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【つの版】ウマと人類史:近世編30・女帝擁立

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 ロシア皇帝ピョートル1世が1725年に崩御すると、皇后エカチェリーナが女帝に即位します。これよりロシアは女帝や幼帝、短命の皇帝が相次ぐ時代を迎えました。

◆女◆

◆帝◆

女帝擁立

 女帝エカチェリーナはロマノフ家でもロシア人でもなく、リヴォニアの農民出身で、愛人である将軍メーンシコフの傀儡でした。彼も貧しい身分からピョートルに引き立てられた人物で、エカチェリーナをピョートルに紹介したことで寵愛を受け、戦場でもしばしば手柄を立てています。ただウクライナ・コサックの本拠地で虐殺を行ったり、公金横領をしたりと評判芳しからぬ人物でした。彼はピョートルの死期が近づくと新興貴族らと結託し、近衛兵を動かしてエカチェリーナを女帝につけ、実権を握ります。また国政輔佐機関として「最高枢密院」を創設し、その筆頭メンバーとなりました。

 ところが女帝は1727年5月に在位2年で崩御し、大帝の孫にあたるピョートル・アレクセーエヴィチが改めて皇帝に擁立されます(ピョートル2世)。メーンシコフは抜け目なく彼に取り入り、娘マリヤと婚姻させて実権を握り続けようとしますが、ドルゴルーコフとの政争に敗れて失脚しました。ドルゴルーコフはリューリク家に連なる名門貴族で、首都をサンクトペテルブルクからモスクワに戻し、1729年には自分の従弟の娘エカチェリーナをピョートルと婚約させます。こうして保守派による反動が来るかに思われました。

 しかしピョートル2世も1730年1月に天然痘で崩御し、ドルゴルーコフらは協議の末、ピョートル1世の異母兄で共同統治者だったイヴァン5世の娘アンナを嫁ぎ先のクールラント公国から呼び戻して女帝に据えます。男系ではロマノフ家ですし、母プラスコヴィヤはロシア貴族出身で尊敬された人物でしたし、夫のクールラント公は亡くなっていましたし、保守派の名門貴族派閥が担ぎ上げるにはちょうどよかったのです。

独人専横

 ところが、アンナはモスクワに到着して即位するとドルゴルーコフらを失脚させ、国政を牛耳っていた最高枢密院を廃止に追い込み、皇帝による専制政治を復活させます。とはいえ彼女には政治を行う能力も意志もなく、代わって政権を握ったのは、彼女がクールラントから連れてきたバルト・ドイツ人のビロン(ビューレン)、ピョートル大帝に仕えたドイツ出身のオステルマンミュンニヒ元帥たちでした。特にビロンは女帝アンナの愛人として国政を牛耳り、ロシア人貴族や民衆から悪魔のように嫌われたといいます。

 彼ら三人のドイツ人は政治的には互いに対立していましたが、保守派から嫌われていたことでは一致していたため、1732年に首都をモスクワからサンクトペテルブルクに戻し、ピョートル大帝の路線を引き継いで外交と内政を行いました。ことにオステルマンは政治的に大変有能で、混乱したロシア帝国を立て直し、周辺諸国との戦争においても存在感を示しました。

 1733年2月、ポーランド王アウグスト2世が崩御すると、息子のアウグスト3世が本領であるザクセン選帝侯領を相続し、ポーランド王位の継承に名乗りを上げます。オーストリアとロシアはこれを支援しますが、フランス王ルイ15世は自らの妃の父であるスタニスワフ・レシチニスキを擁立し、スウェーデンも再び彼を支援します。オーストリアとロシア、プロイセンはこれに抗議し、ポーランドへ軍を派遣してアウグスト3世を支援しました。

 アイルランド出身のレイシ将軍、ドイツ出身のミュンニヒ元帥らが率いるロシア軍3万は1733年10月にワルシャワへ進軍、フランス軍を蹴散らしてアウグスト3世を王位につけます。フランス軍は撤退し、ハプスブルク家とロレーヌ地方やイタリアを巡って争った後、1735年に停戦しました。

 この後、ロシアは南のクリミア・ハン国と戦っています。1735年末にクリミアがウクライナやカフカースへ侵攻したため、ロシアはカフカースを巡ってペルシアと和約を結び、クリミアに宣戦布告します。1736年5月、ミュンニヒ元帥率いるロシア軍6万余はクリミア半島の付け根のペレコープ要塞を攻撃し、6月にはクリミアの首都バフチサライを攻め落とします。さらにアゾフ要塞も陥落し、クリミア・タタール人は山中や海上へ撤退しました。

 しかし1737年から39年にかけて疫病が流行し、ロシア軍は兵站の不足もあり、クリミア半島からの撤退を余儀なくされました。オーストリアはロシアのクリミア侵攻に乗じて1737年7月にオスマン帝国へ宣戦布告したものの撃退され、ベオグラードを再占領される始末でした。オスマン帝国はオーストリア、スウェーデン、プロイセン、ポーランドと同盟を締結してロシアを孤立させ、やむなくロシアは1739年にオスマン帝国と講和します。中央アジア方面ではカザフ・ハン国が臣属するなど進展はあったものの、クリミアでの失敗は女帝アンナとドイツ人たちの政権への不満を高めました。

幼帝擁立

 1740年10月、女帝アンナは47歳で崩御しました。彼女には息子も娘もおらず、姉エカチェリーナは1733年に亡くなり、その娘アンナ・レオポルドヴナ(父はメクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルト)は夫アントン・ウルリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイクとの間に8月に男児イヴァンを産んだばかりでした。女帝アンナは、女系ながらイヴァン5世の血をひくこの男児を後継者に指名し、愛人のビロンを摂政に指名します。

 ビロンは1737年にはクールラント公に昇っており、位人臣を極めたわけですが、僅か3週間でミュンニヒ元帥らのクーデターに遭い失脚します。ミュンニヒとオステルマンは幼い皇帝イヴァン6世の母アンナ・レオポルドヴナを摂政とし、実権を握りました。

 同年10月、オーストリアでは皇帝カール6世が崩御し、跡継ぎの男子がなかったためハプスブルク家の男系が断絶しました。娘マリア・テレジアが23歳でオーストリア大公を継ぎ、彼女の夫であるロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツが共同統治者となりますが、プロイセン王(兼ブランデンブルク選帝侯)フリードリヒ2世はフランツを皇帝選挙で支持することを条件に、シレジア地方の割譲を要求します。オーストリアがこれを拒むと、フリードリヒはバイエルン、ザクセン、フランスと手を組んで侵略行動に出ます。

 これに対してロシア宰相オステルマンはオーストリアとの同盟を堅持し、フランスと敵対する英国とオランダもオーストリア側につきます。フランスはスウェーデンをけしかけてロシアを牽制させますがうまくいかず、ロシア宮中に混乱を起こさせるべく、ピョートル大帝の娘エリザヴェータの一派にクーデターを唆します。

七年戦争

 彼女は軍部からの人気が高く、危険視したアンナ女帝やレオポルドヴナ派により遠ざけられていました。11月、アンナやオステルマン、ミュンニヒらはエリザヴェータらを逮捕しようとしますが、逆に近衛兵に逮捕されて失脚しました。イヴァン6世は退位させられ、エリザヴェータが女帝に即位します。皇統はイヴァン5世の子孫からピョートル1世の子孫に戻ったわけです。

 エリザヴェータを輔佐したのは、ビロン派だったベストゥージェフです。上司のビロンが失脚したため彼も冷や飯を食っていましたが、エリザヴェータに呼び戻されて宰相となり、政権を握りました。彼は対フランス・対プロイセンの姿勢を崩さず、カレリアに侵攻してきたスウェーデン軍を押し返し、英国・オーストリア・デンマーク・オスマン帝国と同盟します。オーストリア継承戦争は1748年に終わり、フランツは皇帝として即位しました。

 1755年、英国はロシアと条約を結び、英国王(ハノーヴァー朝)の実家であるハノーファー選帝侯領がプロイセンに侵略された場合、ロシアがプロイセンを攻撃すると取り決めます。1756年1月、恐れたプロイセンは英国と中立条約を結び、ハノーファー選帝侯領を侵略しないことを約束します。ロシアやオーストリアは敵国プロイセンと結んだ英国を裏切り者と非難し、英国の宿敵であるフランスと手を組みました。オーストリアも数世紀に渡りフランスとは敵対していたため、これは「外交革命」と呼ばれます。

 両陣営は欧州およびアメリカ、アフリカ、アジア各地の植民地で戦闘を繰り広げ、文字通りの世界大戦となります。スウェーデンも対プロイセンのためフランス・ロシア・オーストリア側につき、ポメラニアを巡って参戦しました。ロシア軍はプロイセンへ侵攻してフリードリヒを追い詰め、戦時中にベストゥージェフが失脚するなど混乱はあったものの、一時はオーストリア軍とともにベルリンを占領しました。英国もプロイセンを見限りつつあり、フリードリヒは絶望的状況に追い込まれます。

 しかし、彼にとっては幸運にも、1762年1月にロシア女帝エリザヴェータは病気によって崩御します。エリザヴェータは未婚で子がなく、姉アンナがホルシュタイン=ゴットルプ公に嫁いで産んだピョートル(3世)を後継者に指名していました。どのみち男系ではロマノフ家は断絶しますが、女系では一応続くことになります。この新たな皇帝はフリードリヒの大ファンで、即位するやロシア軍をプロイセンから撤退させ、5月にはプロイセンと同盟を結びました。これにフリードリヒは狂喜乱舞したといいます。

 しかしピョートル3世は将軍オルロフのクーデターによって打倒され、彼の愛人である皇后エカチェリーナ2世がロシア史上四人目の女帝に擁立されます。彼女はドイツ北部のアンハルト=ツェルプスト侯の娘で、ピョートル3世に嫁ぐため正教に改宗はしていたものの、ロシア人ではありません。とはいえリヴォニアの農民の娘から皇后を経て女帝になったエカチェリーナ1世という前例もありますし、当時は英国王だってドイツ人です。またピョートル3世との間にはパーヴェルという息子を産んでいましたから、彼までの中継ぎという名目も立てられなくもありません。

 かくして即位したエカチェリーナ2世は、30年以上にわたってロシア帝国に啓蒙専制君主として君臨し、ピョートルと並ぶ「大帝」の称号を捧げられています。彼女の時代にモンゴル帝国の末裔であるクリミア・ハン国は滅ぼされ、ポーランド・リトアニア共和国は解体され、アメリカは英国から独立し、フランス革命が勃発するのです。次回からはロシアを離れ、オスマン帝国やペルシア、中央アジアなどの動きを見ていきましょう。

◆女◆

◆帝◆

【続く】

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