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母が永眠しました 親を見送る


昨年の11月にかわいがっていた家族の一員の愛犬を亡くしたばかりだったのに、母まであちら側にいってしまいました。

母は、数年前、コロナ禍で救急搬送されて何度やってもPCRは陰性、からの間質性肺炎が発覚。

幾度かの緊急搬送も、本人は元看護師長だけあって毎回自ら医師と治療方針などを納得いくまで話し合い、時に交渉し、最期まで自身がモットーとしている『医食同源と人間らしい尊厳の大切さ』を出会う全ての人に体現しつつ、毎回不死鳥のようにカムバックしてきては周りの人を驚かせてきました。

元看護師としてたくさんの患者さんとの出会いと経験から「入れたら寝たきりになってしまう」と、亡くなる数日前までは、おしっこの管は入れずにポータブルトイレに排泄して、自分の体調に合わせて、整える効能のある食材を選んで口から食べていました。

実際、検索してみると母の選択が正しかったことがわかる記事を発見。

急性期の病院では人命を救う時間との闘いで、人手を増やさなくては対応できないのだとおもいますが、そんな中、母が入院していた病院の呼吸器内科病棟のみなさんは、素晴らしく献身的かつプロフェッショナルな対応にとても感謝しています。

母の年末からの入院では、とにかく関わってくださるまわりの全ての人に手を合わせては「ありがとう」を繰り返していました。

「延命治療はいらない。もう十分に生きた。我が人生に悔いなし。ありがとう。娘たちがいてくれてよかった」を何回も、何回も。

息を引き取る前日には辞世の句を詠むかのように、家族一人一人の手を握り話しをして、翌日危篤で呼ばれた時には、まわりの流れを把握しながら、まるで自分で調節でもしているかのように眠るようにゆっくりと息を引き取りました。

我が母ながら、元看護師長のあっぱれな最期でした。

葬儀は母の希望でこぢんまりと家族だけ。母が信仰していたお寺の紹介の小さな斎場がたまたま友引を挟んでいたのでワンフロア貸し切りでした。

憔悴しきった94歳の父は自宅にいてもらい、小さくてかわいく美しい寝顔の母の亡骸とわたし妹と3人母娘水入らずで三晩ともに過ごしました。

まわりを全く気にすることなく、母の好きだった1投稿前のチャイコフスキーの悲愴、マリアカラスのトスカ 星は光りぬ や、パヴァロッティのトゥーランドットなどの曲を流してクラシック好きの母を偲びました。

母の遺影は、初孫で赤ちゃんの頃は母にナニー代わりもしてもらった息子が主人と2人で、Photoshopで立派なフレームに入れて仕立ててくれました。

使用した写真は、母が息を引き取った後バタバタしていたわたしのiPhoneに入っていた母の唯一にこやかに前を向いて写った写真で、これは娘が小学校の卒業式に袴を着た時に一緒に写したものからエディットしたものでした。

そして奇しくも母の告別式の日は、娘たちの高校の卒業式。
定点観測的にしたくて小学校の時に着た着物と袴をお直しして、生前に母に相談して着付けの小物などは母のものを借りていた経緯もあり、母も卒業式の袴姿を楽しみに気にかけてくれていました。

孫たちの卒業式を母は身体から卒業して見に行ってくれていたと思います。

人が亡くなると社会的対応に忙殺されるんですね、、、思ってもみませんでした。数えてみると、まだ亡くなって2週間ちょっとなのに、いろいろありすぎて3ヶ月くらい経ったように感じています。

でも49日まではお別れに必要な生きている人側が心を穏やかにするために必要な時間だと聞いたこともあり、

なにかにクイックアタック的に反応する必要も全然なく、むしろこんな時だからこそ「一日ひとつ、こなせたらいいかも」くらいで心身ともにスペースと時間が必要なじきなんですね。

まだまだ自分ごとと思えてなくて、ママから電話がかかってきそうだし、うっかり晩御飯のレシピを聞くのに電話しそうになったりして我ながら笑ってしまいますが、

不思議なプチ ポルターガイスト現象があったりして「ちょっとママ!たのみますよ!」とキツイときは少し怒り気味に斜め上あたりを見ながら母のスピリットに生前と変わらずに話しかけたりしているわたしです。

母やフリちゃんのソウルが わたしたちと共にあるから、わたしは大丈夫。


ちょっとスターウォーズっぽく

May their souls be with us,always...🤍🕊️✨








#母
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#Yokoxmas

ありがとうございます(*Ü*)*.¸¸♪