自分を大事にできている実感として
自己肯定感が大事で、それを上げるにはどうしたらいいかと、
実はここ10年くらいはもがいている。
色々なことをしたと思う。
覚えていられないくらい、数えきれないくらい。
いろんな種類で何回も。
頑張っているのに変わっているのか変わっていないのか。
「ありのままを認めましょう」と言われれば、
「自分のありのままを認められるように、もっと立派な自分にならなきゃ」と。
それは違うで・・というような発想をして空回りしたり。
日記を書いて、明日はいい日になりますようにと祈るような気持ちで、日記の最後を「ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」で締め括ったり。
(それを書かないとバチが当たる気さえしていた。まじ病んでる)
ノートやiPhoneのメモ帳に思いの丈を書き殴ってみたり。
いろんな自己啓発本を読んだり。
断捨離してみたり。
繰り返し繰り返し。
ほんとに10年くらい。
自分が当たり前だと思っていた「自分は後回しにしてもいい人間。人様を優先すべきだ」という認識を変えるためには1年とか3年とかでは済まないのだ。
この世に生まれて自分の認識が形作られていく中で、他人に妬まれないように謙遜として私の存在を下げた発言をしていたいちばん近い存在の母親。
まあ気持ちはわかるけどもっとケアしろやと怒りが湧いてくる。
私がこんな目に遭ってるのは親の育て方が悪かったんだとムカムカすることは多い。
でもそれは過去の話。そのことは許さないけど、今はもう子供ではない。
「親のせいで自己肯定感を下げられた可哀想な私」というレッテルを貼られたままだったら哀れだから、それを大人の私が剥がしてあげる。
「自己肯定感を下げられた哀れな私」のままの方が、今までの認識を変えずに済むし、親を恨んでいればいいし、親が犯した罪の後処理をなんで私がしなきゃいけないんだとムカつくけど。
でもそんなの私が可哀想すぎる。
哀れな私のままでずっとこの後の人生を過ごすのは可哀想すぎるから、後処理でも、自己認識を変えるのが大変でも、「自分のことが大事で、幸せな私」になろうと思っている。
自己肯定感を下げる育て方をした事は許さないけど。
(この許せないという感情が湧いているのも自分を大事にできてきている証なのかも。)
最近、この10年の地道な奮闘がようやく実ってきたのか、自分のことを優先してあげられることが増えた。
最近それを感じる小さなこととしては、古い食材やピンとこない食べ物を食べないようにできていること。
今までは「勿体無いから」と少々古くても傷んでなければ食べていたけど。
萎びた古い食材を自分の体の中に取り入れることが無理になってきて、あまり褒められたことではないけどそういう食材は捨ててしまう。
「もったいないから食べなさい」という教育方針はそれを無視したらすごく悪い子みたいだとも思う。
食材を大事にすることは当たり前のことなのに、捨ててしまうなんてって。
でも、でも、こんな新鮮じゃないもの食べたくないって。
教育に反抗してる。
今まで古くても、「食べれる物を捨てるのは勿体無い」と頑張って食べてきたけど、それは自分の気持ちや体より、食べ物の勿体なさを優先していた。
自分の心や体以上に優先されることなんてないはずなのに。
「勿体無い」と長年躾けられていた心はなかなかそれを受け入れられなかったけど。
もう最近は、自分のことの方が大事。
フレッシュで食べたいと思えるものしか食べたくない。
そんな小さなことでも変化だなあと感じて感心している。
どれだけ自分の体や心を後回しにしてきたんだか。
勿体無いから食べなさいとか、贅沢はやめときなさいとか、それは母親の都合でしかない。
今の私は自分でお金を出して食材を買っているのだから、そういうのは関係ない。
もうそろそろ親の呪縛から解き放たれたい。
全部全部自分のためにならないことだらけ。
いい年なのに親の呪縛とかダサいなあ。
ほんと、当たり前を変えるのには時間がかかる。
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