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無音体験

ヘヴィなロックはイヤホンで最大音量で聴くのが作法に近く最高だと思っていますが、それはめったになく、普段はBGM無し、何ならテレビもたまに消音で観て過ごしております。外出の折にざわついてくるような時は、気付くとつるんと場を離れています。これは、仕方がない、自分はそういう生き物なのだ、と理解できているところのひとつです。

現代で、音の聞こえない場所など考えたことも無いしあるとも思わず生きてきましたが、何かの間違いのように偶然居合わせたことがこれまで2回あります。お寺での座禅や写経などのレベルではなく、”シーン”というムードをはるかに超えた、まるで無重力の宇宙に入ってしまったかのような、ある種の圧さえ感じる無音空間です。ひとつは島根県、もうひとつは奈良県でした。

出雲大社で参拝を終え、玉砂利を踏む音を楽しみながら公道に戻ろうとしましたところ、博物館のような展示館があるらしいと気づき、横道に逸れました。手入れをされたツツジかサツキの垣根の土道を数分進むうちに、あ、これはいったい、と立ち止まりました。空は快晴、葉っぱひとつ揺れていない、だ~れもいない空間、無音。鳥の声も風の音も、すぐそこの道路を走っている車の音もどういうわけか全く聞こえない。目線の先には、建物が見える。デモ、ここは周りから切り取られているかのようにチガウ。
この場所は何だろうとキョロキョロ戸惑うほど、皆無だったのです。音が。
とてもとてもとてもわたくしには居心地はよいのですが、そこはかとない違和感に押され、良くわからないけれど「あ、しまった」と感じさせるような、と言えばよろしいでしょうか。不思議体験というわけではないでしょうが、狙って出くわせない未知の感覚でした。

奈良県では、こちらでした。作品鑑賞がふっとんだ話|美恩 (note.com)  誰もいないお寺の庭園を拝見している時です。牡丹が名物らしい一角のスペースは、シーズンではないので乾いた土が広がるばかりでした。しかしナゼかその範囲だけ、スリムなバッタが群れ飛び、その上空にちいさな紫の蝶たちがひらひら浮かんだり沈んだりしていて、なんというか、ほのぼのとしたおとぎ話が展開していたのです。それを見つめている時に、あ、まただ、と気づきました。音が、皆無。そして、それによってなのかよくわからないけれど音以外のナニかも皆無。すぐ目の前に生き物たちが動いているのに、気配が感じられ無いのです。そして、やたらと居心地が良い。もちろん、消音で映像を観ているのとは別世界です。きっと、にんげんは普段実物の音は耳以外でも聞いているのでしょうね。

先日、こちらの本をご紹介いたしましたが 【固くなったアタマに】 伊藤亜紗 著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社新書、2015年。 肩だけでなく頭が固い時に読みます。結果、心も柔らかくなります。 絵画鑑賞の前にも良いかと思います。|美恩 (note.com)  、五感の内どれかをふさぐと、有機的に繋がって何かが反応するのでしょうか。

セレンディピティという言葉がありますね。
この体験がわたくしに有益だったり幸運に繋がったりするのかは極めてナゾですが、予期せず、全くもって偶然手に入れた感覚であるのは間違いありません。PCで溢れる情報を検索する以外に、実際に経験しているうちに起きた思いがけない気づきのお話しでした。










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