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記事一覧

【つの版】度量衡比較・貨幣140

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  正徳6年/享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が8歳で薨去し、紀州徳川家の藩主・吉宗が徳川宗家の養子となって将軍位を継承します。幼い家継を傀儡として権勢を振るっていた間部詮房・新井白石らは失脚し、吉宗は彼らの政策を一部受け継ぎつつ、幕政改革を推し進めて行きます。 ◆農◆ ◆耕◆ 緊縮政策 政治の根幹は財政です。当時の幕府財政は、400万石に及ぶ幕府直轄領からの年貢、鉱山や山林からの収入によって成り立っていました

【つの版】日本刀備忘録14:相伝流行

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政は2年で崩壊し、足利尊氏は持明院統の天皇を擁立して南北朝時代が到来しました。戦乱により刀剣・武具の需要は増大し、各地に新しい刀工の流派が現れます。前回は東国を見てきましたから、今回は畿内・西国です。 ◆刀剣◆ ◆乱舞◆ 山城信国 鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、京都では来派の刀工が活躍していました。国行・国俊の跡を継いだ国光の在銘作刀年代は正和2年(1313年)から貞治2年(13

【つの版】度量衡比較・貨幣139

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  正徳6年/享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が8歳で薨去し、紀州徳川家の藩主・吉宗が徳川宗家の養子となって将軍位を継承します。幼い家継を傀儡として権勢を振るっていた間部詮房・新井白石らは失脚し、吉宗は彼らの政策を一部受け継ぎつつ、幕政改革を推し進めて行きます。 ◆松◆ ◆健◆ 徳川吉宗 徳川吉宗は、家康の10男で紀州徳川家の祖である頼宣の孫にあたり、貞享元年(1684年)10月に生まれました。父の光貞は既に5

【つの版】日本刀備忘録13:美濃開伝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政は2年で崩壊し、足利尊氏は持明院統の天皇を擁立して南北朝時代が到来しました。戦乱により刀剣・武具の需要は増大し、各地に新しい刀工の流派が現れます。まずは東国から見ていきましょう。 ◆京極◆ ◆正宗◆ 高木貞宗 鎌倉時代においては京都・備前・鎌倉の三箇所が刀剣作成の主要な中心地でした。京都には三条派・粟田口派に続いて来派が現れ、備前には長船派が出現し、鎌倉には備前派と粟田口派を融合させ

【つの版】度量衡比較・貨幣138

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  元禄8年(1695年)から正徳元年(1711年)にかけ、江戸幕府は財政危機に対処するため、勘定奉行・荻原重秀の主導により大規模な貨幣改鋳を行いました。しかし悪貨が市場に流通して物価が高騰し、資産価値が下落する等社会不安を招き、新井白石の弾劾により重秀は失脚します。白石は幼い将軍徳川家継を奉じて幕政の実権を握り、国政改革を行いました。 ◆白◆ ◆蛇◆ 新井白石 新井白石は幼名を伝蔵、仮名を与五郎・勘解由、諱を君美といい、

【つの版】日本刀備忘録12:双星墜落

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  建武2年(1335年)、足利尊氏は北条時行らを駆逐して鎌倉を奪還しますが、京都の後醍醐天皇と対立して追討軍を差し向けられます。尊氏はこれを打ち破って翌年京都に入り、一時は九州まで逃げるも勢力を回復、光厳上皇の院宣を奉じて上洛、後醍醐天皇を屈服させます。しかし後醍醐天皇は南の吉野に逃亡して正統な天子を称し、天下に再び尊氏討伐を呼びかけました。これより半世紀以上に渡る大戦乱期、「南北朝時代」の幕開けです。 ◆W-Boiled◆ ◆

【つの版】度量衡比較・貨幣137

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  17世紀末、江戸幕府勘定方の荻原重秀は慶長以来の貨幣改鋳を行い、巨額のカネを集めて幕府財政を再建しました。しかし日本にはこの頃続けざまに巨大な災害が降りかかり、改鋳で得られたカネも災害対応や被災地復興のためにたちまち吹っ飛びます。やむなく重秀はさらなる改鋳に着手しました。 ◆ハイパー◆ ◆インフレーション◆ 宝永改鋳 宝永3年(1706年)、荻原重秀は「近年銀が払底しているので」と称して銀の吹き替え(改鋳)を行い、表面

【つの版】日本刀備忘録11:建武之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉幕府が滅んだ後、源氏重代の太刀「鬼切」と、北条氏重代の太刀「鬼丸」は、紆余曲折を経て新田義貞の手に渡った、と『太平記』は記します。しかし、義貞の命運も長くは続きませんでした。 ◆太◆ ◆平◆ 足利高氏 倒幕の主力となった足利氏は、新田氏と同じく源義国の子孫で、下野国足利庄(現栃木県足利市)を本拠地とする名門です。初代の義康は鳥羽院の北面武士となり、源義朝と同じく熱田神宮の大宮司の娘(頼朝の母の一族)を妻に迎えました。その

【つの版】度量衡比較・貨幣136

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  17世紀から18世紀にかけて、欧州・アジア諸国は同盟国や植民地を巻き込んで戦争に明け暮れていました。この頃の日本の様子を見てみましょう。 ◆江戸◆ ◆時代◆ 金銀不足 振り返ってみましょう。江戸時代の日本では金・銀・銭・米が主な貨幣として流通し、それぞれの相場は日々変動していました。寛永13年(1636年)からは幕府により国産の銅銭「寛永通宝」が大量に発行され、貨幣価値が下がって物価と労賃が上昇し、17世紀後半には「金

【つの版】日本刀備忘録10:中先代乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉時代には備前や山城の刀工が鎌倉に赴いて腕を競い、国光や正宗などの優れた刀工が生まれました。しかし西暦1333年、鎌倉幕府は滅亡します。戦乱の中、鎌倉に集められていた刀工や名刀はどうなったのでしょうか。 ◆逃◆ ◆若◆ 幕府滅亡 この頃、朝廷は後深草天皇の系統である持明院統と、その弟・亀山天皇の系統である大覚寺統に分裂していました。両者は王家の家督者「治天の君」の座と広大な荘園の相続を巡って長年争い、皇族や貴族・寺社も両派

【つの版】度量衡比較・貨幣135

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  17世紀から18世紀にかけて、欧州・アジア諸国は同盟国や植民地を巻き込んで戦争に明け暮れていました。前回は清朝を見てきましたから、次はその周辺諸国である朝鮮・琉球・ベトナムの貨幣について見ていきましょう。 ◆韓◆ ◆国◆ 大同宣恵 復習してみましょう。朝鮮半島では長らくチャイナの貨幣を輸入したり、金銀や布などを貨幣にしたり物々交換したりしていましたが、10世紀末に契丹との貿易のため初めて独自の銭を発行し、12世紀には銀

【つの版】日本刀備忘録09:相州正宗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  承久の乱の後、後鳥羽院が集めていた備前や粟田口等の刀匠たちは鎌倉へ移住し、鎌倉幕府の執権や御家人のために腕を振るい始めました。彼らは互いに腕を競い、作風を学び合い、独自の作風を編み出していきます。その代表が新藤五国光、その弟子とされる正宗です。 ◆花◆ ◆丸◆ 相州国光 国光の生没年は不詳ですが、永仁元年(1293年)から元亨4年(1324年)までの在銘作刀があり、蒙古襲来よりも後、鎌倉時代後期に活躍したことになります。仮に

【つの版】度量衡比較・貨幣134

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  17世紀から18世紀にかけて、欧州諸国は同盟国や植民地を巻き込んで戦争に明け暮れていました。では同時代のアジアはどうなっていたでしょうか。トルコ、イラン、インドの3帝国に続いて、チャイナを見ていきましょう。 ◆拉◆ ◆麺◆ 大清制銭 明朝滅亡後にチャイナを征服した清朝の貨幣制度は、秤量貨幣である銀と計数・信用貨幣である銅銭の併用でした。銀は主に税金や支配層への給与、対外貿易や高額取引に用いられ、銅銭は日常の商取引に用い

【つの版】日本刀備忘録08:粟田口派

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  承久の乱の後、後鳥羽院が集めていた備前や粟田口等の刀匠たちは鎌倉へ移住し、鎌倉幕府の執権や御家人のために腕を振るい始めました。彼らは互いに腕を競い、作風を学び合い、独自の作風を編み出していきます。その代表が新藤五国光、その弟子とされる正宗です。しかし西国の作刀は衰えることなく続いています。鎌倉時代の山城・備前の刀工を見ていきましょう。 ◆刀剣◆ ◆乱舞◆ 粟田口派 平安末期から鎌倉時代にかけて、古備前派と並び称されるのが山城