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社内メールの宛名順だとか、お辞儀ハンコだとか…


この惑星には奇妙な文化をかかえる自称先進国がある —

宇宙人ジョーンズだったら、やはりこう語り始めるだろう。

いまさらだけど、ハンコの話だ。

だいぶ以前、部屋を整理していたら、認印のたぐいの判子が出てくるわ出てくるわ。一体いくつ持ってるんだ?ってほどに出てきて驚いたことがある。

ある判子は銀行でキャッシュカードを作ったときに使った。別の銀行で使ったのは別の判子だったか。それとはまた別の判子は、新卒正社員だったころに何かの書類に捺印する必要があってあわてて買ったもの(その手のことは2、3度ぐらいやらかしている)。あとはシャチハタ。それもやはり2つとか3つとか(苦笑)。

マンションを買ってローンを組む前あたりで実印と銀行印を作った。印鑑証明で市役所にも行った。そのときに持っていた安物の認印の大半を整理した。だから現在は実印・銀行印とシャチハタしか持っていないと思う。ひょっとしたら通帳印にしているものまで断捨離しちまったか…と焦っていたが、困っているうちに銀行通帳のほうがペーパーレスになってくれた。否、これは悲劇の序章かもしれない。後述します。


そういえば、お辞儀ハンコ


過去に見知ったいろいろの中でダントツでツボったのは、お辞儀ハンコと呼ばれるビジネスマナー?だ。上司に決裁をあおぐ場面で、回覧される書類に「わかりました」ということを押印する欄があるが、上司に向かって部下がおじぎをしているかのように斜めに押印していくというものだ。

いまの時代、こんなもの流行らないぞ。

それでもいくつかの業種ではいまだに生きている文化であるらしい。

役職が上の人のほうへ5度ほど傾けるのだそうだ
役職が下になるほど傾けなければならないとも…

ハンコの押し方でイチャモンがつくなんてゾッとするけれど、いずれはこのハンコ文化も変わっていくのだろう。どこか自虐的とでもいうべき、日本人独特の感性なんだろうな。

判子といえば…こういうこともあった


めずらしくも祖母が実家に遊びにきたときだったか。祖母は高校生のころに亡くなってしまったから、これは40年ほどもむかしの話になる。

母親はいつも、認め印を玄関の靴棚の上に置いていた。
書留の受け取りのためのもの。当時はまだ宅急便を受け取ることも、現在ほどには浸透していないような時代だ。最近の私は、受け取りの際に判子なんてまったく使わない。いつだって直筆サインだ。

祖母から言われた。

お母さんに「玄関に認印置くのはやめとけ」って教えてあげて、と。

これはごもっともな意見だ…と子供心ながら私は思った。
それでも結局、ずっと母親は玄関に認印を置いたままだった。

現在の母親は認知症になってしまった。認印をどのように扱ってるかなんて考えたこともなかったけれど、きっとどこかの引き出しにしまい込んでいるだろう。本当に不思議なんだけど…この人にも痴呆した初期に、いわゆる「モノ取られ妄想」が発現した。
通帳がない! アンタが取った(隠した)だろ! どこにあるんだ?!
鬼の形相で騒ぎを起こすあれだ。
最近はおさまっているようなのだけど、発症当時は父親も相当参っていた。

そういえば、メールの宛先欄


今朝、私が働いている会社のひとつからメールが届いた。

複数宛のメールを見るときって、どうしても宛先の名前順というやつを確かめてしまう。本当にいやな癖が染み付いているものだ。
自分が筆頭になっているとちょっとだけ嬉しい。自分が2番目、3番目に下げられているとちょっとだけムッとする。あの感覚って一体なんだろう? 

コンプレックスとか承認欲求とか…やはりその手のものなんでしょうか?

フラットに五十音順って場合もあれば、本当にランダムに並べているんだなって場合もある。いずれにせよ、読めない相手を深読みしないほうがいいに決まっている。一応、ビジネスマナーではどうなっているのかを、有名な会社発のコラムに教わってみたので、私自身のメモとしてリンクを貼っておく。


郵便局で説教されたことがある


10年近く前にあった出来事を思い出した。
あれは、速達郵便を出すために自宅近くの小さな郵便局の窓口に出向いたときだ。

封書の宛先は◯◯事務長 — というふうにした。年齢的にいえばその郵便局の局長さんかな…といった雰囲気の方が窓口にいたので、速達郵便での発送をお願いした。重量をはかって、切手を貼ってもらう段になったとき、ちょっと小馬鹿にしたかのような視線を私に向けて、彼はこう私に言った。タメぐちだったのも驚きだったのだけど…(これっぽちも怒りなんぞ感じておりません)

あのさ、きみね、
こういうときの宛名は「様」づけするものだと思うんだけど
このまま送っていいの?

いや…役職名がそのまま敬称だと思っていますもので大丈夫です

アゼンとしながらも、このときの私はたぶんそう返したと思う。
そのときの局内にいた客は私だけで、あと居合わせたのは窓口の2、3名ほどのおばちゃんたち。ちょっと変な空気が流れていたなあ。

一番こなれた答をくれたのは家内だった


私はちょっと特殊な立場で就業している身だ。このときに書類を送付した相手というのも〝自分の会社〟ってよりは、フリーランスで業務を請け負っている法人(契約先)である。

一方の家内はばりばりの上場企業社員。このやりとりがあった当時こそ、給料面では私のほうがアレだったが、現在ではすっかり立場が逆転している(泣)。

それはまあいいとして…当時にこの件を話したところ、少し考えてから答えてくれたのが次のような回答。

だったら「事務長 ◯◯様」ってふうにしたら? 

さすがだ! そのアドバイスを受けてからは一貫してそれを守っているし、何よりその局長もどきは近所の郵便局からいなくなった。まあ…客に対してタメグチってのも失礼な話でしたから。どうせ、ほかにも何かやらかしてクレームでも行ったのだろう。別にどうでもいいかなあ。

完全デジタル化なんて、どうせ
親世代が世を去ってからなんだろうな


判子のほうに話を戻すけれど、判子の発祥地はメソポタミアだとか、いまでも印鑑が契約締結に必須なのは日本だけだとか … グーグル様に尋ねてみるといろいろ出てきた。

「ハンコの歴史」で検索した結果(トップヒットのスクショ)

うがった見方になるかもしれないが、私自身が思うに、団塊世代が世を去るまではハンコ文化は残しておけという魂胆があるのではないかと。相続を可能な限り複雑でかつ煩雑なままにしておく。ハンコと財産を紐つけておくってのは、税金を取る側にはきわめて都合のいいことなのではないか?と。

自分の印鑑管理さえあれほどカオスだったわけで、死後に直面するであろう親の印鑑の所在なんて、何がどうなっているものだか。わかるわけがない。

いまや通帳がデジタル化されている。
とはいえ、印鑑で本人証明をしていたものを新しいシステムに乗せるための確認手続きは煩雑だ。キレるご老人方には無理だと思う。辛抱強く対応し切れるのは、私の世代までだろうな。

おそらく両親の通帳は紙のままなんだろうけれど、聞くこともはばかられる …それが日本人の心性。とほほ。泣けてくるよ。

そろそろ…年齢的にいえば、いつまでも親の死ってのをタブー扱いにしておくわけにもいくまい。ただ父親は相変わらず、自分が不死身だと信じて疑っていない。

憶測でモノを書くことはリスキーなので、このくだりはあくまで「無知ゆえに心配している」ってふうな雑感を書いたってぐらいにお付き合いいただきたい。

今日もありがとう。それではまた。



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