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【つの版】日本刀備忘録12:双星墜落

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 建武2年(1335年)、足利尊氏は北条時行らを駆逐して鎌倉を奪還しますが、京都の後醍醐天皇と対立して追討軍を差し向けられます。尊氏はこれを打ち破って翌年京都に入り、一時は九州まで逃げるも勢力を回復、光厳上皇の院宣を奉じて上洛、後醍醐天皇を屈服させます。しかし後醍醐天皇は南の吉野に逃亡して正統な天子を称し、天下に再び尊氏討伐を呼びかけました。これより半世紀以上に渡る大戦乱期、「南北朝時代」の幕開けです。

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北陸割拠

 この頃、新田義貞は比叡山で後醍醐天皇と別れ、恒良親王・尊良親王を奉じて北陸へ赴いていました。『太平記』によると、義貞は出発前に比叡山の守護神・日吉山王権現の大宮に参詣し、累代重宝の鬼切の太刀を奉納して加護を祈願したといいます。とすると義貞の手元には、北条氏累代重宝の鬼丸の太刀のみが残ったわけですが、両方を携えて北上したとの説もあります。また恒良親王らは父から「三種の神器を密かに託された」ともいいますが、そうすると吉野で挙兵した後醍醐天皇の発言と辻褄が合いません。

 彼らは比叡山東麓の堅田湊で船に乗り、琵琶湖を北上して海津に上陸し、数日で敦賀の氣比神宮に到達、近くの金ヶ崎城に入りました。敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘に築かれた山城で、平家が木曽義仲との戦いのために築いたといい、周囲三方を海に囲まれている難攻不落の要害です。

 この時、越前守護は足利尾張家(斯波氏)の当主・高経でした。家祖の家氏は、足利尊氏の高祖父泰氏が北条義時の次男・名越朝時の娘との間に儲けた長男でしたが、泰氏はのちに北条得宗家の時氏(時頼の兄)の娘を娶って儲けた頼氏を嫡男としたため、家氏は廃嫡され庶子となります。頼氏が早世すると家氏は頼氏の子・家時の後見人となり、惣領代行ともなりましたが家督は継がず、陸奥国志和(斯波)郡を所領とし、子孫は代々尾張守に叙されました。この家系が「斯波氏」と呼ばれるのは室町中期以後です。

 高経は家氏の曾孫にあたり、高氏/尊氏とともに倒幕に加わって六波羅探題を攻め落とし、功績により越前守護に任じられました。尊氏が後醍醐天皇から離反した後も越前に留まり、持明院統の朝廷(北朝)から再び越前守護に任じられています。義貞が親王を奉じて敦賀の金ヶ崎城に入ったとの報告を受け、高経は急ぎ襲撃しますが、義貞らの抵抗により撃退されます。義貞は北東の|杣山《そまやま》城に甥の脇屋義治、家来の瓜生うりゅうたもつらを置いて北の越前国府(現福井県越前市)を狙わせ、越後の新田勢と協力して北陸から京都を脅かします。

 翌延元2年/建武4年(1337年)正月、事態を重く見た尊氏は家来の高師泰(高師直の弟)を総大将として北陸に派遣し、高経のほか仁木頼章・小笠原貞宗・今川頼貞・細川頼春ら諸国の武将を率いさせ、水軍を含む大軍で金ヶ崎城を包囲させます。城は兵糧攻めに遭って飢餓に苦しみ、義貞と弟の脇屋義助は2月に包囲を抜けて杣山城に逃れますが、金ヶ崎城は3月6日に陥落しました。義貞の子・義顕は尊良親王とともに自害し、恒良親王は京都に送られます。義貞は杣山城を拠点として抵抗を続けたものの、親王を失ったことで大義名分も失って弱体化し、尊氏は胸をなでおろします。

顕家進撃

 この頃、奥州の鎮守府大将軍・北畠顕家は、高経の子・家長率いる足利勢に苦戦していました。家長は中先代の乱の直後、建武2年(1335年)8月末に僅か14歳で「奥州総大将」に任じられ、所領のある志和郡高水寺城に入りました。しかし同年末の顕家の南下を防ぎきれず、鎌倉に駐屯して防衛し、尊氏の子で僅か5歳の千寿丸(義詮)を補佐することになります。あまりに幼い主従でしたが、尊氏の子と足利氏名門の威光は東国では強く、尊氏不在の鎌倉にあって見事に地盤固めを成功させました。

五畿七道

 翌延元元年/建武3年、家長は陸奥に従弟の兼頼を派遣し、坂東・甲斐・駿河など諸国へ書状を送って所領安堵を行い、顕家の地盤を切り崩しました。同年には北条の残党・大夫四郎(高時の弟・泰家)らが信濃で挙兵し鎌倉を襲撃しますが、家長により撃退されます。同年4月には尊氏を破った顕家が京都から戻って東海道より攻め寄せ、迎撃した家長は敗れたものの鎌倉を守り抜き、顕家を奥州に戻らせて1年以上も足止めしています。

 北畠家は村上源氏・中院流・久我家の庶流で、家祖の雅家が洛北の北畠に邸宅を構えたことに始まります。雅家の子の師親、孫の師重、曾孫の親房は代々大覚寺統に仕える公卿でした。親房は後醍醐天皇の倒幕活動には加わらず、護良親王と結んでいたため建武新政時には疎んじられ、子の顕家とともに義良親王を奉じて陸奥へ派遣され、陸奥将軍府を開きます。尊氏を九州へ駆逐したのち、顕家は奥州へ戻り、親房は後醍醐天皇と合流しています。

 翌延元2年/建武4年8月、顕家は奥州を出発して白河の関を越え、南下して下野国(栃木県)に侵攻します。足利氏の本拠地であるため抵抗も激しく、ようやく12月に下野南部の小山城を陥落させ、敵軍を撃破しつつ利根川を渡って武蔵国に入りました。この時、2人の若武者が味方に加わります。

 すなわち新田義貞の庶子・徳寿丸(のち元服して義興)と、伊豆に潜伏していた北条時行です。徳寿丸は数え7歳、時行は推定12歳ですが、彼らに従う新田・北条の武士団は東国の反足利派を引き寄せました。ただ時行にとって新田義貞は鎌倉を攻め落として幕府を滅ぼし、父の高時、兄の邦時らを殺した仇敵ですし、倒幕を命じた後醍醐天皇の勅命を奉じる顕家も、本来は北条氏にとって敵側ではあります。とはいえ尊氏という共通の敵がいる以上、時行やその家来も後醍醐天皇方(南朝)につくしかありません。時行は吉野の後醍醐天皇に書状を送り、「父が滅んだのは不忠のためで仕方ありませんが、幕府を裏切り帝をも裏切った尊氏は許せません」と上奏しています。

 顕家・義興・時行連合軍はたちまち鎌倉に押し寄せ、家長は必死で防戦しますが討ち取られます。千寿丸は上杉憲顕(尊氏の母の甥)らに守られて三浦から房総へ落ち延び、時行は再び鎌倉に帰還しました。しかし顕家にとって鎌倉は通過点でしかなく、翌延元3年/北朝の暦応元年(1338年) 1月2日に慌ただしく鎌倉を出発しました。顕家軍は各地で掠奪を行いながら東海道を20日余りで進み、21日には尾張に入ります。

 しかし上杉憲顕らはこの間に鎌倉を奪還し、顕家を追って西へ向かい、遠江・三河・信濃・美濃の諸侯と合流して、美濃国青野ヶ原(関ヶ原)で迎え撃ちます。美濃国守護の土岐頼遠はこの戦いで奮戦するも敗れ、重傷を負って一時行方不明になりますが、顕家軍も長期の行軍と必死の抵抗を受けて疲弊します。尊氏は続いて高師泰・佐々木道誉ら率いる軍勢を近江・美濃国境の黒血川に差し向けて進軍を阻み、やむなく顕家は南の伊勢へ向かいます。

近畿要図

『太平記』では「顕家が越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった。顕家がそうしなかったのは、義貞に手柄を取られるのを嫌ったからだ」と記述しています。しかし美濃から越前へ抜けるには重畳たる奥美濃の山並みを越えて行かねばなりません。時は旧暦2月初め(新暦3月)で山中は雪も深く、長期行軍と連戦で疲弊した顕家軍が越前へ向かうのは不可能に近い難事です。義貞は同月に鯖江で高経を破り越前国府を奪っていますが、近江へ南下して敵軍の背後を襲う余力はなく、顕家軍の山越えが成功しても疲弊して使い物になるかわからず、大軍を養う兵站も充分ではありません。太平記の記述は「下衆の後知恵」というものでしょう。

双星墜落

 北畠家の所領である伊勢に入った顕家軍は、ここで体勢を整えたのち大和へ向かい、吉野の後醍醐天皇を守りつつ、南から京都を脅かします。しかし2月末に東大寺の近くの般若坂で足利勢の桃井直常に敗れ、さらに西へ向かって3月には河内に入ります。河内の楠木党は楠木正成の戦死後も足利勢への抵抗を続けており、堺湊など港湾による交易も盛んでした。顕家は河内・和泉を根拠として、北朝方と1ヶ月あまり戦闘を繰り広げます。

 顕家の弟・顕信は、春日顕国らとともに北上し、山城国南端の男山に籠城します。ここは伊勢神宮と並ぶ皇室の宗廟・石清水八幡宮があり、清和源氏からも氏神として崇敬されていたため、足利側は攻めあぐねました。

 延元3年/暦応元年5月、尊氏の腹心の高師直は顕家を討つべく堺浦へ侵攻します。顕家軍は善戦しますが疲弊しており、師直は瀬戸内水軍を味方につけて海から支援攻撃を行わせ、ついに顕家を包囲して討ち取ります。時行や義興は逃げ延びますが、名和義高・南部師行ら有力な武将も戦死し、南朝は危機に陥ります。高師直は返す刀で男山に攻め寄せると、忍び(忍者)を遣わして石清水八幡宮の社殿に火をかけさせ、ついに陥落させています。

 義貞は越前国で足利高経と転戦した末、同年閏7月に藤島の戦いで戦死します。高経は国府を追われたあと黒丸城に籠もっていましたが、高経は新田側にいた平泉寺の衆徒が延暦寺と所領を巡って係争していたのに目をつけ、彼らを寝返らせて黒丸城の支城・藤島城に籠城させました。義貞はこれを攻めるべく兵を動かしたものの、高経が藤島城へ送った援軍と遭遇戦となり、眉間に矢が刺さって斃れたのです。

 総大将を失った新田勢は総崩れとなり、残党は脇屋義助・義治らに率いられて北陸を転戦するも追い詰められ、美濃・尾張を経て吉野へ逃走します。義貞の首級は京都へ送られて晒し首となりました。『太平記』によると、この時に鬼切・鬼丸の両太刀は高経が回収しましたが、尊氏が引き渡すよう求めたところ「焼けてしまった」として焼身の太刀を2振り渡し、密かに自分のものにしてしまいました。後でこれを知った尊氏は大いに怒り、高経に命じて鬼切・鬼丸を差し出させ、義貞討伐の功績に対しても恩賞を与えなかったため、両者は以後仲違いするようになったといいます。

 これが本当かどうかは定かでありませんが、鬼切・鬼丸の両太刀は名目上は足利氏に回収され、清和源氏と北条氏の支配権を継ぐ正統性を足利氏に与えることとなります。ただ異説では、高経は真の鬼切を尊氏に渡さず、弟の家兼ないしその子の兼頼に授けました。彼らは奥州管領・羽州探題として奥羽を統治し最上氏の祖となったため、鬼切は最上氏に伝来したといいます。

 これまた本当かどうか定かでありませんが、現在京都の北野天満宮には、明治時代に最上氏から流出したと伝えられる太刀「鬼切丸」が奉納されています。その茎には本来鬼丸にあるはずの「(粟田口)国綱」の銘が刻まれていますが、鬼切にあるべき「(伯耆)安綱」の銘が後から改竄された痕跡があるなど、謎に包まれています。真贋は定かでありません。

 鬼切・鬼丸の行方はさておき、顕家・義貞の戦死により南朝側は大いに勢力を弱め、尊氏は同年8月に征夷大将軍に任じられて幕府を開きます。翌年には後醍醐天皇が吉野で崩御しますが、南朝はなおも抵抗を続けました。戦乱により刀剣・武具の需要は増大し、各地に新しい刀工の流派が現れます。

◆キラキラの◆

◆灰◆

【続く】

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