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街とその不確かな壁/村上春樹

✳️本記事は2023年10月に投稿したアメブロに基づいています

2023年の春に発表された村上春樹の新作。珍しくあとがきが付されているが、それによるとオリジナルは1980年にまで遡り、作者にとっては「喉に刺さった魚の小骨」のような存在だったそうだが、ここに来てようやく明確な形を得て僕たちの前に現れてくれた―まさにWork in progress。図書館での貸出も既に20人以上の予約が入っており、今年中に読むことが叶うかと思われたが、意外に早く貸出が実現し、読了を果たしたのだった―。


僕の場合ちょうどタイミングがよく、貸出期間が図書館の蔵書点検のための休館日と重なったため、本来は2週間のところを3週間以上借りられることとなった。おかげで急ぐことなく味わうことができたと思う。
結局半年ほど待たされたことになったが、次々と読了ツイートがなされる中、「影」を題材にした他の作品が注目されていて、僕も本書に備えるかたちで読んでみることにした―それは、村上氏とも親交が深かった臨床心理学者の河合隼雄氏の著作「影の現象学」である。日本有数の心理学者でありながら「人の心などわかるはずがない」と言い切る氏にはリスペクトの気持ちしかないが、古来からの「影」のあり様から、現代の問題の根底に潜む要素に迫ろうとするアプローチには、学ぶべきところが多々ある。本人と(本人に他ならない)影との統合が目指されていたような記憶があり、この村上作品のベースにもなっているスタンスだったと感じている。

本体と影とは本来表裏一体のものです

他にもシャミッソー/「影をなくした男」や遠藤周作/「影法師」、安部公房/「壁」なども関連を見出せそうである。

最近聞いたラジオの中で「おかげさま」(お陰様)の語源のことが話されていたのを、記事を書きながら思い出していた―古くから「陰」は先祖や神仏など偉大な存在からの庇護を受ける意味として使われている。似た表現として「御影」があるが、これは「神霊」や「みたま」「死んだ人の姿や肖像」を意味することとも通じるものがある。影(陰)にはどうやらその意味や意義に多様性が見いだされるのである―それが吉と出るか凶となるかは、僕たち次第なのだろうか、それとも目に見えない大きな力が働いているのだろうか。だとしてもそれに抗うか、受け入れるかは僕たちに任せられているのかもしれない―。


本書は全三部70章と「あとがき」からなる―26章までが第一部で、第二部が27~62章と最もヴォリュームがあり、第三部がわずか8章しかない。ブルックナー級の長い緩徐楽章を中心に置く全3楽章の交響曲、といったところか。フィナーレは短いが、長大な川の流れを根底から揺るがす布石のような役割を果たす。全体の印象はとても読みやすく、600ページあってもスルスル読める感じすらする。村上作品の筆致の特徴ともいえる過剰な饒舌さや装飾句のような表現が以前より抑えられているのもスムーズさの要因かもしれない。

1985年作「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と似たテイストを持つ第一部は、僕の中をさらさらと流れていくだけで、特にこれといった感触を残さなかったのが正直な感想だ―もし僕が10代だったら違っていたのだろうか―。むしろ、物語が動いてゆく第二部からの方が内容にのめり込むことができた(親切にも大切な箇所では第一部からの回想が記されるので、難なく物語についてゆくことができた)。ミッドエイジ・クライシスを経験した孤独な中年男性の「私」―そこに既視感を感じるのは僕だけではあるまい。女性であれば、コーヒーショップを切り盛りしている30代の(やはり孤独な)ヒロインに共感する方が多いことだろう―のちに彼女の秘密も明かされる―。ツイッターを席巻したブルーベリー・マフィンが登場するのも、クラシックやジャズが流れるのもこの第二部。村上作品において音楽は重要な位置を占めていたように思うが、聞こえてくるのはこの第二部のみ。「私」はいつも通り手早く家事をこなすが、ヒロインを招いて手料理の夕食を披露するのも第二部のみの展開だ。今までだとそのまま関係を持ちそうだが、彼女との関わりはプラトニックな形に留まる。セクシュアルな表現が圧倒的に少ないのも例外的である。

第二部はある意味てんこ盛りで、キーパーソンも一気に登場するが、なかでも重要なのは前館長の「子易さん」と、図書館で貪るようにあらゆる本を読み続ける「イエロー・サブマリンの少年」である。2人とも小説内では独自の立ち位置を占めていて、彼らにしかない特徴を持つ。子易さんは元館長のみならず元人間であるし、それなりの歳でありながら巻きスカートを履いていたりする。一方の少年はサヴァン症候群であり、「私」がかつていた「壁の中の街」に行きたいと強く願っている―使命感を持つほどに。図らずも「私」が彼と一体化し「夢読み」を継承させることとなる―子易さんが「私」に館長の仕事を継承したように。第二部でアドバイス役を務めるのは子易さんだが、第三部で物語の展開を引っくり返すのは少年である。子易さんには「羊男」の風情を感じる。幽霊を登場させるのは鼠三部作のときからそうだった。ストーリー展開の要となる存在は今まで「少女」が多かったのだが、この度は「少年」となっている。


いつもの村上作品なら、1冊の小説に登場する楽曲でCDが企画できるほど多くの音楽が登場するのだが、この度はほんの僅かしかない―クラシックに至っては2曲のみである。それもラジオで聞こえてくる受動的なものに過ぎない (チャンネルは「私」が合わせているのだが) 。それでもヴィヴァルディの「ヴィオラ・ダモーレ協奏曲」だったり、ボロディンの弦楽四重奏曲だったりするのは一捻りあって良い。どちらも番号まで書いていないので、第何番か特定できないところからしても、この小説での「音楽」の立ち位置がわかる気がする。ジャズに関しても同様で、例のコーヒーショップで流れているのだが、如何にも詳しそうな「私」に対してオーナーの彼女はまるで無関心で、有線で放送されているから流している程度のものなのだ―ある意味、音楽に対する不特定多数の人々の反応はそんなものなのかもしれない。壁に囲まれた街では音楽が存在していなかった―存在していても気づけなかった。壁の外の街でようやく音楽が聞こえてきたのは示唆に富む状況である―まるで僕たちを「現実」に繋ぎ止めて置くための装置のようだ。

初めてコーヒーショップを訪れたとき流れていた音楽―後で思い出す。

エロール・ガーナ―/「パリの四月」。ライヴ音源である。

再びデイヴ・ブルーベック・カルテット。「雪の舞う月曜日の朝」に―。

コーヒーショップで流れるジャズの最後の曲。

イ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ/ヴィオラ・ダ・モーレ協奏曲集。


「私」は家事をしながらラジオから流れるクラシックに耳を傾ける―そこで流れていたのは「ロシア五人組」の一人、アレクサンドル・ボロディンの弦楽四重奏曲。ムソルグスキーとリムスキー=コルサコフは思い出せるが、他の二人は思い出せない。それから家を出て、コーヒーショップで彼女の打ち明け話を聞く―その間も「私」はどこかでまだ考え続けている。最後になってようやく(誰かの声で)「バラギレフ」だとわかるが、もう一人は結局出てこなかったのである。

第2番と比べてほとんど耳にされることのないボロディン/弦楽四重奏曲第1番イ長調。リムスキー=コルサコフ夫人に献呈されている。

明らかに有名な弦楽四重奏曲第2番ニ長調。プロポーズ20周年記念としてボロディン夫人に献呈された。


五人組のもう一人はキュイ。この「万華鏡」Op.50~「オリエンタル」が最も有名である―。



以下では、小説の中で印象的だった場面を思いつくまま挙げてみる―。

第二部で「私」が心機一転離職し、直感に導かれて地方の図書館に勤務することになる (壁の中の街で彼が図書館で夢読みしていた記憶が関係している) が、そこが「福島県」であることに村上氏の思いを感じる。「図書館」という設定も「海辺のカフカ」を思い出さずにはいられない―大島さんや佐伯さんが登場しそうな雰囲気もあり、ワクワクしながら読んでいた。無意識のうちに、あの街との「繋がり」を見出だそうとしているかのような「私」―ゆったりと時間が流れる中、その兆しが幾度も現れ、僕らの読書欲を誘う。

深夜、キーパーソンの子易さんと図書館奥の半地下の真四角な部屋で落ち合う「私」―そこで彼が影を持たないこと、この世のものではないことが明かされるが、突然、旧約聖書の詩編が引用されて驚いた。久しぶりに聖書を開いてみたら、それはダビデが詠んだ詩編であった―4のゾロ目がやけに気になる引用である。

人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない

詩編第144編4節

それでも「私」が子易さんの幽霊を全く恐れていないことに注目できる―むしろ会えることを嬉しく思っているのである。この世ならざる存在が数多く現れる村上作品だが、とりわけここでの関係性には心温まるものがある。そして(あちらの事情で)二度と姿を現わせなくなったことを知る。

彼は間違いなく永遠に消えてしまったのだと私は悟った。この世界から最終的に去ってしまったのだ。それは何より切なく悲しいことだった。おそらく、どんなほかの生きている人間が死んでしまったときよりも。

ブラームス/ドイツ・レクイエム~第3曲。詩編39編からテキストが採られ「人のむなしさは影のごとく」と歌われる―。


サヴァンと思われる「イエロー・サブマリンの少年」が、いきなり話しかけてきて誕生日の曜日を当てる場面も印象的だ―ちなみに僕は「私」やコーヒーショップの彼女と同じく「水曜日」だったが、マザーグースの童歌によれば「水曜日の子供は苦しいことだらけ」なのだそうだ―きっと読んだ人の多くが自分の曜日を調べたことだろう―。



また、子易さんの墓の前で「私」が打ち明けた「壁の中の街」の話を「少年」が盗み聞きして、寸分違わぬ正確さであの街の地図を書いて見せたとき、やはりサヴァンだったと思われるモーツァルトが引き合いに出されている。門外不出だった「アレグリ/ミゼレーレ」を教会で聴いただけで譜面に書き記すことができた、という逸話に基づいている。

詩編51編に基づくアレグリ/ミゼレーレ。美しさゆえ深く印象に残るが、4声&5声の二重合唱によるこの曲をほぼ正確に採譜したモーツァルトの能力が凄い―。

司書の添田さんが持ってきた紅茶とマフィン、カップや皿の雰囲気がサロンを思わせ、モーツァルトのピアノ四重奏曲を思わせる―。


壁に囲まれた街との関連が徐々に明らかになる中、ついに「少年」が「その街に行かなくてはならない」と告げる―面白いのはその街に住んでいた「私」より街の事情に通じているらしいことだ。現に彼は高い壁の存在理由をこのように言う(記す)―。

疫病を防ぐため
終わらない疫病

これを読んでCOVID-19に直面した現実世界が頭をよぎらないはずがあるまい―僕たちにとって「高い壁に囲まれた街」とは何処のことだろう。そしてその壁は「不確かな壁」でもあるのだ。


第二部の最後の章で「私」はついに「壁抜け」を体験する―村上作品では常套手段である。この時点でもはや、今までいた場所が内か外かも曖昧にされる―。
夢か現実かはっきりしない中、川の上流に向けて歩く「私」。歩く度に自らが若返ってゆくことに気づく―そして思春期に戻った「私(ぼく)」は第一部の「きみ」と出会う。前述の詩編の引用のせいか、ここでも新約聖書の黙示録に登場する「いのちの水の川」を連想した―それは「都市(街)」の中から流れてきているのである―。この場面は、再び壁に囲まれた街に舞台を移す第三部への見事な導入となっていると思う。

デイヴィッド・R・ギリングハム/交響曲「黙示録による幻想」吹奏楽のための音楽で、場面転換が鮮やかで聴きやすい。


本書冒頭には次の引用が書かれていた―。

その地では聖なる川アレフが
人知れぬ幾多の洞窟を抜け
地底暗黒の海へと注いでいった

サミュエル・テイラー・コールリッジ/「クプラ・カーン」

ねえ、わかった?わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ。

ここは高い煉瓦の壁の内側なのか、それとも外側なのか。

それは僕たちが僕たちで見据えていかなくてはならないことなのかもしれない―。


本体と影とは、状況に応じて役割を入れ替えたりもします。そうすることによって人は苦境を乗り越え、生き延びていけるのです。何かをなぞることも、何かのふりをすることもときには大事なことかもしれません。気になさることはありません。なんといっても、今ここにいるあなたが、あなた自身なのですから


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