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音楽マネージャーとライター、事業家などに夢中になっているうちに、いつの間にかかなりの月日が経ちました。何か新しい楽しみを発見している最中です。

最近の記事

都市を歩くのが好き

都市には多様なモノ、コトがあふれている 人にはいろんな嗜好があるけれど、私はひたすら都市を歩くのが好きだ。田舎や田園地帯が嫌いというわけではない。どこを歩くのも基本的には好きだが、都市を歩くのはそれとは一味違ったものがあるという程度に認識していただければありがたい。都市を歩くのが好きである第一の理由は、都市には多様な事物が含まれていて、無限といっていいほど関心を持つ対象が多いということがある。ざっくりした意味では、さまざまな交通機関が入り混じり巨大な建物群がある。劇場や映画

    • 物々交換の美学

      ほぼ同じ価値のものを交換する 近くに住む友達が、といってもかなりのオジサンが、ホッチキスを借りに来た。近くのコンビニにいけば売ってるよと言いたかったが、オジサンの顔が真剣だったので、そのままホッチキスを渡した。オジサンはホッチキスを返す意思が全くないみたいで、彼なりにほぼホッチキスの価格に見合う、パッケージに入ったままの筆ペンみたいなものを置いて帰った。これは目新しいことではなくて、彼の高校生時代からの癖のようなものだ。貨幣による売買を拒否して私には「物々交換」を要求してく

      • 「シャッター街」は近い未来の産業資源

        向かいの寿司屋が、いつの間にかあの牛丼チェーンに! いつの間にか、家の近くにあった商店街がシャッター街になり、豆腐屋や蕎麦屋、うどん屋、中華食堂、コインランドリーが静かに町内から姿を消した。実際のところ、私たちはこの変化の理由も結果も分かっていたはずだが、ついついチマチマした便利さと、何となくの小ぎれいさに負けて、大型の商業施設を受け入れてしまったということなるんだろう。しかしこの手のものは、景気が回っているときは問題が目立たないが、景気の基本が崩れてくると、消費者の都合な

        • まったく似ても似つかない二人なのに、すぐに混同してしまう不思議

          北村と奥村はどっちがどっち 高校生の頃、クラスで親しくしている二人の友人がいた。おかしなことに、私はいつもその二人を混同してしまう。その中の一人は北村といい、あとの一人は奥村といった。まったく顔のタイプも性格も、少しも似通った部分はないのに、その一方の名前を呼ぶ場合も、実際に私が頭の中で一方の友人のことを考える場合にも、必ずと言っていいほど混同してしまう。具体的に言えば、頭の中では北村を相手に言っているつもりで、奥村に向かって話しかけているということになる。事実問題としては

        都市を歩くのが好き

          巨大ネタ寿司と、鉄板大お好み焼き

          大相撲の力士が駆け付けてくる巨大ネタ寿司屋 私が小さいころ、近鉄南大阪線の沿線の阿部野橋駅から数駅のところ辺りに有名な寿司屋があった。実は私自身はこの店に直接行ったことはないのだが、親父が週に一度は大きな寿司折りを土産として持ち帰ってきていたのだった。この店の寿司はネタが巨大で、穴子やウナギは一つの握りにそれぞれ一匹分のネタが載る。蛸は、大きな足の部分を四等分したものが一つの握りに載っている。その他のネタもすべて異常に大きくて、小さな握りのメシを大きなネタが重なるように包ん

          巨大ネタ寿司と、鉄板大お好み焼き

          北山の空に一線を描く五月のひこうき雲

          美しい青いキャンバス私を切り裂く白い線 私が勤務しているビルのバルコニーから北山の連峰が一望できる。京都のビルは、高層とは言え東京や大阪に比べて中層が多く、本来は東山、西山、北山の峰もすべて見えるはずだが、残念ながらこのビルの西側に大きなビルがあって、比較的大きなビルの少ない北山の峰が美しく見える。もちろんこれは都市の景観に関わるビルの高さ規制によるもので、辛うじて多くの場所から五山の送り火が見えるのもそのおかげだ。仕事に集中していて少し肩が凝ったので、暖かい自然の光を浴び

          北山の空に一線を描く五月のひこうき雲

          柴又という幻視の町を作り上げた二人

          柴又といえば「寅さん」と「帝釈天」 名所や世に知られた場所が映画の舞台になり、映画のヒットによりその名がさらに知られるようになることはあると思う。「葛飾柴又帝釈天」もそうした例の一つと思われがちだが、私は必ずしもそうだとは思わない。松竹映画「男はつらいよ」シリーズは、山田洋次原作・脚本・監督(一部作品除く)、渥美清主演で1969年に第1作が公開され、その後26年間で全48作品が公開された。まさにこの映画シリーズは、26年間という長い時間にわたって、監督・山田洋次と俳優・渥美

          柴又という幻視の町を作り上げた二人

          がんばれ「二十世紀梨」

          白桃と「二十世紀梨」が私にとっての果物の王様 私は岡山県に多少縁があり、岡山県が白桃と梨の産地として知られていたこともあって「白桃」と「二十世紀梨」が大の好物だった。大正時代までは岡山県で「二十世紀梨」が盛んに栽培されていたが、今では岡山県の風土に合った幸水梨系のタイプが中心になっていると聞いている。だから私の中では、桃と聞けば白桃、梨といえば「二十世紀梨」というイメージが強く、果物が食べたくなると、つい白桃や「二十世紀梨」を想像してしまう。 さて仕事の上の都合で、私は東京

          がんばれ「二十世紀梨」

          「緑道」という現代の迷路

          大都市の裏を密かに走る「蛇崩川緑道」 私はかつて、世田谷の弦巻というところに住んでいた。もともと関西から急に引っ越したということもあって、住むまでこの地のことは全く知らなかった。弦巻に住んでしばらく経ったころ、どこに行くかを決めずに家の周辺を散歩した。すると、公園から接続したところに、周りを小さな樹木に包まれた路地のような通路が開いていた。 不思議な通路なので、好奇心に駆られてどんどん進んでいくと、その道はどこまでも続いている。さらに進んでいくと都市の歩道に出た。路地と歩道

          「緑道」という現代の迷路

          カメムシがこわい

          都市に住むものを臭いで脅かす昔ながらのインベーダー 今は京都のマンションの7階に住んでいるが、ほとんど全面が窓になってる部屋がいくつかある。昼間から夕方まではカーテンを開けておけば、シーリングライトが必要ないくらい明るく過ごせる。部屋に住み始めた時は、何よりそれが嬉しかった。ところが夜になると、当然ライトを点けなくてはならない。住んでいる私たちにすれば、そのままで問題ないのだが、夜間に私たちのマンションの部屋を下から眺めれば、そこだけ煌々とした灯りが窓から漆黒の空間に放射さ

          カメムシがこわい

          あの頃のオーケストラの全国ツアー

          マネージャー時代のおかしな思い出 私はクラシック音楽のマネージャーを12年くらいやっていた。12年経ったころに急にマネージャーを辞めたということではなく、そのころ日本中に博覧会ブームが到来した。しばらくの間は、音楽とイベントの業際でいろんな仕事を兼業していたが、やがて博覧会関連のプランや運営の方の仕事が圧倒的に多くなって、いつの間にか博覧会屋になってしまっていた。 しかしイベントの仕事は、やはりデスクワークが多く、時に毎日各地を巡業していたオーケストラの全国ツアーのツアーマ

          あの頃のオーケストラの全国ツアー

          パッケージが客を馬鹿にし過ぎてないか

          日本のパッケージは、消費者の方を向いているか? 最近の商品パッケージはよくできている。お菓子でも何でも個分けで、しばらく置いておいても湿気ることはないし、食べきらないでもおいておける。ところが外袋を開封しようと思っても、簡単に開封できない。しかもパッケージの原料となるプラスチックの性質もあって、必ず一方向に裂けるので、メーカーの思惑通りに開封したら一気に全部食べきるしかない。それだけではない、プラスチックの多様な性質を利用して、商品を密封したように緊密にパッケージしてあるの

          パッケージが客を馬鹿にし過ぎてないか

          30年前の海南島

          成功が約束されていた海南島が抱える不吉な未来 それすらも明確ではないが、記憶のキャパシティの限界ギリギリを探れば、それは30年くらい前のことではないかと思う。どこにでも顔を出す国際的な巨大な財団が、中国の海南島に「エコツーリズム」の課題を探る調査団を派遣することになった。団長は都市交通の専門家である大学の教授で、私が副団長として随行することになった。なぜ私が副団長かといえば、私は音楽プロモーターであり、音楽マネージャーであり、博覧会のプランナーであり、古典的な興行師の系譜に

          30年前の海南島

          資材置き場の黄昏

          大阪の「堀」にまつわる子供の世界 大阪には、「堀」という文字の入った川が多い。立売堀、江戸堀、京町堀、土佐堀、道頓堀、土佐堀といったところだ。そしてこれらの「堀」は大阪城の外堀であったことに由来しているという。豊臣秀吉は、よく言えば用心深く、悪く言えば小心で、大阪城の外堀を十重二十重に巡らして大阪城の守りを堅固にしようとしたのだろう。そんなことで、結果的に大阪城の外堀は、大阪城の天守閣のある地域から、はるかに遠くに離れたところまで拡がってしまったのだ。 わが家のあったところ

          資材置き場の黄昏

          小学生のBeekeeper

          私はミツバチを担当する飼育委員 私は小学4年で転校した。つまりわが家は、都心からまだ自然が残る郊外の住宅地に引っ越した。転校当時は、私の生活スタイルがその地域の子供たちと違っているからなのか、今風に言えば彼らから仲間外れにされていた。それが担任の先生にも分かっていたからなのか、先生は私に飼育委員になることを勧めた。私は仲間外れにされて辛いと思ったこともないのだが、それよりも動物を飼育することの方が面白そうなので、先生の勧めに従って飼育委員になった。飼育委員とは、委員という称

          小学生のBeekeeper

          「ミョウガ」にまつわるのどかな思い出

          終戦近くに疎開した岡山の田舎が私の出身地 わが家は戦時中、大阪空襲が激しくなって、食べ物にも事欠くようになったので、家族で大阪を離れて岡山の田舎に疎開した。私の家族は私を除いた全員が大阪出身で、私一人が戦後も疎開先にとどまっていた岡山で生まれたので、正確に言うと私は岡山県出身ということになる。 親しい人と話している場合でも、漠然とわが家は大阪出身者の家族と思われているので、あえて私一人が岡山県生まれということになると、何かといろいろ説明しなければならないことが多くなるので、

          「ミョウガ」にまつわるのどかな思い出