどまらず、彼は鮮卑部族連合全体の君主となり、広大な領域を支配下に収めました。

 檀石槐旣立、乃爲庭於高柳北三百餘里、彈汗山啜仇水上。
 檀石槐は即位すると、高柳の北300里にある弾汗山、啜仇水の上に庭(本拠地、単于庭)を置いた。

 高柳とは代郡の高柳県で、山西省大同市陽高県にあたります。その300里(実数、130.2km)北西には内モンゴル自治区のウランチャブ市(モンゴル語:赤い崖)があります。そして弾汗山とは、ウランチャブ市興和県大青山(モンゴル語:ダラン・カラ/黒い山脈)のことです。西にはオルドスの北に陰山が連なり、東は張家口や北京に通じ、南は漢の長城に近く、河川もあって比較的肥沃です。かつて南匈奴が住まい、のちに鮮卑拓跋部の代国が興る重要な地域です。代国はやがて北魏となり、華北を呑み込みます。

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 興和県には洋河の源流(東洋河)があり、山間部を南東に流れ、河北省張家口市懐安県で山西省から来る西洋河・南洋河と合流します。さらに朔州・大同から来る桑乾河と合流して永定河となり、山々を曲がりくねって下り、華北平野に出て北京市の西南郊外を流れ、渤海湾へ注いでいます。隋代には天津付近で北京と杭州を結ぶ大運河と合流して海河となり、海河水系の一部となりました。要は弾汗山と張家口・北京は河川で繋がっているのです。

東西部大人皆歸焉。兵馬甚盛、南鈔漢邊、北拒丁令、東却夫餘、西擊烏孫、盡據匈奴故地、東西萬二千餘里、南北七千餘里、罔羅山川水澤鹽池甚廣。
 東西の部族大人たちはみな彼のもとに帰服した。その兵馬は勢い盛んで、南は漢の国境地帯を劫略し、北では丁令を阻み、東では夫余を撃退し、西では烏孫に攻撃をかけ、かつての匈奴の版図をまるまる我が物とし、東西1万2000余里、南北7000余里にわたって、山川・水沢・塩池を含む広大な地域をすっぽり手中に収めた。

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 1里434mとして、1万2000里は5208km、7000里は3038kmです。夫余はおおむね遼寧省鉄嶺市、烏孫はキルギスですから、新疆ウイグル自治区の西端のタルバガタイまでとしてもGoogle Mapによれば4135km(1万里弱)。大同市から北へ3000kmも進むとシベリアの彼方ですから、これは誇張でしょうか。あるいは真北ではなく北西で、ミヌシンスク盆地の堅昆やその西の呼掲までも服属させたことをいうのかも知れません。チャイナの史書では、北と書いてあっても実際は北西だったりすることはよくあります。張騫を捕縛した単于も「月氏は我が国の北にある」とか言ってましたね。

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 少々ズルですがいいとしましょう。檀石槐がこの大帝国を築くまでには相当な年月を必要としたと思われますが、それらの戦いについて史書は特に何も記しません。彼に呼応する緩い部族連合に過ぎなかったのでしょうか。

 漢患之、桓帝時使匈奴中郎將張奐征之、不克。乃更遣使者齎印綬、即封檀石槐爲王、欲與和親。檀石槐拒不肯受、寇鈔滋甚。
 漢はこれを憂い、桓帝の時(在位:146-168年)に使匈奴中郎将張奐を派遣して討伐させたが勝利を得なかった。そこで使者を遣わして印綬をもたらし、檀石槐を封じて王とし、和親を求めた。檀石槐はこれを拒んで受けず、掠奪はますます甚だしくなった。

 張奐は後漢後期の名将で、敦煌出身であり、辺境を転戦して手柄を立てました。あの董卓が部下だったこともあります。『後漢書』鮮卑列伝によると桓帝の永寿2年(西暦156年)秋、檀石槐が数千騎を率いて雲中郡を荒らしました。延熹元年(158年)にもまた鮮卑が攻めてきたので、冬に張奐は南匈奴の単于を率いて迎撃しています。しかしその後も雁門や遼東属国を攻撃しており、延熹9年(166年)には匈奴・烏桓と連合し数万騎を分けて9郡に侵入しました。張奐が駆けつけて長城の外へ撃退したものの、朝廷はこれを悩みの種とし、使者を派遣して懐柔しようとしたわけです。

 乃分其地爲中東西三部。從右北平以東、至遼東接夫餘濊貊、爲東部二十餘邑。其大人曰彌加、闕機、素利、槐頭。從右北平以西、至上[谷]、爲中部十餘邑。其大人曰柯最、闕居、慕容等、爲大帥。從上[谷]以西、至燉煌、西接烏孫、爲西部二十餘邑。其大人曰置鞬落羅、曰(日)律推演、宴荔游等、皆爲大帥、而制屬檀石槐。
 檀石槐は、その版図を中央と東西の三部に分けた。右北平(天津市)から東、遼東郡(遼陽)・夫余(鉄嶺)・濊貊に接するまでを東部とし、20余の邑があった。その大人には彌加、闕機、素利、槐頭がいた。右北平から西、上郡(楡林市)に至るまでを中部とし、10余の邑があった。柯最、闕居、慕容らの大人を大帥とした。上郡から西、敦煌に至り烏孫に接するまでを西部とし、20余の邑があった。その大人には置鞬落羅、日律推演、宴荔游などがおり、みな大帥とし、檀石槐に服属していた。

 匈奴の冒頓単于と同じく、檀石槐も版図を中部と東西(左右)に分けています。分け方もほぼ同じで、北京から満洲までが東部、楡林から敦煌・烏孫までが西部、その間が中部です。単于庭はウランチャブなので冒頓単于の頃より南東にありますが、漢に近いため攻撃しやすくなりますね。なお原文では上谷郡とありますが、これは今の河北省張家口市で、上郡の間違いかと思われます。宴荔游/燕茘陽はかつて漢に下り東方に置かれた部族ですが、ここでは西方に移されています。邑(部族)は合わせて50余りあり、1邑が1万騎と仮定すれば50万騎が動員できます。匈奴は万騎が24人でしたし、1邑は5000騎ぐらいでしょうか。

 至靈帝時、大鈔畧幽并二州。緣邊諸郡無歲不被其毒。熹平六年、遣護烏丸校尉夏育、破鮮卑中郎將田晏、匈奴中郎將臧旻與南單于、出鴈門塞、三道並進、徑二千餘里征之。檀石槐帥部衆逆擊、旻等敗走、兵馬還者什一而己。
 霊帝の時(168-189年)、鮮卑は幽州と幷州で盛んに略奪を行い、国境地帯の諸郡は鮮卑から酷い損害を受けない年はなかった。熹平6年(177年)、朝廷は護烏桓校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻を派遣した。彼らは南匈奴の単于とともに雁門塞から長城の外に出、三つに分かれて進み、2000余里(868km)を突っ切って遠征した。檀石槐は配下を指揮して迎撃し、臧旻らは敗走して、帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。

 後漢はこの頃だいぶへばっています。早くも2世紀初頭には西域を放棄していますし、西羌は陝西盆地にまで進出して旧都長安を脅かしました。北方では鮮卑がのしかかり、南匈奴と烏桓は彼らを防ぐために動員されつつも、しばしば鮮卑と結託して漢を荒らす始末でした。こうした戦闘により辺境の軍勢は鍛錬され、董卓のように中央政権を牛耳る者まで現れるのです。

 鮮卑衆日多、田畜射獵不足給食。後檀石槐乃案行烏侯秦水、廣袤數百里、停不流、中有魚而不能得。聞汗人善捕魚、於是檀石槐東擊汗國、得千餘家、徙置烏侯秦水上、使捕魚以助糧。至于今、烏侯秦水上有汗人數百戶。
 鮮卑の人口は日に日に増え、農耕牧畜や狩猟だけでは食糧を十分に供給することができなくなった。そこで檀石槐は烏侯秦水にやって来て、魚を獲って食料にしようとした。その川は広さ数百里の大湿地で、水はじっとして流れず、魚はいるが捕獲できなかった。汗人たちは魚獲りに巧みだと聞いたので、東にあるその国を撃って1000余家を烏侯秦水のほとりに強制移住させ、魚獲りに従事させて食料難を解決した。今(魏晋代)に至るまでこの川のほとりには汗人数百戸が住むという。

 檀石槐の鮮卑帝国の東にある湿地帯ですから、チチハル付近の嫩江流域のジャロン自然保護区でしょうか。ここは嫩江の支流・烏裕爾河の河口部ですが、烏裕爾(Wuyur)とはモンゴル系のダウール語で「低湿地」を意味するといいます。烏侯秦(qaː ɡoː zin)はその古い形でしょうか。人は人と書くならば、のもとの字で、水が曲がりくねった(迂)溝に溜まって汚れていることをいいます。湿地帯の住民をいうのでしょう。『後漢書』ではこれを「人」としているため、「倭人は古来満洲にいた」とする向きもありますが、学術的にはあまり認められていません。濊貊の濊も汙と意味が近く関係がありそうな気はしますが、定かではありません。

 檀石槐年四十五死、子和連代立。和連材力不及父、而貪淫、斷法不平、衆叛者半。靈帝末年數爲寇鈔、攻北地、北地庶人善弩射者射中和連、和連即死。其子騫曼小、兄子魁頭代立。魁頭旣立後、騫曼長大、與魁頭爭國、衆遂離散。魁頭死、弟步度根代立。自檀石槐死後、諸大人遂世相襲也。
 檀石槐は年四十五で死に、子の和連が代わって立った。しかし父親ほどの才能も力量もなく、貪欲淫乱で裁判も不公平だったため、部下の半数は命令を効かなくなった。和連は霊帝の末年(189年)にしばしば侵略を行い、北地郡(寧夏)を攻撃したが、当地の庶民に弩で射殺された。和連の子の騫曼は幼かったので、(和連の)兄の子の魁頭が代わって立った。魁頭が立ったのち騫曼が成長すると、両者は国を争い、部族は離散した。魁頭が死ぬと、弟の歩度根が代わって立った。檀石槐の死後、諸大人は世襲となった。

 何年頃に死んだか書かれていませんが、『後漢書』では霊帝の光和年間(178-184)とし、『資治通鑑』では光和4年(181年)とします。とすると彼の誕生は136年頃です。初めて登場する156年にはまだ20歳でしかなく、数万騎で漢の9郡を攻めた大戦の時は30歳です。かのハンニバルがアルプスを越えてイタリアに攻め込んだ時も30歳かそこらですし、アレクサンドロス大王は30歳にしてインドに到達していますから、軍事指導者としては相当な才能があったのでしょう。

 しかし彼の子孫は国を保つ才能がなく、鮮卑帝国は瓦解しました。それでも彼らは北方に勢力を維持し、後漢の崩壊を迎えることになります。後漢末から魏晋にかけて、烏桓や鮮卑、南匈奴や羌はどうしていたのでしょうか。

◆蒼天◆

◆航路◆

【続く】

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