小畑あきら

みんなでおこなう会話を通した平和な活動家。「純粋意識での聞こえ」を醸す、「三角の対話」…

小畑あきら

みんなでおこなう会話を通した平和な活動家。「純粋意識での聞こえ」を醸す、「三角の対話」を一人でも多くの方に広め、様々な声が広がり、全ての声が聴かれ尊重され、人とヒトのあいだが開かれて、誰もが心豊かに暮らせる公共する世界を創ろうとしています。facebook.com/wobata

最近の記事

矢原文学とロゴスとレンマ

「矢原文学は」とか、「矢原さんの文章は」という声を聞くときがある。 なかなか一筋縄ではいかないという意味を含んでいるのか。 私は会読会で「嘯く」という漢字が読めなかった。否、見たことがなかったのだ。 たとえ過去に見ていてたとしても阿頼耶には沈着していなかったのだ。 見たことがない、阿頼耶に存在しないということは当然読むことができないし、そこに意味を見出すこともできない。そこにあるのだけれども無いに等しい。そして参加者の方に読みを教えて貰う事で、その読み(音)から見えてい

    • 人生・仕事の結果=稲盛和夫×対話実践×縁聴論

      【経営にオープンダイアローグの可能性あり】 経営の神様と呼ばれる稲盛和夫さんが、組織内外の全ての関係性に於いて、垂直・水平方向の主格合一をどのように成し得たのか。このあまり語られていない対話実践の痕跡をカメラマン小畑が社内の声をヒアリングし写真撮影をする中で「これからのビジネスの可能性」を体験するプログラムです。 「ビジネスシーンでの『オープンダイアローグ』の可能性が開かれゆくプログラム」の提供をひっそりと開始致します。 プログラム内容 ◎始業〜午前中 社内の様々な方

      • 京のコシカケ「置きベン」

        対話之町京都ヲ目指ス上京は京都市上京区の「京都御苑」の西側200mあたりに活動拠点があります。京都御苑の直ぐそばで展開していますベンチ置くだけプロジェクト「置きベン」を京都ブランドに!! 2024年3月13日『歴史探偵 誕生!「古都」京都』というNHKの番組が放送されました。 番組の中で、京都大学人文科学研究所 高木 博志教授 が、坂本龍馬の仲介で西郷隆盛・小松帯刀と桂小五郎が会談したとされる、慶応2年1866年の掌中雲上抜錦(しょうちゅううんじょうばっきん)という京都御

        • ノルウェーの精神科医トム・アンデルセンと「唯識」

          「口に出して初めて考えていることに気づく」 小谷信千代著「唯識説の深層心理と言葉」(摂大乗論に基づいて)の朗読を聞き話す会は、氏の難解な文章にもかかわらず、参加者の皆さんと共に難解なまま読了までたどり着けそうな予感です。 「唯識(ゆいしき)」というと、どうしても「阿頼耶識(あらやしき)」とか「末那識(まなしき)」とか「八識説」などと「識」について解説する本が多くあるなかで「意識」と「意言(いごん)」、「唯識」「唯言」というふうに「識」だけではなく「言」すなわち言語化、言説

        矢原文学とロゴスとレンマ

          縁聴のすすめ・結婚するあなたへ

          むかし、ブライダル写真撮影の仕事をしていました。 その際に、打ち合わせという名の営業をしていたのですが、売るとか売りつけるというのが超絶不得手で、売るというよりはお二人のなれそめを聞いたり、カメラマンとしての体験談をお話ししたりしていました。 写真やアルバムのサンプルを見せるのですが、サンプルといっても見ず知らずの他人が映っているわけですから、通常の物品販売とは趣が違います。違和感を持つ人もいるし、感じない人もいる。写真の上手さで売る人もいれば買う人もいる。しかし売る私自身

          縁聴のすすめ・結婚するあなたへ

          「呼ばれたい名前を確認する」

          対話ミーティングでは始まる前に「呼ばれたい名前を確認する」と精神科医の森川すいめいさんは書いている。(ナラティブとケア15号p05/遠見書房2024) こちらが呼びたい名前ではなく、相手が「呼ばれたい名前」。 今放送されている100分で名著のローティを観ていて「名前」について考えてみた。 例えば、極端な例として誰かを呼び捨てにしたとする。 「あきらさん」、ではなく「あきら」と。 この場合大きく二つの事が考えられる。おそらく敵対的な呼び方ともう一つは親近感がある呼び方

          「呼ばれたい名前を確認する」

          人や人の話を「ジャッジしない」

          唯識説 四種尋思・四種如実遍智 人や人の話を「ジャッジしない」というけれども, その「ジャッジしない」としている認識自体が, 既に「自分がジャッジ(特徴づけ)した」 本質に似た「同分の影像(イメージ)」で, 認識対象そのものでは無い, 有りの儘を観ているわけでは無いという気づき. 唯識説の深層心理とことば/小谷信千代著/法蔵館2023

          人や人の話を「ジャッジしない」

          再考・ファシリテーション

          精神科医の森川すいめいさんは、「ナラティブとケア第15号/遠見書房2024刊」の序章でこの本全体の構成を「対話ミーティング」と見たて、このように著されている。 「クロージングは、対話ミーティングでは本人たちの声で終わるというものです。ファシリテーターの声で終わらない、今日話されたことを要約したり解釈したりしない、可能性を閉じるようなことにならないように、これがオープンダイアローグだというようには書かず、あれもこれもそれもあるんだなと可能性を開いたままにする。」 このように

          再考・ファシリテーション

          縁聴論=稲盛和夫+オープンダイアローグ

          「稲盛さんは自分ではわかっておられるのだけれども、どうももうひとつ本当のところは稲盛さん自身も言葉になさっていないのです。」(溝口雄三1993) 私の使命は稲盛和夫さんが創業期より心がけてこられたであろう、あまり知られていない語られていない「対話ミーティング」を新たに「縁聴論」と名付けひも解き(文章にし)、経営の現場に届けること、なによりも体験して頂くこと、深く識って頂いて自社で実践を通して血肉化して社風、文化にしてもらうこと。 (可能性は開かれスタッフが辞めない

          縁聴論=稲盛和夫+オープンダイアローグ

          自死と孤立

          日本はあれからどんな社会を選んだのだろうか。 ============================= 「人間は傷つき易い。今後この日本の社会はこの人間の傷つき易さをどう受け容れていくんだろうか。傷ついた人が心の癒やすことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていく厳しい社会を選ぶのか。」 ドラマ「心の傷を癒すということ」の「見えない命綱」の回の28分頃からの校長先生のシーンが今でも心に遺って思い出されます。 昼のシーン:精神科医の安先生が避難所の校長先

          置きベンのある風景

          色々あって六十余年なんとか折り合いをつけながら生きてきた。 歩くときは人と会わないように気をつけ、人と目を合わして話す事を避け、コミュニケーションから距離をとった。コロナ禍では私のような人は多少生きやすかったのではなかろうかとも思う。 それでも昭和平成と生きてこられたのは奇跡だったのかもしれない。今でもそれは変わらず10人を超えるような会合や宴会では借りてきた猫。壁に向いて一人ビールを飲んでいたいのが本音だ。 そんな男が、ふとしたきっかけで置きベンなるものに出会い、うっか

          置きベンのある風景

          リフレクティング・プロセス考

          三角の対話の両面 教室から出させない。 加えて見えないバリアか何かが想定され教室には居ないことにされる。 そして居ないことになっている人の誹謗中傷をその人の前で皆でする。 ここだけの話。という感じで陰口をいう。 言われている方にとっては透明人間扱いされる「場」と「囲い」だ。聞かない自由は奪われ、縁(へり)で自分の陰口を聞かされる。 声を上げたとしても居ないことになっているので、聞かれることはなく届かず無視される。 無視をすることが遊びとなる。 こうして囲われた

          リフレクティング・プロセス考

          「チイキの耕し」の重要性について

          シン・マチヅクリにおける「チイキの耕し」の重要性について 地域、地域と言葉ではいうけれども、「チイキ」という「場」は一体なんだろうか。 原野林の中を歩くと、地面はこの体をフワフワと受け止めてくれる。 バランスを崩すと最後は大地がしっかりと受け止めてくれる。 私たちが日々生活をしている「地域」はどうだろうか、 アスファルトやコンクリートで覆われた「地域」は、 人を受け入れ受け止めてくれているだろうか。 大拙が語る「大地の大切さ」を「チイキ」と読み換えてみた。 =====

          「チイキの耕し」の重要性について

          自分で自分を殴っていることを知るすべがない

          自分で自分を殴っていることを知るすべがない この言葉は、デヴィッド・ボームの著書「ダイアローグ/対立から共生へ、議論から対話へ」(英治出版2007年刊)の「6・保留、肉体、自己受容感覚」で出てくる一文だ。自己受容感覚という言葉を持ち出して、肉体であれば自分の体を誰かが動かしたら直ぐさま認識出来る「自己受容感覚」が、感情や思考では欠如してはいないか?というボームの問いかけだと思われる。 さて、「生き心地の良い町」(岡檀著/講談社2013年刊)の終章の第五章「明日から何ができ

          自分で自分を殴っていることを知るすべがない

          " プシコ ナウティカ "にみる「チイキ」

          「「生」というのは、制度やシステムをはみ出している過剰なものであり、それゆえ不可避的に、制度やシステムを踏み越えてしまう局面がある。」 
これを反転させると、(例えば学校や、会社、社会の不在化された)制度やシステムに、自覚無くいくらかでも自分自身を削り、凹ませ、制度やシステムからはみ出さないように、踏み越えないようにしている状態は「非生(=死)」であるとも言えてしまう。 ====================================================

          " プシコ ナウティカ "にみる「チイキ」

          デビッド・ボーム Dialogue7章3-1

          デヴィッド・ボーム「ダイアローグ」 対立から共生へ、議論から対話へ 唯識的解釈()内 7:PARTICIPATORY THOUGHT AND THE UNLIMITED 参加型思考(唯識の八識説と仮定)と無限 (PARTICIPATORY:語源から"全体の一部を取ること") 初期の人類(後述の現代の人々と対)の文化においては、また現代でもある程度(どの程度かは後述)までは、「参加型思考(PARTICIPATORY THOUGHT=唯識の八識説を仮定)と呼ばれるものが存在して

          デビッド・ボーム Dialogue7章3-1