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【つの版】倭の五王への道17・讚と珍

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

いろいろすり合わせてみた結果、百済から七支刀を受け取り韓地へ出兵した倭王は記紀で言う仁徳天皇(大鷦鷯尊)にあたり、倭の五王の最初である倭讚はその子の履中天皇(去来穂別尊)らしいことが朧げに見えて来ました。今回は倭讚と、その弟の倭国王珍について見てみます。

◆王◆

◆珍◆

倭王の姓名

420年頃から437年頃には、チャイナの史書で「倭讚」と呼ばれる倭王がいたようです。高句麗王が高姓、百済王が餘(余、夫余)姓ですから、倭王にも漢風の姓名がないと国際社会では通用しません。それも一字姓に一字名だと文化的で優雅で国際的です。卑彌呼だの臺與だの難升米だの都市牛利だのは蛮夷丸出しで奥ゆかしくありません。

高句麗王は好太王が高安、長寿王が高璉と名乗っています。百済王は肖古王が餘句、仇首王が餘須、腆支王が餘映(腆)、毗有王が餘毘で、辰斯王は餘暉と記されます。辰斯と暉では音も意味も全く違いますが、百済支配層の夫余語では辰斯が「暉(かがやく)」という意味だったのかも知れません。

倭国の王ゆえ姓を倭とするとして、讚はどこから来たのでしょう。応神は誉田別(ホムダワケ)だから誉=讚とか、仁徳は大鷦鷯(オホサザキ)だからサが讚だとか、履中は去来穂別(イザホワケ)でザだとか諸説ありますが、割と適当に決めた漢字のようでもあります。つのは倭讚を履中天皇、弟の珍を反正天皇と推定しますが、どんな天皇(倭王)だったのでしょうか。

履中と反正

日本書紀巻第十二 去來穗別(履中)天皇、瑞齒別(反正)天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_12.html

『日本書紀』履中紀によると、彼は仁徳と磐之媛の子で、仁徳31年に15歳で皇太子となります。つまり仁徳16年生まれですが、父が87年も在位した(ことになっている)ので父が崩御した時は70歳過ぎです。

喪が開けると、彼は羽田矢代宿禰の娘の黒媛を妃としました。しかし使者とした同母弟の住吉仲皇子が太子と偽って黒媛を犯し、さらに太子を殺そうと兵を率いて宮を包囲し、火を放ちます。平群木菟宿禰・物部大前宿禰・阿知使主は酔って寝ていた太子を担いで逃げ、当麻を越えて倭(ヤマト)に入りました。太子が石上神宮で待機している間に、河内では瑞齒別皇子(後の反正天皇)によって反乱が鎮圧され、太子は磐余稚桜宮で即位します。仁徳が経営した河内の宮は反乱によって焼けてしまい、ヤマトに天皇が戻ってきたのです。この年は庚子で、西暦400年にあたるといいます。

天皇は瑞齒別皇子を儲君(皇位継承者)とし、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・葛城円大使主(襲津彦の孫)らを大臣としました。4年には諸国に国史を置きます。5年には筑紫の宗像三神の祟りで皇后黒媛を失い、6年に応神の娘の草香幡梭皇女を皇后としますが、同年3月に崩御しました。享年は70歳とありますが、計算上は77歳ぐらいのはずです。即位前に反乱が起きたり、在位中も祟りや讃岐の反抗があったり、パッとしません。

陵は百舌鳥耳原南陵で、百舌鳥古墳群のひとつ上石津ミサンザイ古墳とされます。築造年代5世紀初頭、墳丘長365m、全国第三位の規模と申し分ありませんが、年代的に大仙陵古墳の被葬者を履中とする説もあります。

履中の子は市辺押磐皇子(顕宗天皇・仁賢天皇の父)ですが、履中の弟の瑞齒別皇子が予定通り跡を継ぎます。ついでに反正紀も見ましょう。

彼は淡路宮で生まれましたが、生まれつき歯が生え揃っていたので瑞齒別(ミヅハワケ)と名付けられ、産湯を使った井戸に多遲花(イタドリ)が生えていたので多遲比(タヂヒの)瑞齒別と呼ばれました。古事記には身長が9尺2寸半(3m)もあったといいます。履中天皇の即位に際して功績があったため跡継ぎとされ、河内に都を戻して丹比柴籬宮(大阪府松原市上田の柴籬神社)に宮居しました。時に丙午年(西暦406年?)にあたり、五穀豊穣で天下泰平でしたが、在位5年で崩御します。跡継ぎがおらず、弟の雄朝津間稚子宿禰が群臣に推挙されて即位し、允恭天皇となりました。

反正の陵は百舌鳥耳原北陵で、百舌鳥古墳群のひとつ田出井山古墳とされます。築造年代は5世紀中頃ですが、墳丘長は148mと大王陵にしては小さく、墳丘長300m超と推定される土師ニサンザイ古墳を反正陵とする説もあります。しかしこちらの築造年代は5世紀後半で、年代が合いません。

どちらも在位5年や6年で崩御しており、特筆すべき事業も記されていませんが、チャイナの史書における倭讚、倭王珍はどうでしょうか。

讚と珍

改めて『宋書』夷蛮伝東夷倭国条を見てみましょう。

高祖永初二年(421年)、詔曰:「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年(425年)、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

倭讚の記事はこれだけです。文帝紀元嘉七年正月条に「是月、倭國王遣使獻方物」とありますが、讚か珍かわかりません。ただ代替わりしていればそう記すでしょうから、たぶんまだ讚だと思います。

讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。
讚が死に、弟の珍が立って、使者を遣わして貢献した。(珍は)自ら「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と称した。表を求めて除正し、詔して(珍を)「安東将軍、倭国王」に除した。珍はまた倭隋ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号を除正するよう求め、詔してあわせて聴許した。

珍は、梁書では「彌」としますが、珍の俗字「珎」と彌の俗字「弥」を取り違えた誤記で、珍が正しいようです。その珍は讚に比べて随分態度が大きくなっています。これが何年かは記されませんが、文帝紀にこうあります。

[元嘉]十五年…夏四月…己巳、以倭國王珍為安東將軍。…是歲、武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。

倭国王珍が安東将軍に任命されたのは元嘉15年、西暦438年のことです。しかし珍は自ら「安東将軍」と称しているのに、実際には安東将軍と「大」を抜かされてしまいました。高句麗王が征東大将軍、百済王が鎮東大将軍に任命されているから、自分は安東大将軍だ、としたと思われます。安○将軍の号は征・鎮より低く、大がつかないとさらに低くなります。たぶん倭讚は「安東将軍・倭国王」に冊立されていたのでしょう。そして438年より前に薨去し、跡を継いだ珍が張り切って宋に誇大な称号を求めたのです。

珍が求めた称号のうち、許可されたのは「安東将軍・倭国王」だけで、高句麗王や百済王のような使持節や都督もありません。また「都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」は高句麗を除く朝鮮半島の諸国の全てと倭国を含んでおり、倭国王珍が高句麗に対抗してこれらの諸国の盟主となることを望んでいることを示しています。

百済・新羅・任那(旧弁韓)はともかく、秦韓(辰韓)は新羅になったはずですが、ここでは別扱いです。慕韓は馬韓のことで、百済に服属していない(倭国が影響下に置いた)馬韓南部諸国でしょう。百済の実際の支配領域は帯方郡の故地(ソウル周辺)に毛が生えた程度でしかないようです。

しかし、劉宋はこれを承諾していません。百済王は既に「使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」ですから、序列上格下の倭国王に百済を含む都督号を授けるわけにはいきません。国際関係の秩序が乱れます。また海東の大国である高句麗の機嫌を損ねてもよくありません。

その代わりと言ってはなんですが、劉宋は珍が求めた「倭隋ら13人」の将軍号を承認しています。倭隋は倭王の一族(王族)だと思われますが、記紀の誰にあたるかは不明です。反正には伝承上男子がおらず、履中の子とされる市辺押磐皇子は実在が定かでありませんし、葛城襲津彦はこの頃もういないようです。履中・反正の重臣というと先述の平群木菟、蘇賀滿智、物部伊莒弗、葛城円でしょうか。弁韓系渡来人も含まれたかも知れません。

平西将軍、征虜将軍、冠軍将軍、輔国将軍は、いずれも古くからある将軍号です。東南西北の四征将軍・四鎮将軍は二品官で、都督区の総督を兼任しますが、四安・四平将軍は三品官で征・鎮より低くなります。輔国・冠軍・征虜将軍なども三品官ですが、四安・四平将軍より格下です。倭国から見て西は筑紫や朝鮮半島ですから、平西将軍は倭国西部や半島南部に関する軍事称号でしょう。倭国王珍は安東将軍として劉宋の東方におり、倭隋は平西将軍として高句麗に対する軍事行動を行う、という意思表示でしょうか。

珍はこのあと数年で薨去したらしく、5年後の元嘉20年(443年)に劉宋へ使者を派遣した倭国王は珍ではなく「濟」でした。反正天皇も5年で崩御したといいますから在位年数はあっています。ならば日本書紀で年代短縮の目に遭ったのは倭讚こと履中です。しかし、珍こと反正はなぜ対高句麗の同盟を復活させ、劉宋に対して大層な称号を要求したのでしょうか。

高句麗の動向

427年、高句麗の長寿王は丸都城(吉林省通化市集安)から平壌に遷都します。現在の平壌市街ではなく北東郊外ですが、高句麗は北方の山岳地帯から楽浪郡が置かれた先進地域へ中心を遷し、敵が手強く寒冷な遼西方面への拡大よりも、敵が弱く温暖で肥沃な南方、朝鮮半島への勢力拡大路線を明確にしたのです。百済への圧迫は強まり、新羅はますます高句麗に従属します。

この頃、忠清北道忠州市に「中原高句麗碑」が立てられました。摩耗が激しいうえ変体漢文で解読は難しいですが、「高麗太王(大王)」が「新羅寐錦(王)」と世々兄弟の如くありたいと願うとか、高句麗は新羅の高官に衣服を賜わった、高句麗の軍官が新羅人を兵士として組織したなど、明らかに新羅を属国として表現しています。忠州市はソウルより南にあり、帯方郡含資県の跡で、南の新羅・任那、西の百済を睨む要衝の地です。

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新羅では417年に実聖王が殺されて奈勿王の子の訥祇が即位しており、高句麗に人質を送りました。訥祇2年(418年)に新羅へ帰還した未斯欣は17年(435年)に逝去しています。

430年、遼西の北燕天王馮跋が薨去しました。後継者は子の馮翼でしたが、馮跋の弟・馮弘はこれを殺して自ら皇帝に即位します。しかし北燕は後継者を巡って乱れ、馮弘の世子馮崇は北魏に出奔し遼西王に任命される有様でした。北魏は431年に西方の夏を滅ぼし、甘粛西部の北涼も服属させたので、432年から連年北燕を攻撃します。

この事は『宋書』夷蛮伝高句麗国条にあります。

先是、鮮卑慕容寶治中山、為索虜所破、東走黃龍。義熙初、寶弟熙為其下馮跋所殺、跋自立為主、自號燕王、以其治黃龍城、故謂之黃龍國。跋死、子弘立、屢為索虜所攻、不能下。
かつて鮮卑の慕容宝は中山を統治していたが、索虜(北魏)に破られ、東の黄龍(朝陽)へ走った。義熙初年、宝の弟の煕がその部下の馮跋に殺され、馮跋は自立して燕王と号し、黄龍城を都とした。それで彼の国を黄龍国という。馮跋が死に、子(弟)の馮弘が立つと、しばしば索虜に攻撃されたが、下すことが出来なかった。

435年、馮弘は劉宋に服属して燕王となり、支援を求めます。しかし436年4月に北魏の攻撃に耐えきれず高句麗へ亡命、北燕は滅亡しました。馮弘は高句麗から劉宋への亡命を求めますが、高句麗に抑留され、438年高句麗に殺されています。翌年、北魏は北涼を滅ぼして華北全土を統一しました。

太祖世、每歲遣使獻方物。元嘉十二年、賜加除授。十五年、復為索虜所攻、弘敗走、奔高驪北豐城、表求迎接。太祖遣使王白駒、趙次興迎之、並令高驪料理資遣、璉不欲使弘南、乃遣將孫漱、高仇等襲殺之。白駒等率所領七千餘人掩討漱等、生禽漱、殺高仇等二人。璉以白駒等專殺、遣使執送之、上以遠國、不欲違其意、白駒等下獄、見原。
太祖(文帝)の世、馮弘は毎年使者を遣わし(宋に)朝貢した。元嘉12年(435年)、(燕王の)除授を賜った。元嘉15年(438年、実際は436年)、また索虜(北魏)に攻撃され、馮弘は敗走し、高句麗の北豊城に逃げ、表を求めて迎接した。太祖は使者の王白駒、趙次興を遣わしてこれを迎えしめ、高句麗に物資を送るよう命じた。璉は馮弘に従うのを嫌い、将軍の孫漱・高仇を派遣して馮弘を殺した。白駒らは7000余人を率いて漱らを討伐し、漱を捕虜とし、高仇ら二人を殺害した。璉は「白駒らが勝手に殺した」として、使節を送ってこれを帰した。太祖は遠国であるからその意を違えてはならぬとし、白駒らを獄に下した。

劉宋は431年に北魏と平和条約を結ぶ一方、北魏を抑えるため諸国と結び、モンゴル高原の柔然、東北の北燕、高句麗、百済、西方の北涼、吐谷渾などを冊封して対抗していました。しかし北魏が強大となると、高句麗は北魏へ誼を通じるようになります。

『魏書(北魏書)』高句麗伝にこうあります。

世祖時、釗曾孫璉始遣使者安東奉表貢方物、並請國諱。世祖嘉其誠款、詔下帝系名諱於其國、遣員外散騎侍郎李敖、拜璉為都督遼海諸軍事、征東將軍、領護東夷中郎將、遼東郡開國公、高句麗王。敖至其所居平壤城、訪其方事、云、遼東南一千餘里、東至柵城、南至小海、北至舊夫餘、民戶參倍於前。
世祖(太武帝)の時、釗(故国原王斯由)の曾孫・璉(長寿王)が初めて(北魏に)使者の安東を遣わし、表を奉じて方物を朝貢し、あわせて国諱を請うた。世祖はその誠意を喜び、詔して帝系名諱をその国に下し、員外散騎侍郎の李敖を遣わして、璉を都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王の称号を拝受させた。李敖は平壌城の居所に到り、その地方の事情を尋ねた。言うには「遼東の南一千余里、東に柵城、南に小海(楽浪湾)、北に旧扶余に到り、民戸は以前の三倍(魏志では3万戸・15万人だったので9万戸・45万人)」。

なんと、高句麗は劉宋から冊立されていながら、北魏からも冊立されています。これがいつのことかは『魏書』世祖紀にあります。

太延元年(435年)…六月丙午、高麗、鄯善國並遣使朝獻。

征東大将軍としなかったのは、既に皇族の中山王拓跋纂がその地位にいたからです。続いて馮弘が高句麗に亡命し、殺害されるまでの経過です。

時馮文通率眾奔之、世祖遣散騎常侍封撥詔璉令送文通、璉上書稱當與文通俱奉王化、竟不送。世祖怒、欲往討之、樂平王丕等議待後舉、世祖乃止、而文通亦尋為璉所殺。
時に馮文通(弘)が衆を率いて高句麗に奔った。世祖は散騎常侍の封撥を遣わし、詔して璉に文通を送致するよう命じた。璉は上書して「文通と共に王化(皇帝の徳)を奉じたい」と称したが、ついに(文通を)送らなかった。世祖は怒って高句麗を討伐しようとしたが、楽平王の丕らが挙って反対したので取りやめた。しかして文通は璉に殺された。

いつのことかは世祖紀にあります。

[太延]二年(436年)…二月戊子、馮文通遣使朝貢、求送侍子、帝不許。壬辰、遣使者十餘輩詣高麗、東夷諸國、詔諭之。三月丙辰、劉義隆遣使朝貢。辛未、平東將軍娥清、安西將軍古弼、率精騎一萬討馮文通、平州刺史元嬰又率遼西將軍會之。文通迫急、求救於高麗、高麗使其大將葛蔓盧以步騎二萬人迎文通。…五月乙卯、馮文通奔高麗。戊午、詔散騎常侍封撥使高麗、徵送文通。…九月…高麗不送文通、遣使奉表、稱當與文通俱奉王化。帝以高麗違詔、議將擊之。納樂平王丕計而止。…三年(437年)…二月…高麗、契丹國並遣使朝獻。四年(438年)春三月…是月、高麗殺馮文通。

435年から438年にかけて、高句麗は劉宋にも北魏にも朝貢し、称号を授かっているのです。両国にとって高句麗は侮れない勢力ですから、味方につけてはおきたいですが、馮弘を巡る問題で高句麗と両国の仲は微妙になります。

倭国王珍と百済王餘毘(毗有王)は、これを好機として対高句麗同盟の再結成を目論んだわけです。『三国史記』によると毗有王は在位7年と8年(434-435年)に新羅と盛んに使者をやり取りしており、馬や鷹や金や珠を贈り合っています。高句麗の横暴ぶりに新羅もうんざりしていたのでしょう。倭国は単独で(百済を介して)劉宋へ使者を派遣し、高句麗の不穏な動きをまくし立てて、半島南部の対高句麗同盟の盟主として倭国王をアピールします。どうせ全部はだめだとしても、最初に大きく出ておけば取り分がなんぼか増えるだろう、という皮算用もあったかも知れません。

しかし事を荒立てたくない劉宋は、倭国に適度に名誉称号を与えることで満足させます。これはこれで倭国にはありがたく、権威づけにはなりますが、新羅や任那や百済を従える大国という感じにはなりません。そもそも、当初は対等の同盟国でも今や属国めいた扱いにしている百済王よりも格下です。これでは示しがつかないということで、次の倭国王はさらなる称号を求めて劉宋へ使者を派遣することになるのです。

◆倭◆

◆王◆

【続く】

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