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【つの版】度量衡比較・貨幣137

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 17世紀末、江戸幕府勘定方の荻原重秀は慶長以来の貨幣改鋳を行い、巨額のカネを集めて幕府財政を再建しました。しかし日本にはこの頃続けざまに巨大な災害が降りかかり、改鋳で得られたカネも災害対応や被災地復興のためにたちまち吹っ飛びます。やむなく重秀はさらなる改鋳に着手しました。

◆ハイパー◆

◆インフレーション◆


宝永改鋳

 宝永3年(1706年)、荻原重秀は「近年銀が払底しているので」と称して銀の吹き替え(改鋳)を行い、表面に「宝」の字の極印を2つ打った新たな貨幣「宝永二ツ宝銀」を発行します。これは元禄銀よりさらに品位が低く、銀は5割しか含まれておらず、残りは銅や僅かな金、鉛などの合金という代物でした。重秀は慶長銀・元禄銀と等価で扱うよう通達しますが、市場では他の丁銀より安く見積もられ、翌年の肥後米1石の相場は「慶長銀で75-93匁、元禄銀で93-117匁、宝永銀で120-150匁」となっています。

 丁銀はおおよそ43匁(160g)前後の秤量貨幣で、10匁(37.3g)前後の小玉銀(小粒銀・銀玉・豆板銀)も発行されています。

 また重秀は宝永銀を流通させ、かつ退蔵された良質の銀を出させるため、翌宝永4年(1707年)10月には諸国における「札遣い(銀札=銀の兌換紙幣の使用)」を禁止し、銀札発行元に対し50日以内に銀札を銀に引き換えるよう命じます。しかし市場は命令に従わず、朝鮮など諸外国は低品位な宝永銀での取引に応じず、取引中止を通告します。

 宝永5年(1708年)、重秀は大型の銅銭「宝永通宝」を発行し、1枚が10文に相当すると定めました。チャイナでも歴史上出現した「当十大銭」です。しかし重さは2.5-2.3匁(9.37-8.62g)しかなく、荻原銭でも4枚程度で、市場では計算にも不便であるとして全く流通しませんでした。重秀の後ろ盾であった将軍の綱吉が翌宝永6年(1709年)正月に薨去し、甥で養子の家宣が跡を継ぐと、不評だった宝永通宝の発行と流通が停止されています。また生類憐みの令や、酒に5割も課せられていた運上金(酒税)も廃止されました。

白石反論

 家宣の侍講(学問講義を行う役)であった儒学者・新井白石の随筆『折りたく柴の記』によると宝永6年2月、家宣は将軍代替わりの諸費用について重臣を集めて相談しました。この時、荻原重秀はこう申し述べました。

「御料(幕府直轄地)400万石、歳入およそ76-77万両余。うち長崎運上4万両、酒運上6000両。夏冬に支払う(幕臣への)御給金は30万両で、残り46-47万両余。しかるに去年の国用(出費)は140万両に及び、他に内裏造営に70-80万両を用いるため、不足は170-180万両余となります。たとえ大喪の御事(将軍の喪儀)がなくとも、使用可能な国財はありません。喪儀や新将軍宣下の儀式等を行えばなおさらです」

「現在御金蔵にある貯蓄は、僅かに37万両に過ぎません。うち24万両は、去年の春に武蔵・相模・駿河3国の灰砂(宝永噴火の火山灰)を除去する役目を諸国に課し、100石につき3両を徴収して40万両を得、うち16万両でこの用に使った残りを、城北の御所造営料として御金蔵に入れたぶんです。現在使用可能な国財はこれしかなく、当座の用に充てても1/10にも足りません」

「前代(綱吉)の時、歳出は歳入の倍に増えて国家財政が破綻したため、元禄8年9月より金銀改鋳を行いました。これによって500万両の収入を得ましたが、元禄16年冬に大地震が起き、改鋳で得た収入は災害復興費となって、たちまち尽きてしまいました。宝永3年7月に再び銀貨を改鋳しましたがなお足りず、去年の春に当十大銭を発行しましたが、これはうまくいきませんでした。今の財政危機を救うためには金銀改鋳しかございません。世の人々はとやかく申しますが、これによらねば当座の必要も満たせず、災害復興もできません。豊年となり国財が余りあるようになった時に及び、以前のように良質な金銀に改鋳することはたやすいことです」

 集まった幕臣は皆これに賛同しますが、新井白石は「まず金銀改鋳を行わねば、天変地異も起きなかったであろう(災異説)」と反論し、他の方法がないか議論すべきであると告げます。そして翌日将軍に封書を差し出し、こう申し上げました。「重秀が申す残り37万両とは、実は一昨年の税収の残りです。これに昨年の税収76-77万両を足せば、合計110余万両となります。当座の必要なものはここから出し、足りねば十数年に分割して支払えば済むことです」。家宣はこれに従い、金銀改鋳は行わないことにしたといいます。

 白石は「重秀がわざと不足と申して御耳を脅かしたのは、自分の思い(改鋳による賄賂獲得)を遂げんがためであろう」と書いていますが、彼の個人的な憶測ですからなんとも言えません。

無断悪鋳

 しかし翌宝永7年(1710年)3月、重秀は将軍に無断で改鋳を行い、「宝永永字銀」を発行します。「宝永二ツ宝銀」より品位は下がり、銀は4割しか含まれていません。銀より銅の方が多い有様です。さらに同年4月には銀の含有率が3割2分に低下した「宝永三ツ宝銀」、翌宝永8年/正徳元年(1711年)8月には銀が2割しかない「四ツ宝銀」が大量に発行されます。家宣もこれを知っていましたが、財政再建のために黙認しました。

 宝永7年4月には金貨の改鋳が行われ、宝永小判(乾字金とも)が発行されています。慶長小判は重さ4.76匁(17.76g)で金86%前後、元禄小判はこれと同じ重さで金56%(残りは銀等)前後でしたが、宝永小判は重さが2.5匁(9.33g)に縮み、代わりに金含有率は83%前後に引き上げられました。しかし元禄小判の金含有量は10g弱あったのに対し、宝永小判の金含有量は7.7gで、金の総量は減っています。小判の1/4の重量の秤量貨幣「一分判」も小さくなり、1.19匁(4.44g)が0.625匁(2.33g)に縮みました。

 一連の金銀改鋳により、幕府には多額の出目(差益金、改鋳利益)が流れ込み、財政は劇的に改善します。出目は二ツ宝銀が3万7318貫余、永字銀が1477貫余、三ツ宝銀が8万199貫余、四ツ宝銀が9万4597貫余、計21万3595貫。金換算して350万両。宝永小判の出目は257万2100両、銀と足して607万2100両。これにより、災害復興や内裏造営、将軍の喪儀や代替わりの儀式による出費は全て賄うことができました。また貨幣鋳造所である金座・銀座は「分一金」「分一銀」という鋳造手数料を取っていたため、一連の改鋳で銀座だけで11万貫弱(200万両)もの巨額の収入を得たといいます。

 しかし品位の大きく異なる金銀が短期間で大量に流通したため、貨幣相場は激しく混乱し、商人の資産価値も下落します。重秀は混乱が鎮まれば金銀の品位をもとに戻すつもりだったようですが、その前に失脚しました。

人参代銀

 金銀改鋳により幕府は多額の差益金を得たものの、海外との交易には悪影響を及ぼしています。特に問題となったのが朝鮮との交易でした。朝鮮は重要な交易品として薬用の人参(オタネニンジン)を輸出しており、日本は対馬藩を介してこれを輸入していましたが、決済は銀で行われました。元禄8年の改鋳で銀の品位が低下すると、対馬藩は国際的な商業信用維持のため、ひとまず慶長銀を継続して決済に用いることとします。

 ところが次第に慶長銀の確保が難しくなり、対馬藩はいったん交易を停止して朝鮮と交渉し、元禄12年(1699年)5月より元禄銀の使用を認められました。ただし元禄銀による支払いは慶長銀の2割7分増しとされ、銀含有量では2割5分増しとなりました。朝鮮側に落ち度はなく、悪鋳を行った日本側に責任があるので仕方ありませんが、宝永3年からの一連の改鋳で銀の品位がさらに下がり、対馬藩は対応に苦慮します。朝鮮側も天候不順などで人参の収穫高が低下し、やむなく再び取引が中断されました。

 対馬藩は幕府に事情を報告し、幕府は宝永7年9月に人参取引専用の高品位の丁銀を発行することにしました。これは慶長銀と同品位の銀8割で、「昔に戻る」という意味で「往古銀」と呼ばれますが、対馬藩では悪質の銀を渡していたわけではないとして「特鋳銀」と呼んでごまかしています。幕府から対馬藩へ渡された人参代の往古銀は年間1417貫500匁に及び、対外貿易専用のため日本国内では通用せず、小玉銀も鋳造されていません。

 これに対して、反重秀派の新井白石が噛みつきます。儒学者かつ愛国者の彼にとって儒教国の朝鮮にナメられるのは耐え難く、重秀を「有史以来の奸物、極悪人」と断じ、将軍に重秀の勘定奉行罷免を求める上申書を3度も提出、しまいには「罷免しないのなら、殿中で彼奴を暗殺し切腹する所存」とまで迫ります。家宣はこの頃病床についており、9月に根負けして重秀罷免を承諾しました。翌10月に家宣は薨去し、唯一生存していた3男の鍋松が3歳で跡を継ぎます。これが第6代将軍・徳川家継です。

 失脚した荻原重秀は、翌正徳3年(1713年)9月失意のうちに絶食して逝去します。白石は重秀の党派を贈賄罪等に問い、次々に失脚させて幕政の実権を握り、「正徳の治」と呼ばれる国政改革を行い始めます。

◆白◆

◆石◆

【続く】

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