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資材置き場の黄昏

大阪の「堀」にまつわる子供の世界

大阪には、「堀」という文字の入った川が多い。立売堀、江戸堀、京町堀、土佐堀、道頓堀、土佐堀といったところだ。そしてこれらの「堀」は大阪城の外堀であったことに由来しているという。豊臣秀吉は、よく言えば用心深く、悪く言えば小心で、大阪城の外堀を十重二十重に巡らして大阪城の守りを堅固にしようとしたのだろう。そんなことで、結果的に大阪城の外堀は、大阪城の天守閣のある地域から、はるかに遠くに離れたところまで拡がってしまったのだ。
わが家のあったところは立売堀周辺の地域で、大阪城からそれほど離れていなかったがかつては多くの堀が縦横に入り混じっていた。戦中の空襲と、戦後の大阪再建のために堀の存在はほとんど無視されて、大きな川以外は思い付きで埋め立てられた。子供の頃のことなので、どの川であったか正確に覚えていないが、空襲後の川の傍にある大きな空き地に、広い建築資材置き場があった。川沿いに300メートル、川からの奥行200メートル近くもあった。もちろん私たち子供には壮大なものと見えた。

高度成長社会を予告する資材置き場の群像

建築資材といっても様々な資材が置かれているのではなくて、木製のいわゆるコンクリートの型枠というものだけで、この用地一杯に整然と積み上げられていた。型枠の寸法がほぼ一定だったので、精緻に積み上げられていて、本物はもちろん見たこともないが、黄昏時にはアメリカのマンハッタンに林立するビル群を思わせる美しさだった。しかし近くによってみると、木製の型枠にはコンクリートが一様にこびりついて、そのごつごつとした質感は、それから驚くほど長い時間が経っているのに、まだこの手に残っているような気がする。
時に幼い子供はアリのような緻密な仕事をするもので、私を含めた6人の仲間の子供たちは、このコンクリートの型枠のジャングルにしっかり入り込んで、型枠の塔と塔の隙間を微妙に整えて子供だけの通路に変えていた。そればかりではなく、このコンクリートの型枠の塔の中の数層を抜き出して、私たちの秘密の部屋として活用できるように、ある程度広い空間を作り出すのだった。もちろん、作った空間が押しつぶされたり、崩壊することがないように、左右のバランスを厳しく調整し、平らに置かれたコンクリート型枠を二枚セットで縦の柱として活用し、堅固で安定した私たちの秘密の小屋を作った。この秘密の部屋の中には、今では笑い話になるのだが、ゲルマニウム・ラジオとロウソクを持ち込んでいた。

変化の予兆が最初に現れるのは子供の世界

ところが、この私たちの秘密の部屋は実に3年2カ月の間、資材置き場として使用していた建設会社に発見されることはなかった。しかしいつかは露見するもので、この秘密の部屋が発見されたとき、私はすでにこのグループをリタイアしていたので、私には直接何のお咎めもなかった。この事件は実は社会的にはほとんど話題にもならず、結果的には資材置き場がなくなったということだけだった。何年かすると巨大なビル群が姿を現し、いわばコンクリートの型枠置き場がなくなって、巨大なビル群になったということだった。そのころから社会でも次第に戦後という言葉が使われることが少なくなってきて、その1年後の1956年(昭和31年度)、経済白書に「もはや戦後ではない」と記述されたのものだった。世の中の変化の予兆は、だいたい4、5年前に現れる。しかし経験則として、その3年ほど前には、子供たちの世界にまず陽炎のような、最初の予兆があるように思えるのだ。

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