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司馬遼太郎氏は知っている


3年前
気がつくと
第4次韓国ブーム船に
乗船。

でも自分の中で
1番近くて遠い国だったから
はて?何語を話されているのか。
乗った船からの景色は
真っ白な霧

そこで思いついたのが

街道をゆく2
     韓のくに紀行
          司馬遼太郎

溢れる知識のあまり
話が横道にそれながら
ユーモアを織り交ぜ
ぐんぐんと物語りが進んでいく
自分の中では
1行の中に100の知識。と
勝手に思っているので

「遼太郎おじさん!教えてください!」
左手を腰に
右手の手を頬に
ヤッホーのポーズで
呼んで‥

時は1971年
おおよそ半世紀前。
〜日本の相当な知識人でも
朝鮮語と言うのは、中国語ですか?と
いう事もあり
それを「日本の深刻な幸福」と書かれており。
少しだけホッとする。
50年も前の事なのだから
ホッとしている場合ではなく‥

そんな言葉のルーツの事
複雑な歴史
たっぷり
右から左へ
知識がとどまらず
流れるばかりの
自分の脳で残念なのですが
一瞬は
わかった気分になる
やっぱり遼太郎おじさんで良かった。

そんな司馬さんの
訪れた
景色の中で
自分も会いたいな
訪れてみたいなあ
と強く思ったのが

慶州盆地
仏国寺鏡内を訪れた時に出会った

七人の翁

〜白い韓服を着た7人の老農夫が野遊びに来ていた。
かれらは車座になり、アルマイト製の茶瓶を真ん中において
ときどき茶碗に注いでいる。ゆったりと飲む
韓酒であった。
肴はないが、1人ずつ立ちあがっては肩で調子をとり
歌を歌って、お互いを愉しませあっている。

白い 羅(うすもの)の上衣をまるで羽衣の芝居のように松の枝にかけている
(日本の羽衣説話が百済人の乙女との出会いであるといわれているそうです)

司馬氏が仲間に入れてほしいとたのむと
7人ともそろって70歳以上であり
弾けるような笑顔をつくって歓迎してくれた
司馬氏の父親程の年齢
親戚の息子でも歓待するように喜んでくれる。

「日本(イルボン)から遊びに来たのか」(慶州の言葉で)
しみとおるような笑顔できくのです。

壮年期にはイルボン帝国の併合政治があり
老年期には朝鮮半島が両断されて同民族がたがいに
憎しみあわねばならない苛烈な政治状況のなかにある

それでもなおこの7人の老農は太古そのままの風ぼうをもち
松の根方で鼓腹撃壌しているのかさっぱりわからない

この人ら、イルボンが朝鮮を支配していたということも
うっかり気いつかなんだとちがいましゃろかと同行の方もいいます。

司馬氏は、本物の人間というのはこの7人の翁で、我々イルボンサラム
というのは時というものに振り回されている機械人形にすぎないの
かもしれないという思いが韓酒の酔いがまわるにつれて体じゅうに
まわりはじめた。

その間も老翁たちが1人ずつ立ち上がっては、体で拍子をとりつつ
歌を歌っている。

向こうから最長老といったふうの翁が赤ん坊のように這ってきて
口ひげのあいだからたえまなくきれいな笑い声をあげ
そのあげくに

「イルボン、うれしい」とはじめて聞く日本語を喋ってくれた。
そして司馬氏のむねに体を寄せすぎたため
あやうくひっくり返りそうになる。

「ハハハ、イルボン、うれしい」とくりかえした。

戦後あれほど懸命にソウルの新聞やラジオが半日宣伝を
語り続けてきたのにうかつにもそれさえ聴いていなかったようであった。
司馬氏はひっくりかえりそうになりながら
あやうく涙がこぼれそうになった。

ブルーやピンクの韓服を着た娘さん達が
街を歩いていたという時代。

おおよそ、50年前の景色。

日本だと
むかーしむかしな景色。

少しだけ
遼太郎おじさん
韓酒で幻を見られたかな?
なんて思いつつ

行ってみたいな


そして
霧は晴れ
第4次韓国ブームの
自分のそれからの日々を
いつか熱く語ってみたい‥です。


読んで頂きありがとうございます😊
こうして、楽しく過ごせていられる事に感謝です。








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