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がんばれ「二十世紀梨」

白桃と「二十世紀梨」が私にとっての果物の王様

私は岡山県に多少縁があり、岡山県が白桃と梨の産地として知られていたこともあって「白桃」と「二十世紀梨」が大の好物だった。大正時代までは岡山県で「二十世紀梨」が盛んに栽培されていたが、今では岡山県の風土に合った幸水梨系のタイプが中心になっていると聞いている。だから私の中では、桃と聞けば白桃、梨といえば「二十世紀梨」というイメージが強く、果物が食べたくなると、つい白桃や「二十世紀梨」を想像してしまう。
さて仕事の上の都合で、私は東京から「矢切の渡し」で知られた矢切川を越えて千葉県の松戸市にしばらく移り住むことになった。松戸駅周辺は都会の風情だが、松戸駅から遠ざかるにしたがって、のどかな風土が広がっている。ところが、東京にも短時間で行け、周辺の道路も都市区画が大らかで、田園地帯を思わせる風情があるので喜んでいたところ、住んだところの住所が千葉県松戸市の「二十世紀が丘」というところだった。そんなことで、私はその地に住んで初めて、「二十世紀梨」が開発された場所が、この千葉県松戸市だったことを知ったのだった。その当時松戸で小さな食堂を営んでいた高齢の女性から聞いた話では、「二十世紀梨」はもともと千葉県で開発されたが、どういうわけか千葉県の主要農産物にはならず、結局はその名誉を鳥取県に持っていかれたと、不満げに話していた。ところが後日、私がそのことをネットで調べてみると、「二十世紀梨」は、鳥取県と併せて千葉県の松戸でも盛んに栽培されていたというのがどうも事実らしい。

「二十世紀梨」は13歳の少年がごみ置き場で発見した新種

高齢の食堂の経営者の話の続きだが、松戸には「二十世紀梨」に関して、面白い話も伝わっていて、「二十世紀梨」は、明治21年に松戸市に住む松戸覚之助という当時13歳の少年によって偶然発見された梨の新種だということらしい。それも果実生産者が必死になって開発したのではなくて、少年が、ごみ置き場の周辺に生えていたものとして発見したという。つまりごみ置き場の周辺で、ごみとして捨てられた梨の種から梨の木が育ち、それが複数種あったので、その複数の木の花が交配し、「二十世紀梨」になったということなのだろう。だからおそらく、ある期間、複数の種類の梨の木が生えていたに違いなく、相当長い間誰も気が付かなかったのかも知れない。

この話を聞かせてくれた食堂の経営者は、ずいぶん熱心に「二十世紀梨」のことを力説するので、ついこの二十世紀が丘の方の出身ですかと尋ねたところ、食堂の経営者は「私はリンゴの名産地の青森生まれの青森育ちだ」と、憮然とした表情で言い放った。愛郷心というのもなかなか難しいものだと発見することになった。


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