見出し画像

なにがしたいんだろうね

2022年11月27日の記録を見返しつつ、今の心情で加筆。


なにがしたいんだろうね、って考える。

若い時は、神様の為に~、という取り繕いで、「キリスト教の会」活動を志したりもしたけれど。

今の動機は、なんだろう、って。


僕は、小学一年生のとき、イエス・キリストを、救い主、そう認めた。

なんで、認められたのか、わからないけれども。

三歳上の姉から、あんたも信じるんだよ、と命令があったことは覚えてる。

小学1年生にとって、三つ上の姉は権力であり、服従の対象です(泣)


もともと家系的に、霊感強い系だったみたいで。

祖父が山歩きしていたら

「どこそこ神社に連れて行ってくれ」

とカミサマが入って来て、そこまで行ったら出て行ったとか。

そんな話は、小さなころから聞かされていた。

だから、見えない世界があることが当たり前。

幼稚園に入る前に、死後の世界に惹かれていたのも、覚えている。

死んでみたかった、という感じ。

死んだらお母さん悲しむだろうなあ、ぼんやりと、そう思っていた。


そんな子だったので、「キリスト教の会」の、いわゆる日曜学校。

イエス・キリストは、神様、救い主。

そんなことを教えられると、疑いもなく受け入れていた。

理解するのではなく、感応する、という感じだったのではないだろうか。


なので、僕はいわゆる「伝道」ってのを、されたことがない。

社会人になってから、キリストに出会って、人生観が変わる、という体験がない。

だから、イエス・キリストを伝えよう、福音を世に伝えよう、といったような情熱は、強くない。


子供のときに、イエス・キリストに出会う。

これは素晴らしいこと。

若い日に、創造主を覚えるのは、良い。


でもね、「キリスト教の会」にある価値観で育つと、イロイロ難しい。

僕は宗教二世ではないけれど、似たようなもので。


小学5年生かな、6年生かな。

日曜学校での時間。

目を閉じて、天国行けると信じてる人、手をあげて、みたいなとき。

僕は、手を上げられなかった。

自分の内に、悪があるのを知っていたから。

おそらく当時の僕は、イエス様信じて正しく生きるのがクリスチャン、と思っていたんだろう。

手を上げられなかった。

正しくなんて、生きていないから。

日曜学校のあと、伝道師さん?かなんかに呼ばれてね。

どうして、君が手をあげないの?イエス様、信じてるよね?

みたいな問いかけ。

僕は泣きながら、自分の内にある悪について、伝えた。

その方は、Ⅰヨハネ2:1から、弁護者キリストを教えてくださった。

ただ、それは何の解決にもならなかった。


10代は、心を病んでいて。世においても黒歴史。


20代は、キリスト教の、聖霊派の中で、リバイバル音頭、リニューアル現象、イロイロとワチャワチャやってました。

某聖書学校にも通って卒業したし。

某個人預言セミナーの終了証もいただきました。

自分の中に悪霊が入っていたのも、後に気がつくわけで。

病んでいたんだな。

これもまた、黒歴史。


30代に入ってから、十字架の二面性を、代償の死を、共なる死を、知った。

理解した。

そのときね。さっきの話を、明確に思い出した。


もし、あのとき。

弁護者キリストでなく、十字架の二面性、それを教えてもらっていたら。

僕の人生は、全く違っていただろう。


もちろん、当時の僕が、理解できたとは、思わない。

でも。

罪の単数形と複数形の違いと、その対処が伝えられていたら。

違っていただろう。

強烈に、明確に、そう思った。



おそらく、これが今の動機。

イエス・キリストの十字架。

その死、その復活。

身代わりの死、それによる「sins:罪々」の処置。

共なる死、それによる「Sin:罪」の処置。

神が備えられた「救い」の構造的理解である「霊・魂・体の救い」。

そして、アダム属に終わり、キリスト属に生かされる、新創造。

これを、伝えたい。


箱物宗教に、「キリスト教の会」に、幽閉されているキリスト者に、これらを伝えたい。

「ゆるされた罪人」意識に束縛された、クリスチャンに。

そして。

「キリスト教の会」とは関わらずに、キリストに出会った方々に。

陰謀論、スピリチュアル、世の欺瞞、そういった糸口から、聖書を見出し、キリストに出会った方々に。

これらを伝えていきたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?