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都市を歩くのが好き

都市には多様なモノ、コトがあふれている

人にはいろんな嗜好があるけれど、私はひたすら都市を歩くのが好きだ。田舎や田園地帯が嫌いというわけではない。どこを歩くのも基本的には好きだが、都市を歩くのはそれとは一味違ったものがあるという程度に認識していただければありがたい。都市を歩くのが好きである第一の理由は、都市には多様な事物が含まれていて、無限といっていいほど関心を持つ対象が多いということがある。ざっくりした意味では、さまざまな交通機関が入り混じり巨大な建物群がある。劇場や映画館、大きな公共施設、スポーツ・センター、あふれる数の人がいて多種多様な商店や遊戯施設、サービス施設、飲食店がある。
都市には、全国各地、あるいはよその国からも途切れることなく人やモノがやってくるので、都市は必然的に多様な要素を持っている。その多様な要素は、それぞれ幾分かは互いに接触し合って、最近の言葉でいうと「化学反応」を起こすだろうから、また次々に新しい要素を生んでいく。私はその新しい要素をすぐに自分の手の上に乗せようとはしないが、それを見るのは楽しい。多様性があれば選択の幅が広い。単純に言えば、私が都市を歩くのが好きなわけは、こんなところに尽きる。

成長する都市を賛美、あるいは衰退する都市に哀惜の念を

しかし世の中には、ネクロフェリア的というか、廃墟感覚というか、崩壊した都市、崩壊しつつある都市が好きだという人もいる。言葉でいえばどちらも都市が好きなのだが、おそらく成長しつつある都市を賛美する人と、衰退しつつある都市に哀愁を感じる人の違いかもしれない。そうしてみると、確かに都市は生きていて、成長期、成熟期、円熟期、衰退期といった変化はまさに都市の年齢のことだと思うのだ。そこでいざ私に、どの年齢の都市が好きなのかと聞かれたら、そのことについて私は何も考えていなかったことに気づく。
本来ならば私たちは、一つの都市に生まれて、都市とともに成長し、都市とともに老いていくのが自然だと思うのだが、現代の巨大な都市は永遠の生命を持ち、無限に成長しようとしているように感じるはずだ。つまり、都市がいつまでもずっとその姿を維持するというのは、ある意味で不自然だと思う。都市も私たちと同じように、少しづつ年齢を重ね、成熟、老化していくのが自然だと言える。

それでは、私が好きな都市は、どのような年齢の都市なのかと改めて考えてみると、やはり私は生きて成長し、やがて老いていく都市すべての過程なのではないかと思う。もっと言うと、都市も私たちと同じに、やがて老いさらばえていくものであってもいいのではないか。ともかく、一つの大都市に日本の人口の何割かが住んでいるということの方が不自然なのだ。一つの国家の首都として機能するためには、当然大都市にならざるを得ないのだが、それは生活者の都市ではなく国家としての機能であって、機能の中に生きていることを都市生活と呼んでいるのではないだろうか。昨今、「移住」ということが話題になっているが、成長以前の都市に住もうとすることもまた、人間にとって自然のことのように思えるのだ。


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