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どんどん長くなるもの、どんどん短くなるもの

ふと思った。note上に限らず、長文っていうものがこれほど嫌われがちなご時世なのに、どうしていまどきのテレビのバラエティ番組は逆にあれほどにも長くなってしまっているんだろう?

1980年代のテレビ番組


昭和の娯楽テレビ番組を振り返ってみようと思う。
たとえば、土曜日の夜のTBS系ってふうでいこうか。
それじゃあ「行ってみよう〜!」(長さんのダミ声で)


19:00 まんが子供昔ばなし(1975〜1994)
    30分枠で2話の短編が放送された
19:30 クイズダービー(1976〜1992)
    30分枠で、クイズの出題は通常8問だったそうな
20:00 8時だョ!全員集合(1969〜1985)
    60分枠。生放送による公開バラエティ番組。
    前半30分ほどがコント、後半は少年少女合唱団・ヒゲダンスなどの
    定番コントやゲストの生演奏による歌。
21:00 Gメン'75(1975〜1982)
    60分枠。大人向けの硬派な刑事ドラマ


当時の番組は、特別番組をのぞいては「30分枠」と「60分枠」のものばかりだった。CMが入るから、実際の番組の尺は9割ぐらいになるのかな。

驚かされるのは、短い放送時間にもかかわらず、コンテンツがぎっしりなこと。よほど無駄なく、テンポよく進行していたんだろうなと思う。令和のいまだったら、クイズダービーのように30分弱で8問も出題することはできないだろう。ましてや、ドリフにいたっては生番組。長さん(いかりや長介さん)の用意周到ぶりも伝説になっているが、停電したりオチの前に舞台装置が壊れてしまったりと、いくつものハプニングが語り継がれているカリスマ的番組でもあった。

一話10〜15分の漫画やドラマといえば、かろうじて「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」やNHKの朝ドラなんかが令和のいまにして健在だが … 短編ドラマはおそらくあと10年残れるかどうか(あくまで主観です)。このぐらいの尺のコンテンツなら今や、YouTubeとかでも見れてしまうから。

クイズ番組自体がもう完全に質を変えてしまっているが、最近のクイズってのは深堀しているわけでもなく、芸人さんたちがふざけ合っている時間ばかりがやたら長くて間延びしている — と言ってしまうと厳しいだろうか? 

正月にやっている「格付け」(芸能人格付けチェック)はわりと好きだし、家族だんらんには向いている番組だとは思っているのだけど、さすがに長すぎると感じている。浜ちゃんが正解者のいるドアを開けるシーンを、CMをはさんで2度流すという最近流行りのスタイルもあまり好きではない。

昭和人だからせっかちなのだが、やはりクイズダービー時代の手際の良すぎる番組構成ってすごかったのだな。あれだけの手際良さでいて、ちゃんと巨泉さんが篠沢教授をいじったりして笑わせていたのだからすごいとしか言いようがない。

放映時間の長すぎる特番をどうにかしてくれ


昭和にだって、19時半から21時までの90分枠ってのがあった。主に番組改編期あたりの特番に多かったと思う。たしか、年一度のイベントだった「世界横断 ウルトラクイズ」も90分枠ではなかっただろうか? あとは「ドリフ大爆笑」やバカ殿もそうだったかな?

学生だった私には、90分番組っていうのはちょっと特別感があった。宿題もしなければならないから、90分番組を見るってのはどこか特別なイベントみたいでもあった。

そのくせプロ野球のナイター中継は贅沢だった。ただ、当初は19時ではなく19時半にはじまるのが一般的だったと思う。だから尺はやはり90分だ。
まだ、カメラが投手の背後からの映像ではなく、捕手と審判の背後から投球を捉えていた時代の話だ。ついでにいえば、スコアの表示は現在のBSO順(ボール・ストライク・アウト)ではなく、SBO(ストライク・ボール・アウト)の順だったし、災害時のL字テロップのごとく情報が画面を埋め尽くしていたわけでもない。実にシンプルな画面だった(個人的にはそっちのほうがずっと好きなのだけど)。

いまはどうか。24時間テレビは別格だけど、3時間番組とかがいくらでもある。
中身が濃いというよりは、製作費を安くあげたいのか、やたらMCとか芸人さんのからみとかが間延びしているだけだったりする。余暇であることはいまもむかしも変わらないけれど、ここまで、間延びしたものを押し付けられるとテレビのスイッチを変えたくなってしまう。

テレビは長時間化し、テキストは短文化するという矛盾


それに対して、いまどきの文章界隈はといえば … すぐに読めてしまう短文が歓迎されているってのはもう周知のとおりだ。

ツイッター(現X)に至っては、全角140字…だったっけ。無理やり文章を収めるために、悪いとはわかってても、いわゆる〝ら抜き言葉〟をわざと使ってみたりの悪戦苦闘を強いられる。ヘンテコな略語も生まれる。娘たちが「オナチュウ」(言うまでもないが「同じ中学」の略ですわな)と口にしたときには、思わずぶっ飛びそうになった。良からぬことを考えちまったが、私が悪いわけではないと思う。

Yahoo! のヘッドラインにタイトルを無理やり埋め込むところにも、えらい苦労しているな…ってのを感じる。無理だろ?ってのも少なくない。もちろん、字数制限ってのは昔からあったわけで、たとえば新聞の番組欄に登場する出演者名末尾の「ほか」ってのは、どこかほの哀しさがあったっけ。

数分でわかる名作 — の愚かさ


先人たちの文章を、ワンフレーズで所有を示すことのできる教養って名のするものに変えすぎないでほしいと思うのは私だけではないと思う。

文学作品や名評論の教養化(もしくは、所有によるマウントのための道具)に対しては、ものすごーーーーーーく抵抗感がある。そもそも教養という言葉が大嫌いなのだ。まあ大事だというのもわかるけど。

確かに、教養への無知がマウントの原因になるってのはありがちだ。ハイソな人たちが集まる立食パーティーで、ゲーテの話題についていけなくて恥をかいた…といった手の話だな。ある教養人さんが、グラビアアイドルのうしじまいい肉さん(ってすごい名前だなっていつも思ってしまう)に「芸能人なのに唐十郎を知らないような、そんな奴が会話に入ってくるな!」って威圧したという話もあったか。2014年の話なんだね。蒸し返してすみません。

そういう風潮(教養ブームと呼ばれている)がブーストされて、今度は「数分でわかる名作」みたいな出版物で本屋さんの書棚が溢れかえった。ネット上にもその手の記事ってのを実によく見かけるんだけど、テレビの特番が3時間とか4時間になっているような時代なんだったら、名作の長いテキストを読むことに時間割くことが非合理的なんてふうに言わないでよ…これ本心でそう思う。

私の記事は、だいたい3000〜4000字になる。それを超えたときはさすがに反省するしかないのだけど、文字記事イコール情報源ってばかりの役割ではないと思う。とりわけ私が「オマエがめざしているのは、合理的ライティングなのか」と問われたら、胸を張ってNOと答える。私が書きたい文章ってのは、どちらかといえばそれなりの時間を頂戴して読んでいただきたいってふうだ。なんかごめんなさい。

長い目で見れば、文庫本による紙媒体1冊が書けるぐらいの文章力の修行をしているところがある(まだまだですが)。

テレビ番組がますます冗長になっていくことと、文章界隈で短文化がもてはやされていることとのダブルスタンダードに対して、ちょっと不満があるんだ。

長くて粘着質な文章でごめん。読んでくださってありがとう。
それでは、またね。

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