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私の、旅行記

70歳を過ぎて家業から引退した父は、先祖の残した大正から昭和時代の記録の整理にいっとき熱中していました。ダンボール箱に詰まった数十年分の日めくりを読み返して、時にはパソコンに向かいポチポチと書き起こす。セーブし忘れて頭を抱え、こんな時には気分転換だ、といそいそと缶ビールを開けていたのも懐かしい。

その中にA4より少し小さい黒い表紙のノートが3冊ありました。父の祖父、つまり私の曽祖父の世界旅行の日記です。

金谷眞一(1879-1967)

大正14年、1925年に1人で半年も各国を旅したのだ、英語で日記を書いていたのだ、と聞かされました。著名な作家さんが書いてくれた我が家に関する本にも、父の希望で長い1章をさいていただいて読みましたが、それほど気に留めていませんでした。

私の家は、明治維新後の早い時期に外国人を顧客とし開業したホテルです。家族総出で浮き沈みを乗り越えてきた中で、曽祖父は創業者よりも伝説的な存在になりました。ホテルに次々に新しい設備を導入し、国内外の貴顕を顧客に事業を拡大、地域の発展にも貢献、などなど。その総領娘だった私の祖母は、人から「お父様によく似ている」と言われたのに対し「こんなしわくちゃ婆さんの私とあんなにステキだったお父様を比べるなんて」と激怒したファザコンでした。そんなレジェンドが亡くなった8ヶ月後に生まれたのが私です。父は曽祖父待望の初孫男子だったため、思い出もたくさんあったようですが、残ったのはあの段ボール1箱だけになりました。

父ももういません。ある日、放っておいた宿題にとりかかるような気分で、私の元に引き取った曽祖父の日めくりのダンボール箱を開けて、一番上に乗っていたあの旅行記を読んでみました。和文は崩し字ですが、慣れれば読めそう。何より大部分は几帳面な筆記体の英文なので読みやすい。以前本に書いてくれた作家さんのおかげで旅程はわかっていました。横浜からハワイ経由でサンフランシスコに到着してからアメリカを横断し、カナダから大西洋を渡りイギリスへ。フランス、スイス、さらにドイツ、イタリア、エジプト。帰路はインド(セイロン)、シンガポール、サイゴン(現ホーチミン)、中国沿岸を経る旅です。読み進めるうちに、これは独り占めするのは勿体無いと思うようになりました。大正時代末、民間人の世界旅行の記録は、皆無ではないとしても稀なのでは?おそらく父も同じ気持ちだったのでしょう。そこで今年6月から、約100年前の旅行記の日付そのままにTwitterで毎日の公開を始めてみました。今年はちょうど、家業の創業150周年でもあります。

曽祖父が残した日記原文を読み、そこに出てくる場所や人を調べ、記録に残す作業を、準備期間を含めて一年近く続けてきました。どうやって旅程を決めて手配していたのか。移動手段は何か。どこの町にいき、どのホテルに泊まり、誰と会い、何を見て何を感じたのか。その場所や人の来歴や、現在の様子などのいちいち、出来事の背景などは、インターネットがなかったら確認のしようがありませんでしたし、SNSがなかったら公開はできなかったでしょう。より詳しい内容や背景となる情報は、訪問地ごとにある程度まとめてnoteに書いています。読んでくださる方があるのを励みに、投稿は20回を超えて続いています。

書くことで曽祖父と一緒に旅をし、色々な思いを知りました。2人の娘、弟、前年に亡くした妻。温かく迎えてくれる各地のホテリエたちへの感謝、交流の中で深める自信、不安、希望。異文化に圧倒されこぼれる本音。1人旅を続ける強さ、好奇心、時折覗くユーモア。父親が徒手で始めたホテルを軌道に乗せ、長年の夢だった世界旅行に飛び出し、臆することなく人々と関わる45歳の曽祖父はやっぱりレジェンドだけれど、少し身近になりました。

旅行中の7ヶ月の間に、TwitterはXになり、暑すぎる長い夏が過ぎ、急に冬がきました。1925年の曽祖父は今帰国途上、サイゴンを出航し南シナ海を香港にむかっています。一昨日は数えで47歳の誕生日でした。クリスマスの頃一緒に故郷に戻った後は、あの大量の日めくりの整理を始めましょうか。毎日ホテルを訪れる華やかな人々や出来事の一方で、だんだん大きくなる戦争の足音。そして戦後の苦闘。散りばめられた多くの出来事を曽祖父の視点から繋いでいくことは、150年分の家族の歴史を旅することになるのでしょう。

曽祖父の旅行記を手掛かりにして、私の旅行記がこれから始まるのかもしれません。どこに着くのかわかりませんが、ちょっと、わくわくしています。


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