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自分が「善意」と思ってることを、相手も「善意」と思うのか

「あなたのためを思って」
 かつて、そんな言葉が溢れかえっている環境の中にいた。

 もしも、ありがた迷惑としか思えないものを押し付けられて、「嫌だ」とか「要らない」とか言ってしまったら。
 周りから「せっかくあの人がわざわざやってくれたことを(or言ってくれたことを)無下にするのか!」と責められた。
 そして、押し付けられたものをしぶしぶ受け取るしかなかった。

 でも、自分もいつの間にか、同じことをするようになっていた。
 「良かれ」と思って、人にいきなりプレゼントをあげる。
 「心配だから」と言って、一方的にアドバイスをする。

 正直なところ、「善意」さえあればいいんだと思っていた。
 傍から見たら「自分勝手」「迷惑な人」と思われても仕方ない。

 自分が「いい」と思ったことを、相手も同じように「いい」と思うかどうかなんて、分からないのにね。

 なんてことを、幡野広志さんの『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』という本を読んで考えた。

 正直なところ、写真を撮ることにあまり興味がない。
 でも、幡野さんは以前から好きで、著書も持っている。
 幡野さんの本なら欲しいと思って買った。
 読んでみたら、写真をやっていなくても役立つであろうことが、たくさん書いてあった。
 その中で、グサッと刺さっているのは、第4章の「光と距離」の中で書かれた以下の言葉。

 撮影者の気持ちと被写体の気持ちって違うんですよね。

p.110

 ここだけ切り取れば、「至極当たり前でしょ」と思われるだけだろうけど。

 この章では、「写真を撮ること」に気を取られすぎて、被写体への敬意を見失ってしまったと思しき方々の例がいくつか挙げられている。
 傍から見たら「うわーイタいなぁ」「みっともないなぁ」と思ってしまうけど、もし夢中になってしまったら、そっちの立場にもなりかねない。
 これまでの自分を顧み、恥ずかしくなった。

 この本の中では、以下のことも書かれている。

 自分だったら顔のドアップを撮られたいですか? 恥ずかしい写真を撮られたいですか? 嫌でしょう? だったら相手にもしない。相手の表情や感情を読み取りましょう。
 だけどドアップの写真も恥ずかしい写真も、撮影者によっては撮られてもいいのよ。だから写真は関係性なの。自分がその関係性を構築できてる自信がありますか? よく考えましょう。写真は考える仕事です。

p.118

 「関係性」という言葉に、またしても読んでて耳が(目が?)痛くなった。
 大して関係性を構築しきれていない相手に対しても、なりふり構わず「善意」と銘打って何かを押し付けてしまったこと、いろいろあったと思う。
 そして、こっちがそんなに親しいと思ってない相手からも、「善意」という名目で何かを力技で渡され、しぶしぶ受け取ってしまったことも多々あったと思う。

 「善意」があれば何をしてもいいってわけじゃないよ。
 多大に自戒を込めて言ってるんだけど。

 誰かや何かに対して「いいこと」をしようと思ったときは、いったん立ち止まり、深呼吸して自分を客観視してみたほうがいいかもしれない。

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