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令和6年(2024年)5月26日(日)、ほんの入り口さんで「自分を生きる入り口」という読書会を開催しました。その読書会に向けて書いた文章です。課題本は、西村佳哲著「自分をいかして生きる」ちくま文庫。
過去に「OUTLET」というタイトルで書いた、複数の文章です。校正して少しずつ投稿します。
文章筋トレ等のイベントに参加して書いた文章です。
毎朝、家を出る前に、少しだけ書く文章。(※切ったり貼ったりして校正済)
洗面所で顔を洗っている時に「ある感じ」が降りてきた。最近、洗面所で顔を洗っている時に何かの「感じ」が降りてくる。まぁそうだよなぁと言いたくなる一瞬の感覚みたいなもの。 洗い終わった顔をタオルで拭いていると、身体を丁寧に扱ってあげたい気持ちが湧いてきて、今まで身体のことを蔑ろにして無理させてきたなぁと慈しむような気持ちになった。前を向くとタオルで拭いた後の顔が鏡に映っていて、頬の辺りを指先で触れると、ここに顔があるんだ、という感じになった。 「時間は大丈夫なのー」とキッ
今日、読書会が開催される。どんな時間になるのだろうか。西村佳哲著「自分をいかして生きる」に関する一連の記事投稿は今回で終了する。 西村さんの本を読むと、伝えたい思いが湧いてくる。だけど言語化するのが難しく、いつも諦めてしまう。今回はメモ書きした内容を元に記事化してみたが、本をなぞるようにしか書くことができず、不本意な気持ちが残った。これも〈自分自身〉に問うてみることなのだろう。「書いてみて、どんな感じだった?」と。〈自分自身〉はなんと答えるのだろうか。ぼく〈自分〉は耳を
ある場所の待合室。西村佳哲著「自分をいかして生きる」を読みながらiPhoneでこの記事を書いている。満席の待合室を見渡して、あと何時間かかるのだろうと思う。 座っているソファーが固くて、お尻が痛くなってきた。今もぼくはたくさんのことを感じている。窓の外にみえる青い空の下で過ごしたいな、とか。 ・・・ 耐え難さを味わうのが嫌で、「ない」ことにして、何かを続ける。「そうじゃないと、乗り切れないじゃないか!」という、正当化。「みんなそうやってるんじゃないの?」とか。
今朝も半地下珈琲店で珈琲を飲んでいる。読書会に向けて、西村佳哲著「自分をいかして生きる」を再読していた。タイピングした文章をnoteの記事にしようと試みる。本の中にある図をiPhoneで撮って記事に貼り付ける。記事を読み直したぼくは、「こんな感じでどうかな?」と〈自分自身〉に語りかける。 ・・・ 〈自分自身〉と〈自分〉と〈他者〉の関係性。〈自分〉と〈自分自身〉の応答(コミュニケーション)。ぼくがずっと追いかけてきたことがこの図に表現されていた。 とてもシンプルな図
今日も読書メモのように書いてみる。いつもの半地下カフェで、珈琲飲みながらタイピングしてる。何も変わらないのだけれど、文体は変わるような気がする。変わらないか。 ・・・ 西村佳哲著「自分をいかして生きる」ちくま文庫 自分の声に耳を傾けている人。 上記の引用文章は、過去のぼく(おそらく2011年のぼく)がこの本を読んだ際に、弱々しい筆致で線を引いていた唯一の箇所だった。過去のぼくがこの文章に何かしらを感じ取ったのだろう。この文章を2024年のぼくが改めて読み返すと、
読書会に向けて、西村佳哲著「自分をいかして生きる」を再読している。付箋を貼った箇所を引用して、感じたことを書いてみる。 ある映画を観て、楽しいな、面白いな、で終わる人と、あのカットはよかった、でもあの映し方はよくない。もっと光の加減を調整した方が良い。などと言う人が居る。後者の人のなかには、その人なりのざわざわする感じがあり、そのざわざわ感が言語化されているのだと思う。このざわざわ感が、お客さんでいられないということにつながるのか。ある事象に対して人よりもレイヤーが細かく
西村佳哲著「自分をいかして生きる」を読んでいる。読んだ箇所を引用して感じたことを少し書いてみる。 私たちの周りにはたくさんの職業カテゴリが用意されていて、ある一つのカテゴリに向かって努力する風潮があるように感じる。小さい頃ぼくは野球選手になりたかった。野球選手になることを夢見るだけで、どんな野球選手になりたいのか、なんて考えてもいなかった。そこにロールモデルのような選手たちはいたが、「どんな〇〇〇になりたいの?」、とは自分自身に問いかけなかった。大学を卒業して今の職業に就
朝、喫茶店でコーヒー飲みながら、読書会の課題本を読んでる。たくさん貼った付箋を〈自分自身〉に問いかけながら、あぁそうだなぁと感じる付箋に絞っていく。付箋は6つになった。ページをパラパラめくる間も、友人からLINEのメッセージが届いて、観察することやニーズについてやりとりする。メッセージのやり取りの合間に、開いたポメラに今の感じをタイピングしていく。「ぼくは、つながりがほしいと思ってたけど、それもストラテジーかもしれない。本当にほしいのは親密さなんだろうな」。また課題本に戻って
4月、何かと忙しく、そのまま5月になってしまって。毎日、何かを書いています。ただ、記事にするには程遠く。でも、まあ、焦らず、ゆっくり。 毎週末、遊びに行っている地元の本屋さんで、読書会を開くことになりました。本屋で仲良くなったお客さんと共催します。読書会の課題本は、15年ほど前に購入して、今もじわじわと影響を受け続けている、西村佳哲著「自分をいかして生きる」です。本を持っていなくても参加できるので、興味のある方は以下のリンクから詳細を確認してください。よろしくお願いします。
本当は私を感じたかった。寂しさや切なさ、掬い上げた感情の奥にある私のこと。感じ尽くせば、私のなかにある何かに出会うことができたのか。私が私を満たしてあげればよかった。望むことを言葉にして、あなたに伝えればよかった。 いつも眠い感じがあった。朝は瞑想の時間に合わせて起きていたから、睡眠時間が短くなっていた。夜早くに眠ることができないから、必然的に睡眠時間が短くなった。睡眠時間を確保するためには早くに眠らなくてはならなかった。 感じ尽くして、私の何かに出会い、その何かに
禁煙席エリアのテーブル席に座っていた外国人の二人は男と女で、男は気怠そうにスマートフォンの画面を眺めていて、女は皿に盛られたモーニングセットを今まさに食べようとナイフとフォークを握っていた。 座った席のテーブルが汚れていたので、椅子から立ち上がった私はキッチンカウンターに向かった。カウンター内にいた店員にテーブルを拭いて欲しい旨を伝えると、モーニングセット用の皿を並べていた店員は「わかりました」と答えた。テーブル席に戻った私は、スマートフォンの画面を眺めている男とモーニ
衝動的に書いた文章の下書きが増えていった。日々何かを書いていたが、記事にできなかった。文章が仕上がらない。文章を仕上げる時間が欲しかった。 例えば、月曜から金曜までの5日間、文章を書く時間と仕上げる時間を確保する。週2回、基礎となる文章を書き、校正する時間を取って仕上げる。月曜に文章を書き、火曜と水曜で校正して記事にする。木曜に文章を書き、金曜、土曜で校正して記事にする。 その時に感じたことを、ただひたすら書きたい衝動があった。そうやって今まで書いてきたから。でも、
友人と会って話をしていた。友人は揺れていた。同じような揺れが私のなかにもあった。私の揺れは僅かだった。僅かな揺れでも何かをしたくなった。言葉を使って確かめたくなった。だけど、確かめることはしなかった。解釈を取り除くと、そこには事実があった。あることがあり、ないことはなかった。ないことを受け容れるのは難しかった。あることを認めるのも難しかった。あることはあり、ないことはない、を感じ続けた。 久しぶりに半地下カフェにやってきた。いつも座る席には赤いハンドバックが置いてあった
夜に人と会って話をした。その場に恐れを持ってのぞんでいる私がいた。大したことがない私と、社会的な立場がある人とでは、釣り合わない、社会を見る眼差しが違う、私には何もないという引け目があった。 いろんな話をした後に、その人が晩ご飯に誘ってくれた。そのことが純粋にうれしかった。隠していた緊張感、そういうことも明かして生きていきたいと思った。これが私ですと明かして、明かした上で、生きていきたい。そのままを生きることができれば、いるべき場所に運ばれていくような気がした。それがど
台湾朝ごはん屋さんのテーブル席に座っていたら、朝からなんだか、店員同士で、いろいろある感じで、どうなん?、揉めてる?、レジの人は台湾の人なのかな、先輩店員に教えてもらってる感じなのかな。 気になりながら席に座っているけど、ちょうどイヤホンしてたから、会話は聞こえてこなくて、まぁそれでいいか、って何か聴きながらタイピングしようと思ってiPhoneの画面タップして音楽流してみたけど、聴きながらタイピングはできなくて、<味気ないね でもそれがね ふたりの幸せ>、とか、歌詞に引
「おはよう、朝が来ましたね」、と私に向けてタイピングしていると、爪、手の爪を切るの忘れたことに気づいて「あぁ忘れちゃうよね」とつぶやきながら、そういえば、右足の親指の爪も尖ってて、靴下はくときに引っかかったことを思い出した私は、「ちゃんとお手入れしなくちゃ」、とタイピングした。 創り出す体験が私に必要なのは、与えてもらうことばかりをやってきたからで、やってきたというか、待っていたからで、誰かが与えてくれるのをひたすらに待っていて、たまたま通りかかった誰かが私を引っ張ぱり出