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たびたびの「先生」話題

日本は、義務教育が9年。

小学校6年、中学校3年。

少なくとも9年は、先生、という存在の下に置かれる。

その義務教育で刷り込まれた「先生」への盲従。

それは「キリスト教の会」のおいても、牧師の生徒、といった無意識の思考また無自覚の感覚となって、キリストの聖徒を惑わしている。



師は唯一、イエス・キリスト。

他はみな、兄弟。

それが、聖書の提示するところ。


業界聖書では、マタイ23:8ー9にこう書かれている。

【聖書協会・共同訳】 
マタ 23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。
マタ 23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
マタ 23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

【新改訳2017】
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。
あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

【新改訳改訂第3版】
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。

【新共同訳】
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

【口語訳】
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
23:9 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
23:10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。


「キリスト教の会」においては、聖書は神の言葉として、業界聖書を使って説教しつつ、その記述を否定しているのが現状。

そして、それを正当化している。

たとえば、ハーベスト中川さん。

聖書の記述は「先生と呼ばれてはいけない」。

表題の「先生と呼ぶことはいけないのですか。」の時点で、すり替えている。

呼ぶことがよろしくないのは、尊称としての「父」。

「先生」や「師」は、呼ばれることはよろしくないよ、というのが、イェシュアの言葉。

呼ばれる側の中川さんが、「呼ぶこと」を肯定している動画を上げる動機が探られます。

この動画を一言でまとめると「先生と呼んで欲しい」でしょう。

いわく、原語は「ラビ」であり、日本語の「先生」とは意味が異なる、という事をご主張されている。

確かに、その理解は妥当と思うところ。

ただ2:50~「私たちにはバランス感覚が必要」と仰っているのであれば、「牧師」に関しても、同様。

エペソ4:11新改訳の「牧師」は言語では「ポイメン」なので、共同訳系の「牧者」が適切。

ですので
「聖書は教会内に、教師、牧師がいることを認めています」
とは言えません。

「牧者」は働きとして認められていますが、聖書に「牧師」はありません。

「あなたがたはみな兄弟だからです」
「あなたがたの師はただ一人、キリストだけです」

という言葉があるのだから、特別な呼称は不要。

「○○兄弟」もしくは「○○さん」でよろしいでしょう。



「キリスト教の会」の信徒さんは、こうした動画で、サクッと納得させられてしまうのでしょうね。

ま、呼ぶことは戒められていないので、お好きにどうぞ。



この「先生」呼称について考察するために、興味深い記事をご紹介。

いくつか抜粋してご紹介したい。


先生とは教育する者、訓練者であるが、同時に採点者、評価者の意味である。日本のプロテスタント教会においては、牧師自身の意識も信者側のそれも「先生」になってしまっている。


ところが、日本のプロテスタント・キリスト教会では、一人の牧師が、小学校での受け持ちの教師のように信徒の採点者となっている。これはひとえに「先生」という呼称が、そういう理解を信徒の側にも牧師の側にも生み出しているのである。その牧師にヘンなやつだと思われれば、教会でのその人の立場はなくなる。それが、単に牧師の常識とその人の常識のずれにすぎないとしても、大きなことになる。教会は「先生」の常識が支配しているからである。


これはもう、かなり異常な状況である。それが一般のプロテスタント教会の状況なのである。こうしてクリスチャンは、教会ではほとんど小学校児童のような扱いを受けている。成人してから、このような「全人格的に及ぶコーチ」を受けるシステムというのはあまり普通でない。これはもうほとんど人格に対する侮辱である。日本の社会で、そのような扱いを受けている人は、力士や、落語家の弟子の他にはいないのではないか。こういう小学生のような扱いを忍べる人というのは、よっぽど特殊な人だと言わねばならない。独立心のない、自我の確立してない人かもしれない。
だから「例外的な人」でないと、教会に通い続けられないのではないか。
これは、決して健康な状態ではない。


「先生」という呼称によって、牧師は自分が全人格的な事柄のコーチであるという思い込みを負わされている。それで自分の価値観で相手を支配しようとしたり、自分の好みのタイプに相手を仕立てようとする誘惑がある。それが、自分の職務であると思ってしまう。


主イエスは、教師と呼ばれるな、教師は一人だけ、それは私のことである、と言われた。これに反して、日本の牧師はみな教師になっている。
平気で、聖書の教えを破っているのである。もちろん使徒の働きには「教えた・・・」とたくさん書いてある。教えるのは大切な仕事である。
だが、主は教師となるな、と言われた。それは師弟関係という人間関係になるな、「採点者になるな」と言われたのでないか。そうしてまた、牧師と信徒は友人であれ、と命じられたのではないか。


どう見ても、このような日本の教会における「先生」と「信徒」の関係は、かなり独自である。日本の他の宗教にはないばかりか、外国のキリスト教会にもない。つまり日本の教会は外国では見られず、また日本の社会でも、他には見られないようなことをやっている。福音は、キリストの教会での牧師と信徒の関係はこのようであれ、と教えていないはずである。


この方は、「先生」呼称にある「呪縛」を理解されておられる。

後藤さんの関連記事を読ませていただきます。



「先生」呼称は、「キリスト教の会」の大きな問題点。

そこに気が着かないと「キリスト教の会」は、病んでいることに気がつかない。

病識をもつことが、大切です。

病識

自分自身の異常体験や行動が病気あるいは病気であったことを判断し、自覚していることです。統合失調症、アルコール依存症などのメンタルヘルス不調の場合は病識がないことも多く、そのために治療がうまく進まないこともあります。


病んでいる「キリスト教の会」から、健やかな「キリストの教会」へ。

変えるのは、ひとりひとりの意識です。



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