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古代皇室と近親婚

初めに

こんにちは。田渕 創ノ介です。Note投稿 第2作目は「古代皇室と近親婚」についてです。

尚、本文では文字数の関係上、常体(~だ、~である、など)を用いている事をご了承ください。



プレリュード 近親婚とは

近親婚(英:Consanguine Marriage)とは、親族関係の緊密な者の間の婚姻を指す。いかなる民族にも近親婚禁忌の規定があるが、特に今日の日本では、近親者間の性交自体は法律上禁止されてはいないが、民法第734条により、近親者間の結婚に係る婚姻届は受理されず、誤って受理されても後に取り消しされる。(『広辞苑』より引用)

現代で近親婚が禁止される理由には「優生学」上の理由があり、血縁が近い関係で子供を儲けると、劣性遺伝子による遺伝子疾患が表面化しやすいためである。

世界の王家と近親婚

実は、近親婚がタブーという認識は古代から日本にも世界にも存在していた。日本では『古語拾遺』『日本書紀』に「国津罪」として近親婚が罪であることが明記されている。しかし、それらを差し引いても王家にとって近親婚はメリットが多かった。具体的なメリットとして、①身分や宗教、国籍の不一致による紛争の防止、②王族同士の結婚による領地拡大、③血統の純潔性の保持など、王家にとって非常に都合が良かった。

近親婚を行った世界の王家で代表的なのは、スペイン=ハプスブルク家、ローマ帝国のユリウス=クラウディウス朝、古代エジプトの第18王朝やプトレマイオス朝などが挙げられる。

古代皇室の家系図(安閑朝~天武朝)
筆者が独自にMicrosoft Power Pointで作成したもの

皇室と近親婚(欽明朝~推古朝)

皇室の歴史はとても古い。初期の天皇は実在していたかは諸説あるが、第26代:継体天皇の頃には実在はほぼ確実となり、少なくとも皇室は約1500年以上も続いている事となる。今回は、欽明朝から持統朝までに見られた近親婚を、歴史的事象と絡めながら論じていく。

まず、第29代:欽明天皇の御世に早速、近親婚が行われる。彼の異母兄弟である第27代:宣化天皇の娘、石姫皇女が欽明天皇の皇后となった。「叔父と姪」による結婚である。これは皇后が皇室の中から選ばれるのが通例で、必然的に血縁者と結婚することになっていたのが理由である。また、一般人と結婚すると、妻の親戚が政治に介入するのを警戒していたのも理由の1つである。しかし、この頃になると、豪族である「蘇我氏」が勢力を伸長し、一族の長である蘇我稲目は、自分の娘たちを欽明天皇の后として嫁がせ、皇室への影響力を高めていった。これにより欽明天皇には20人以上の子供がいたといわれている。

次代の天皇は第30代:敏達天皇であり、敏達天皇は異母兄妹である額田部皇女を皇后に迎えた。兄妹による近親婚である。2人は母親が違えども、父親は同じなのでこれも近親婚にあたる。この頃になると、蘇我氏の権力がますます伸長し、極めつきが額田部皇女の即位であり、彼女は史上初の女帝、第33代:推古天皇として593年に即位した。

推古天皇の御世には皇親政治のサポートを担う役職、「摂政」を担当した人物が存在しており、その人物こそが、かの有名な「聖徳太子」である。推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子(当時の蘇我氏一族の筆頭)による3頭政治が約10年間続いた。その間に「冠位12階」「憲法17条」の制定、遣隋使の派遣などの多くの歴史的事象が残されていった。

聖徳太子
聖徳太子?
聖徳太子??

皇室と近親婚(舒明朝~持統朝)

時代は約50年飛んで、第38代:天智天皇の御世に移る。即位前は中大兄皇子(葛城皇子)として、中臣鎌足と共に、蘇我氏の排斥や「大化の改新」と称した国政改革、663年の唐・新羅連合軍と戦った「白村江の戦い」など、様々な業績・偉業を残した。そんな天智天皇だが、彼も近親婚をしている。相手は異母兄弟の古人大兄皇子の娘、倭姫王であり、これも「叔父と姪」の結婚にあたる。2人の間には子供はいなかったが、やがて天智天皇には女官との間に息子をもうける。この息子が大友皇子である。

672年、天智天皇は崩御した直後に「壬申の乱」が勃発する。この乱はいわば後継者争いであり、天智天皇の息子、大友皇子VS天智天皇の弟、大海人皇子という「叔父と甥が戦う」という血みどろの構図であった。結果は大海人皇子の勝利となり、第40代:天武天皇へと即位する。彼も兄の天智天皇と同様に、多数の国政改革と近親婚をしている。天武天皇には過去に女流歌人で想い人であった額田王を兄の天智天皇にNTRれてしまい、その罪滅ぼしに天智天皇の娘達が天武天皇に嫁いだというとんでもない逸話が存在する。

その娘達の1人が天武天皇の皇后、鵜野皇女である。ここでも「叔父と姪」による近親婚が行われた。さらに、鵜野皇女の妹にあたる大田皇女とも天武天皇は結婚しているので、天智天皇の娘たちは姉妹で同じ夫且つ、実の叔父に嫁いだ。現在の価値観に当てはめると、これもとんでもない事である。

その後、天武天皇は686年に崩御し、彼の政策は皇后の鵜野皇女に引き継がれた。彼女は第41代:持統天皇へと即位し、夫と父の遺志を継ぎながら、日本の未来を形作っていった。

古代皇室の家系図 #2(天智朝~持統朝)
筆者が独自にMicrosoft Power Pointで作成したもの

フィナーレ まとめ&考察

本文には登場しなかった第34代:舒明天皇と第35・37代:皇極天皇/斉明天皇も「叔父と姪」による近親婚を行っていた。今回は古代皇室の近親婚について取り上げたが、欽明朝から持統朝までに見られた4回の近親婚の内、3回は「叔父と姪」によるものであった。

なぜ「叔父と姪」による近親婚が多かったのかについては、上記の皇族内という条件且つ、後継者を残すためには、若い女性のほうが出産時のリスクも低くなるので、男性の天皇にとって、自分から見て若い年齢にあたる自身の姪にしか選択肢が無かったのではないかと考える。しかし、後に持統天皇の息子である草壁皇子が若くして原因不明の夭折をしたのを鑑みると、近親婚による血が濃くなった影響が全く無かったとは言えないのではないだろうか。

2023年10月3日

参考・引用文献(YouTube動画・研究論文・ネット記事も含む)

  • 荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』(2013年:吉川弘文館)

  • 梁継国・姜鶯燕『古代日中両国の皇位継承に見られる親族関係』(2003年:茨城大学人文学部紀要No.13)

  • 山川出版『詳説日本史B』(2020年:山川出版)

  • 八木秀次『民法は家族道徳を背景としている』(2019年:公共財団法人 モラロジー道徳教育財団)
    https://www.moralogy.jp/salon191105-1/

  • よつばch『皇室:天皇、結婚と争いの実像【ゆっくり解説】古代編 #1 ~ #4』(2021年:YouTube)
    https://www.youtube.com/watch?v=lKLg0ktbFss

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