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【ちょいスパイシー系の親】 ヘルプミーは言えんかったなあ

朝から読ませてしまうような文章なんかではない。ごめん。すまぬ。すまない。

とにかくお金がない。いや、全くないわけではない。時給って意味ではそれなりに高いお金をもらって仕事をしているが、業界の不況のあおりを受けて仕事量がどんどん減っている。年収としてはもうレッドゾーン。クラウド系の仕事も模索しているけれど、初心者という立場が嫌われてなかなか機会へと結びつかない。というか余裕と自信のない状況でうろうろしても成果が出ない。勝ち組がどんどん勝ち組になり、負け組がどんどん負け組になっていく仕組みが身をもってわかる。

どうやってやりくりをしていこうか。
そろそろ親か家内にお金を借りなければならないフェイズかもな…と考えたとき、ある衝撃的な事実に気がついた。

オレって生まれてこのかた…親に「助けてくれ」って言ったことないじゃん。


向こうがくれたものはいくつもある


そのことには感謝しなければならない。これは前提として忘れないようにしたい。

毎日満足に三食たべることができて、両親の最終学歴がともに高校までであるにもかかわらず大学まで行かせてもらうことができた。両親や親戚からもらったお年玉を母親が預金しつづけてくれて、その通帳を就職したあたりで貰ったりもした。とはいえ、お年玉を私の意思で使ったことは…幼少時にはない。

当時は国民総中流なんて呼ばれるような実に呑気な時代だった。
父親はいまでいう仕事の鬼で、のちに一度起業している。かつての数名の会社同僚で立ち上げた会社だが、結局大きな赤字を出す前にたたんで別業界へ転身して、何千万売り上げて…いやいや、お願いだからもうやめて。この人の武勇伝はもう何度聞かされたことだかわからない。いまだにそうだから。

私が自分の近況が芳しくない、と電話ごしに軽いジャブを試みたことはある。
そんなときにもまず「わしの頃はな…」といった感じではじまる武勇伝を聞かされて、ひととおり終わったあと「まあ嫁さんとうまいことやれや」みたいな感じでシャットアウトされる。機嫌が悪いときであれば、「せっかく電話してきておいて湿っぽい話するなや」とストレートを食らわされたりもする。

向こうがくれたものはいくつもある

大事なことなので2度言ってます

父親は気前がいい。帰省するたびに、カバンとか革ジャンのコートとか腕時計とかセンスのわからないダウンジャケットとか…けっこういろんな物をもらった。おそらく高価なものばかりだったはずだが、すべては本人が飽きたあとの「お下がり」で、腕時計に至ってはすぐに電池が切れた。

私自身はファッションにはそれほど興味がないのでそれほど嬉しくもない。
でも断ると露骨に機嫌を損ねるので、嬉しそうな表情を作らなければならない。
ちゃんとコメ兵(私の住んでいる地方で有名な古物商さんです)とかで換金しとけばよかったかなあ。結局、結婚したときにすべて断捨離した。

そういや母親と父親との間でも、幼少時にはずいぶん嫌な茶番劇を見せられた。

「わしはこんなものいらん」と怒鳴りながら、母親が編んだセーターを私の目の前でほどいてしまったことがある。衝撃的な光景だった。
リアル星一徹(といっても私と同世代でなければ解るまい)だ。
この人はせっかく食卓に並べられた料理を手で払いのけたこともある。母親は足元でしくしくと泣いていた。
ダイニングテーブルがちゃぶ台だったなら、まさに実写版の一徹だ

結局、そんな母親のエネルギーは私へと向けられることになり、上京した私はせまい部屋に母親が編んでくれたセーターとかマフラーとかの類を山ほど抱えていた。もこもこすぎて、どんどん一人暮らしの小さな洋服箪笥(これも「ただでさえせまいワンルームがもっと狭くなるからやめて」と言ったにもかかわらず、母親から勝手に送りつけられた)を圧迫していった。結局、引越しのときに内緒でしこたま捨てた。一度も袖に腕を通したことなんてない。
いや、すごく気は重かったのだ。

私が望んだものをもらったことがあっただろうか


まさに典型的な機能不全家族の光景だ。ノゾム先生は何とおっしゃるだろうな。

いや、本当に笑いがこみあげてきてしまった。こんな状態でオレ、よく生き抜いてきたよ、立派だ。心底そう思ってしまった。

ノゾム先生〟は「生きづらさを手放す」ことをテーマに、note上に心理系の記事を精力的にアップしてくださっている方です。私がもやもやしていた物事でも実にわかりやすい文章でご説明くださるので、自分はこうだったのか…という気づきをこの歳にしていただくことが多く、私がアカウントを作ったころからフォローさせていただいている方です。

さてと。私が望んだ物を親からもらったことがあっただろうか。

たとえば小学生の頃、私は電車の切符をコレクションしていた。

父親からずいぶんたくさんの切符をもらい、表情を通じて感謝の意を示すことを要求されつづけたようなものだ。もらった切符はどれもこれも紳士靴の足痕がついたタバコ臭いものばかり。切符の裏面が真っ白から磁気券に変わっていったぐらいのころである。
なんか近鉄の「難波から80円区間」「日本橋から80円区間」という、足痕つきの切符ばかり100枚ぐらい持ってた。当時は〝キセル乗車〟も多かったのだろう。

まあ、与えてもらった切符が「拾ったもの」ばかりではなかったということも書いておく。ちゃんとお金を出して買ってくれた記念切符だっていくつか持っていた。
まあ…結局はどれもこれも全部断捨離してしまった。

たとえば就職したあとも、私は帰省するたびに母親から小遣いを渡されていた。

「もう稼いでいるんだからいらない」と言ってもこの人、受け取らないと気がすまないみたいなので、面倒くさいから往復の交通費だけでいいやと言いながら5000円だけ受け取ることで勘弁してもらっていた。勘弁してもらえず万札のままになってしまうこともあった。

面白いもので母親は、認知症になったあたりを境目にしてすっかり極端な守銭奴になった。いまや母親は絶対にお金を私に手渡すことはしない。
そんな母親のことを、父親は「おい、お小遣い渡したれや」といまでもからかう。

私は何が欲しかったのだろうね?


もし私があの時代に帰れたとでもしよう。
親にどうあってほしいと思うのだろうか。

先日、名古屋駅で親子連れを見た。
かわいらしい3歳ぐらいの女の子と、背の高い若い父親が手をつないでいた。
女の子は満面の笑みをたたえていた。
私はどうだったか…父親と〝手をつないで〟歩いた記憶はない。
そのくせ母親は〝手をつないで〟歩くことを強要してばかりだったかもしれない。

あまり欲しかったものはない。甘え方なんていまだにわからないぐらいだ。
そんなわけで、親に借金をするなんてことはいまもまったく想像できない。

もしやばいことが起きるんだとすれば、返済をせまって押しかけられるような事態にまで発展してようやく、彼らの知るところになる可能性ぐらいしか思い浮ばない。そうならないようにまだ頑張っている最中だ。なんとかできる。
なんとかする。

娘たちの奨学金の〝保証人〟を頼むことさえできず、債務保証会社を利用したぐらいだ。これだけは一度、帰省して一緒に酒を飲んだときにわざと私が父親にぶつけてみたことがある。
「知らんわな」 — 予想どおりの返事がかえってきた(笑)。

最後に


現在、両親と私はそれほど険悪な仲というわけではない。
身内だからということで、心を止めて淡々と時々様子を見に行く。

わりと言いたいことが言えるようにはなりつつある。父親はすぐに母親をいじめてしまうのだが、それをたしなめることぐらいはできるようになった。まあ暴力を振るっているわけではないし、なにより母親も母親で父親を怒らせることの達人だからどっちもどっちだ。要は私がおどおどしてしまう場面がふたりとも大好物。
いまはもう、涼しい顔をしてやりすごせるようになっている。

妹に言わせれば「介護が大変になるのは、むしろこれから」という。
実はそんな妹とも、私はあまり仲良くできない。

まあ…もう詫びてもらわなくたっていい。

締めにはこの御仁がふさわしい。以前の記事でも出てもらったっけ。
はりきってどうぞ。

朝からヘンテコな文章を読ませてしまってごめん。
さて、今日も夜まで仕事だ。
あああ、ヘッダーの画像を作る余裕がない。
また夜にお邪魔しようと思う。笑い飛ばしていただければ幸いだ。

まだ居場所があるだけありがたいことだと考えて向かおうと思う。がんばろうね



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