the last scene 僕が好きな君
「別れて下さい」
僕の母は、泣きながら彼女に言った。
彼女と出会ったのは、大学三年の春だった。
学内のサークルの適当で中途半端なのが嫌になり、自分で新しく何かを立ち上げようと思って、年齢を限定することなく地域で、体操サークルを立ち上げる計画をした。
何も恐れるものなどなく、自分でゼロから作り上げて行く好奇心のかたまりの様な動きをして、走り回っていた。
高校時代やっていた機械体操の経験を活かして、地域のコミュニティ新聞にメンバー募集の広告を出したら、驚くほどに人が集まって嬉しかった。
電話が鳴るたび、笑顔が溢れる充実した日々を送っていた。
「初心者ですが、入ってもいいですか?」
彼女は、遠慮がちに電話をかけてきた。
「もちろんですよ。ほとんどの方が初めてです。」
彼女は、ほっとしたように
「良かった〜。仕事帰りに少し体を動かしたくて、安心しました。」
彼女は、僕と話して安心していた。
次の日、彼女は練習に来た。
彼女の笑顔は、どこか寂しげで優しかった。
「真奈美さんサークルで、何か気づいたことあったら、教えて下さい。」
「はい。わかりました。」
「真奈美さん、今度、食事しませんか?」
「実は、私、子供がいます。」
その時、僕の頭をよぎったのは、真奈美さんの笑顔ではなく、自分の母親だった。
今、僕は一人暮らしだから、母親から、とやかく言われることは、ないと思い真奈美さんとの距離をどんどん縮めていった。
「息子さんと会ってみたい」
と、言うと彼女の笑顔は消える。
「息子さんは何歳?」
と、僕が言うと彼女は言った。
「このまま、今のままでいいでしょ」
その日は、彼女の言うことをきいた。
それから、何ヶ月か過ぎた頃に、僕は、彼女の部屋へ行けるようになり、そして、彼女の息子さんと食事をするようになった。
僕が、彼女に出来ることはないかと、バイトしたお金は、すべて彼女に渡していた。
焼肉屋のバイトや、引越しの仕事をして、毎日クタクタになっていた。
焼肉屋のバイトは、たまに乱暴な客が来て、対応が難しく裏で鉄板の掃除ばかりしていた。
引越しの仕事は、体力に自信があったので、何事もなくこなしていた。
ただ、ひたすら彼女のために働いていた。
彼女は、アパレル会社の卸しの仕事をしていた。5時20分に仕事が終わり、保育園に子供を迎えに行く。
僕は、毎日彼女に会い、
二人で話しがしたかった。
彼女の仕事が終わって、一緒にバス停まで歩く、わずかな時間が大切で、バス停まで、彼女と僕の二人だけの時間、この時間のために、バイトを頑張っていた。
彼女が、職場から出て来た瞬間に会いたくて、嬉しくて抱きしめてしまったこともあったけれど、
それでも、恥ずかしがらずに、一緒に歩いてくれた。
彼女と歩く一歩一歩が、僕に自信を与えてくれる。
歩く速度をあわせながら、ゆっくり歩いた。
街のざわつきなど、何も聞こえなくなる。
隣にいる彼女のぬくもりだけを、感じていた。
そして、彼女はバスにのって行ってしまう。
毎日見送った。
この時間が、僕と彼女の大切なもの。
だと、思っていた。
僕は、バスに乗る彼女をずっと見て、
ずっと、ずっと見ていた。
僕は、まだ、その時、社会を知らない学生だった。
彼女の優しさに、甘えていた。
彼女は、僕の七つ年上なのに、一緒にいても年の差を感じない。
僕が、彼女の会社の前で待っていると、彼女は僕を見つけて、無邪気に窓に息を吹きかけ、くもりガラスに、お花の絵を描いてくれた。
そんな、子供のような仕草が好きだった。
いつも、いつも、僕は、彼女を待っていたから、彼女は、僕を待たせることを、何とも思わなくなっていた。
彼女の誕生日は、6月3日で一緒に買い物しようと約束し、たくさんの人がいる仙台駅の、巨大な天井まであるステンドグラス前で、待ち合わせをした。
僕は、買い物をするために、バイト代を財布に入れて、胸の高鳴りをおさえながら待っていた。
初めてのプレゼントだから、何が欲しいのか、男として嬉しくて、待ち合わせ時間の30分も前から待って、時計を何度も見た。
時計を何度も何度も見て、一秒一秒、胸が張り裂けそうだった。
約束の時間。
その瞬間から、胸の高鳴りが一気に不安へと変わり、彼女は、待ち合わせの時間に来なかった。
彼女に、何かあったのかも知れないと不安になった。
夕暮れの駅は、帰宅する人達で、あふれかえり、遠くから歩いてくる彼女に似た人を見つけるたびに、ハッとした。
二時間が過ぎても、来ない。
もう、来ないかも知れない。
家に帰って、彼女に何かあったのか電話をしようと思った。
その時、彼女は笑顔であらわれた。
「ごめんね。会社の人とお茶してて遅くなっちゃった。」
僕の中の何かが、もう、限界だと叫んだように、僕は、彼女を怒鳴りつけた。
「いい加減にしてくれ!」
人が大勢いる中で、大きな怒鳴り声をあげたので、僕達は注目を浴びた。
「ごめんなさい。もう、このまま部屋に行ってもいいから」
僕が彼女を抱くのが目的のような、そんな言い方をされて悔しくて、彼女の顔も見られなくなり、買い物をしないで、財布のお金を彼女に渡して、バイトへ行った。
自分が何なのか、わからない。
たぶん、彼女は無意識に言っている言葉がある。
その言葉が、心に刺さる。
「社会人じゃないから、わからないよね。」
「学生だから、わからないよね」
そして、その言葉に言い返せないことを、彼女は、気づいていない。
彼女の息子と三人で、映画を観に行くことになった時も、彼女から言われた言葉は、
「どうして、どうして、この金額で買ったの?割引券を使えば、もっと安く買えるのに。」
彼女を知れば知るほど、生活が苦しくて、お金がないことを知った。
もう、大学を辞めて、彼女のために働こうと考えた。
彼女が、ずっと前に言った言葉が、わかって来た。
(このままで、今のままでいいでしょ)
あの時は、わからなかったけれど、僕は、今、彼女と同じ気持ちになっている。
あの日のままの、彼女が、好きだった。
こんな自分だから、上手く行かなくなると思い、両親に彼女を紹介しようと考え、実家へ帰ることにした。
実家へ帰る高速バスの中で、彼女を、どう説明したらいいのか考えながら、彼女の好きなところを思い出していた。
彼女は、僕の部屋へ来る時には、必ず一輪の花を買って飾ってくれる。
「何もない殺風景な部屋だから」
と、そういう彼女を両親に伝えたい。
僕は、彼女にどれだけのことが出来るのか。
毎日、そのことばり考えていた。
だから、おでん屋で、彼女の話しをしたら、おでん屋のおばちゃんが、おでんを鍋にたくさんくれたので、嬉しくて、彼女におでんを持って帰ったら、
「そうやって、かわいそうな女を助けてるって言ってるの。」
と、泣きながら叫ばれ、アイロンを投げつけられた。
彼女の気持ちが、わからなかった。
胸に、ぶつかったアイロンが熱く痛い。
今のままでは、また、ケンカになってしまう。
僕は、彼女の存在を両親に認めてもらい真剣な気持ちを、彼女に伝えるために、実家へ帰って来た。
反対されるのは、わかっていたけれど、自分のやることを、そんなに否定するのかと言うほど、母から、にらまれた。
僕の言い方が、悪かったのか。
「付き合ってる人がいて、その人には、子供がいる。」
それ以上の言葉が、出て来ない。
あんなに考えたのに、母が怖かった。
それから、母は、半狂乱で叫び怒鳴り
「親から仕送りもらって、何やってる。」
と、父からは、あきれたように言われた。
こうなることは、わかっていたけれど、それでも良かった。
僕が、彼女に対する気持ちが、真剣なことを、彼女に知ってもらいたかったから、僕は両親に言った。
「彼女に会ってほしい。」
他に、言葉が出なかった。
立ち上がることすら出来ない母は、それから何日も寝込んでしまった。
ずいぶん前から、母とは意見が合わなくて、ケンカばかりしていたけれど、こんなに、悲しい顔をされたのは、初めてで、
どうして、笑顔で、彼女に会いたいと言ってくれないのか悔しくて涙があふれた。
一人暮らしのアパートの壁を叩いて、こぶしが血だらけになったまま眠った。
母と電話しても進まないと思い、父と電話をした。
こじんまりとした小料理店で、両親と彼女をあわせた。
母の第一声が、
「別れて下さい。」
だった。
その後、母は、店を飛び出したので、父と僕は、母の後を追った。
父から、
「お前は、彼女のところへ行け!」
と、言われて、お店に戻ったけれど、彼女は、もう、いるばすがない。
呆然とした。
僕は、今、何をしたかったのか。
お店に、一人残された彼女が、どんな惨めな思いをしたのか。
彼女の言葉を思い出した。
「社会人じゃないから、わからないよね」
「学生だから、わからないよね」
その通りだった。
何があっても、彼女のそばから、離れては、いけなかった。
彼女の気持ちを優先しなくては、いけないのに、僕は、今まで何をして来たのか、わかった。
次の日、彼女のお姉さんから電話が来て、指定されたホテルのラウンジで待ち合わせをした。
着物を着て、凛とした女性が僕の目の前へ来て座った瞬間、もう、終わりになる予感がした。
「妹と別れて下さい。」
僕は、言葉が出なかった。
黙っていると、お姉さんは立ち上がり、僕の伝票を持った。
「僕が払います。」
お姉さんは、また、座った。
「学生のあなたが払えるお店では、ないのよ。」
僕は、凍りついたように、体が冷たくなった。
その後、どう帰って来たのか部屋で倒れていた。
目を覚ますと、彼女が飾ってくれた花が、枯れている。
花瓶の水も、なくなっていることに、気づいた。
彼女は、僕に仕返しをしたかったのか。
急に、真剣な自分が馬鹿らしくて笑って泣いた。
彼女と話しがしたくて、ファミレスで待ち合わせをしたら、時間通りに来てくれた。
僕は、彼女の目を見て真剣に話しを始める。
「真奈美さん、僕は、息子さんの入学式に出たかったけど、僕に」
と、言いかけた時
「私、好きな人がいるの」
僕は、どうして、そんなことを言うのか、わからなかった。
沈黙のあと、
彼女は、席を立って伝票に手をかけた時、僕は、彼女の手を押さえた。
彼女の手は冷たく震えていた。
僕は、彼女に言った。
「最後だから」
そう言った僕の手を払い、彼女は、店を出て行った。
その日から、彼女とは会っていない。
僕は、大学を卒業して、就職をして、友達の紹介で知り合った彼女と恋愛し、結婚して子供も産まれた。
あの日、彼女に(ありがとう)も言えず、「私、好きな人がいるの」と、いう言葉に怖くて、彼女の気持ちを聞くことが出来なかった。
あの時、「私、他に、好きな人がいるの」とは言わなかった。
彼女のことを思うと、情けなくて、胸が苦しくなり、息が出来なくなる。
僕は、何をしていたのか。
彼女は、今、どこで暮らしているのか。
彼女の会社の前で待って、
一緒にバス停まで歩く、
わずかな時間が幸せだった。
彼女が、バスに乗るシーンを忘れられない。
完
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