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”学び”の動機はどこにある?

今日は“学びの動機はどこにあるか?”について、思いを巡らせてみたい。
「子育てに関する学び」、「人間関係で得られる学び」、「仕事や研究領域で必要な 知識・スキル」…どれも学びであると思う。

また、「自分に無いものを身に付けるための手段」や
目標とする場所に行くために必要な手段」も学びと言えるだろう。

“学”の語源を調べると、「子に教える」ということのようだ。
“学”の、“子”を除い た部分は、“教”に由来し、“教”の右辺には“叩く”という意味があるらしい。
つまり、“叩いて、子に教える”というのが、学ぶことの語源となる。

中年期の私たちが学ぶ理由は、内発的動機に基づくものがほとんどで、他者から叩かれて教えられる機会はあまりないかもしれない。

しかし、学ぶ理由が「自分に無いものを身に付け」、「目標とする場所に行く」ためである場合には、自分に足りないものに目を向けざるを得ない

内発的動機と言いながら、実は、他者の目、社会の目、ある”べき”姿に捉われて、必要以上に自分を “叩いて” はいないだろうか。
“学ぶ” 動機はどこにあるのか?を自問したい。
真に、自分を満たしてくれるものであるかどうかは、学びを継続できるかどうか にも大きく影響しそうである。

2年ほど前から、大学時代の恩師とそこに集まる仲間たちで読書会をやっている。
読書会といってもテーマは様々で、特定の本の内容について議論したり、
メンバーがその時々で抱える悩みについても、話したりする。

「知らない」ことに羞恥心をもつ必要もなく、それぞれが純粋に思ったことを伝えあう。
誰かの意見を否定することもなく、ただ違う視点として、意見を共有できる素晴らしい場所だ。
メンバーの話を聞いたり、自分の思考をめぐらす中で、新しいものの見方に触れた時や、異なる視座に立てたときの爽快感はたまらない。

読書会が終わった後には、恩師の勧めでレポートを書くのだが(分量は自由。)、“文章を書いて表現する”という行為が、私にはとても必要で楽しいことであると気づかせてくれた。

ここでの”学び”は、楽しい。そして、やりたいと思えるから、継続できる。
(この読書会をきっかけにnoteを始めたのだから、継続できるはず。)

文章を書く力をもっと身に着けたいと学んでいるが、
仕事上必要な”学び”とは違い、”あるべき姿”との差異を埋めることが目的ではないから、自分を必要以上に”叩か”ない。

学びって本当は楽しいものなのだな、と体感しながら、
きっと今日も、子どもに「勉強しなさい!」と言ってしまうのだろうな。

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