無駄な休日を過ごさないために〜スキマ時間を有効活用しよう!〜

最近、少しずつ読書をする時間が増えてきている。

元々読書は苦手だったのだけど、バイヤール先生の「読んでない本について堂々と語る方法」という本を読んでから手に取りやすくなった。
この書物自体の話は省こう。

僕たちはなんとなく「ごんぎつね」の物語を語ることができる。それについて他人と共有したり、心にとどめておくことができる。

でも、一字一句を知識として得ているわけではない。
原作を直接読んだのは何年前だろうか。
その作者を、歴史的背景を、作品的な意義を、文学的技巧を、明確に語ることができる人はほとんどいない。

世の中の本に対する向き合い方は、これと同じで良いのではないか。
その本のことをどこまで知っておくか、はたまた知らないままで過ごすかは恣意的に決めて良い。

タイトルだけ知っててもいい。
一字一句暗唱できてもいい。
目次だけわかってもいい。
作られた作者の背景を知ってもいい。
要旨だけわかって中身を読んだことがなくてもいい。
他の作家への影響を探求してもいい。
ストーリーはわかってもわからなくてもいい。

読書は、義務でも、勉強でも、自己研鑽でも、自己啓発でもない。

正直な話、読書それ自体には価値はないと思っている。

本を手にとって、読む。
なんとなく内容が入ってくるように感じることもあれば、全然内容が入ってこないように感じることもある。時には文字を目で追ってる感覚だけで何も得ていないと感じる場合もあれば、とても感動を覚えたり、唸りたくなるような場合もある。

それについて、考える。

なんで内容が入ってくるのか、なんで入ってこないのか、なんで何も得られていないのか、なんで感動するのか。

そもそも感じるとはどういうことか。数学の公式のように明示できるものなのか、自転車の乗り方のように明示的に説明できない、感覚的な会得物なのか。

内容をすべて覚えなくてもいいし、すべて丸呑みできてもいい。
後々何も見ないで引き出せるのも良いし、本があれば引っ張り出して参照できる程度でも良いし、なに一つ残らなくても良い。

そういう即座的な体験とか、目的のない時間。
そしてその中で自分のこととか、誰かのこととか、世の中のこととか、何となく考えてみる。

こんな機会が、僕たちには重要なのだと思う。

そして、その目的のない時間を過ごした証明が紙の束であり、部屋を占拠する本棚である。

(なんかこういう話、「サイコパス」の悪役が話していた気がする)

旅行に行くとする。
現代に生きる僕らは行く場所も、食べるものも、どう移動するのかも事前に決めて行く。
有名な名所では写真をとって、自分自身でそこに行った証拠を残す。そしてそれを不特定多数に共有し証明する。

電車で通学するとする。
電車内はちょっとした確保された時間だ。
この時間に来ていた連絡を返す。
ソーシャルゲームでやらなければいけない作業をこなす。
読むべき本を、雑誌を、新聞を読む。
アニメを、ドラマを、映画を見る。

チェックリストを潰していくような。

でも、僕らにはもっと、目的のない散歩とか、流し込むだけの音楽とか、責任のない読書とか。

他者をパーソナルに介入させない、させる余地のない。
その中で、自分自身のことを何となく、答えも出さず考えてみる。

そういう時間が必要だろうなと思う。

究極には、何も手に持たず、ただ呆っとしている時間。
そして何が安心をもたらして、何が不安をもたらして、過去に何があって、未来に何があって、今現在自分がどこに居るのか。

なんとなく、考える。

弁証法的だが、これこそが価値のある時間ではないだろうか。

(タイトル詐欺)

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