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価値と不快の間

他人に迷惑をかけたり、不快な思いをさせない様に気を使う。

一見当たり前の道徳だがそんな事果たして可能なのか?多分無理だ。

存在自体が合わない人は確実にいて、それより多くの人がギリ存在を我慢していて、さらに多くの人が会うことに我慢できる。

心の底から会いたい人は片手の指でも多いくらいだし、好きでも嫌いでもないが少し不快な人が1番多い。

ほんの些細な言動で眉を顰めて呆れ返る人も居る。

それが人間の実態だろう。

心の底から大事な人ですら、ここは直してほしいと思う点は山ほどあるものだ。

ではどうしてそんなに嫌なところの多い人を大切に思うのか?

単に習慣と片付けてもいいが、ここはそれ以上の価値を与えてくれるからだ。その価値が他人には全く理解できなくても、それが一番大切なので、切らないという場合もある。

では価値観が根本的に違う人とは相容れないのか?というとそうでもない。

相手の大切なものに共感しなくても認識して尊重する体裁を保ってくれたら人は共存できるものだ。

最低限メリットがあれば不快感と比較して優る可能性はある。

不快感を減らす努力も必要だけど、ある一定以上は無理だ。価値の提供の方が可能性が高い。とは言え、価値を多く与えてくれる人は、その分その価値を認めずむしろ嫌悪する人にはとことん憎まれる要素になる。

価値と不快は一概には決定できない。価値観は人それぞれ。それが許せない人もいる。しかしその人も悪くない。修行者は自分の一部を否定することで爆発的な成長を得る。自分を否定する人は他人にも厳しくあたるものだ。

修行は自己嫌悪に始まり自己肯定に終わる。

成長と寛容はトレードオフである。

成長していない人が自己への寛容の価値を盲信するのは何か違う気がする。成長するしないは各自の自由だし、別に自分の中で自己への不寛容を否定しても構わないけど、他人にもそれを強制するのは違うとは思う。

他者への寛容も普遍的な価値の様だけど、他者に不寛容な特性を持ってる人は教育能力が高いので、寛容な人も黙認してる感じだろうか。

本当に寛容な人は不寛容にもかなり寛容だし、不寛容な人は他人よりも自分により不寛容で修行者特有の厳しさがある。

寛容は成長を遅らせるから、いきなり寛容を目指す必要もない。

不寛容が肯定される理由があるから、世の中は他人に不快感を感じる人で満ちる。それゆえに、処世術は必要。それは単に不快感を減らすことで達成できるものではない。とことん自分に厳しい人は、他人にもつい、その厳しさをぶつけてしまう。結果どうあがいても不快感を与えてしまう。

だから、価値を提供する人を演じる必要がある。たとえ、どんなにつまらないものしか生み出せなくとも、何かを努力するのは価値があるという思想を布教する事は多くの人にとって、価値ある事だ、だから、努力をしている体裁は保たないといけない。

そうすることで、怠け者というレッテルを貼られて迫害される恐れが多少減るのだ。

「その結果、皆んな頑張りすぎて心身壊したのでは?」

それはその通りだ。ただ、上手くやれば、楽して成功できる思想に傾くのはもっと不味い、割とこの国の人は、上手くやろう思想と下手でも頑張れ思想の両極端で中間を知らないので、バランスが悪くなりがちなのだ。

肩の力を抜かないといけない。

上手くいく事を頑張るのが1番だけど、一度も頑張れば正当に評価され、上手くいくという経験をしたことがないひとは、どれがその様な真面目な正道か分からない。水の中で溺れている様に見える。お金も情報も水もので、別に飲食店の類の一部だけ水物な訳ではない。紙切れに印刷された数を大切にする人は聖者のイコンを笑うべきではない。

またキツめの物言いをしてしまう。

価値を提供することで恐ろしい目に会わずに済む、と言いたかったのに、何かずれていく。他人のこと言う前に自分に対する甘さをどうにかしたい。

僕の中での良し悪しの定義が崩れている。しかし本題と微妙にズレるので省く。

ただ事実誤認が有ればそこは検討しないといけない。成長の定義を倫理的、精神的側面に限定することで推論を間違えたならそこは訂正も視野に入れたい。

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