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【君の視点を疑うキッカケの物語】  売る人・買う人・作る人・楽しむ人③

三人目 三十五歳 男性 公務員

 甘酸辛苦渋。

 人間の味覚が発達する順番だと言われている。自分はどこまで味わえているのだろうか。食事も酒も、仕事への向き合い方から人付き合いまで、甘くて渋い世界を十分に味わえているだろうか。
 時々想像してみては、その途方もなさに無力感を味わう。同じことをもう何度繰り返しただろうか。自分の知らない世界はいくらでもあって、全てを知ることは叶わないのだと。知ることができるのは世界の一面であり、藪の中に隠れている他の面は理解できない。想像することはできるが、真実かどうかは分からない。人間には「真実かもしれない」と思いを巡らせるところまでが許されている。この事実は何度も繰り返し心の中に浮かぶのだが、同じ回数分忘れてしまう。
 
 酒の飲み過ぎで忘れるわけではない、むしろ飲むたびに心に深く刻まれているはずなのだが……。

 ***

 大学生の飲み会で注文される日本酒は大か小、熱燗か常温か、2×2の4パターンから選ばれる。お猪口はとりあえず人数分。正体不明の『日本酒』という名前の飲み物だった。

 三宅正弘は在学中に公務員試験に合格していた。大学を平凡な成績で卒業して、そのまま生まれ育った横浜市の市役所に就職した。社会人になって一年くらいは同期とも頻繁に飲みにいった。大学生をそのまま引きずったようなその飲み会でも、日本酒は罰ゲームの道具であり、酔っぱらうための飲み物でしかなかった。

 価値観を変える転機になったのは実家で父親と飲んだ日本酒の〈八海山〉だった。人生で初めて飲んだ銘柄酒だ。正確には以前にもどこかで飲んだ経験があったのかもしれないが、『日本酒』という名前の飲み物ではなく、〈八海山〉という飲み物だと認識しつつ口にしたのは初めてだったのだ。

 美味そうに飲む父親に勧められた時は「親父くらい歳をとると味覚が変わるからな」と、大学時代の飲み会を思い出しながら、半信半疑で口に含んでみた。舌がフルーツを乗せた時と同じ反応をした。そんな気がした。笑ってしまった。想像と現実に差がありすぎた。
 
***

〈八海山〉という日本酒の名前だけを憶えていた三宅は、下宿に戻ると近くのスーパーマーケットでその商品名を見つけて購入してみた。
日本酒だから和食っぽいものをと思って選んだ半額の刺身で独り乾杯する。
 
 んー、まぁ、こんな味だったかな。
 
 なんだか、最初に口に含んだ時のフルーツ感がなく、少しもったりした味が口に広がる。それでも生魚には合っているような気がするかな、と思う。居酒屋で散々飲んできた〈日本酒 大〉とは違う。しかし、あの日、実家で味わった香りや舌触りではない。少しがっかりした気持ちでラベルを眺める。そういえば、父親と飲んだ時の瓶とは、見た目が少し違うような気がする。

「おまえ、それはスーパーの酒だからだ。ちょっと今風じゃないかもしれないな」
電話口に聞こえる父の声は、息子が日本酒に興味を示し始めたことを喜んでいるようだった。
 続く話によると、実家で飲んだあの酒はデパートの酒売り場で買ったものらしい。昔に比べて圧倒的に飲みやすい酒が増えたとも言っていた。

「スーパーの酒も悪くないけどな、まぁまだだな。この前飲んだみたいなやつはデパートに行って、二千円くらいのを選んどけばいいよ。純米吟醸とか純米大吟醸って書いてあるやつだな。千円くらいで純米大吟醸とかって書いてあるのはやめとけ」

 それ以上は何を聞いても「とりあえず飲んでみろ」としか言わないので諦めた。

 翌日、定時で職場を出るとその足で横浜駅の西口にある高島屋に向かった。様々なラベルの日本酒が並んでいる。漢字で力強く書かれているラベルは、いかにも“日本の酒”という見た目だ。一方、ワインのような見た目で洒落たデザインもある。三百ミリリットルくらいで売っているコーナーが目についた。小瓶で売られているものもあるようだ。
 まだスーパーで買った〈八海山〉が冷蔵庫にある。一人で飲むことになるし、この前のように期待と違った時に残ってしまうサイズだとやり場に困る。小瓶で買えるのはありがたい。しかし、小瓶だと父親の値段のアドバイスが役にたたなくなってしまう。
 しかたない。まずは言われた通りにしよう。
 玉乃光、〆張鶴、羽根屋。うーむ、もう名前で選んでしまおうか。そう思って眺めていると、ゴールドと高貴な紫色で彩られた〈七賢〉の二文字に目が留まった。八海山から七賢。八から七へカウントダウン。ちょうど純米大吟醸と書かれているし、値段も二千円を少し切るくらいだ。山梨の酒らしい。山梨は大学生の時にキャンプで行ったこともあり、自然豊かな土地という印象が強かった。
 日本と名のつく飲み物だ。自然が豊かな日本の土地ならきっと美味しい日本酒が作られているに違いない、と自分の背中を押す。
 およそ日本国内ならどの県でも当てはまりそうな理由で強引に押された背中がリュックを背負う。丁寧に保冷剤を差し込んだ緩衝材で巻かれた七百二十ミリリットルの瓶がやさしく腰骨に当たる。

 ***

 スーパーでわけも分からず日本酒を選んだ日から十年以上が経つ。三十五歳になった。三十路と四十路の中間を歩く三宅の今日の晩酌は岩手県の赤武酒造株式会社が醸す〈AKABU 純米吟醸〉だ。肴には手作りのつくねを合わせている。爽やかな味わいの酒だが、手作りの自家製つくねのような肉感がある食事にも対応してくれる。三宅が贔屓にしている一本だ。合わせるメニューは五つ年下の妻である佳穂と二人で決めた組み合わせだ。

 なんでもない帰省で飲んだ日から少しずつ沼にハマり続けて今ではすっかり日本酒の世界にどっぷりつかっている。生涯の伴侶である佳穂とも日本酒のイベント会場で知り合った。

 青空の元で二十を超える酒蔵がテントを張り、その下で季節に合わせたラインナップを披露するイベント。その会場で、すごい飲みっぷりを見せていた佳穂は会場に居合わせた初対面の人達と大いに盛り上がっていた。
三宅はその飲みっぷりを遠巻きに見ていた一人だ。

 イベントは春と夏と秋の年三回開催される。三宅は毎回参加し、それを二年間続けていた。驚いたのは毎回その会場に佳穂もいたことだ。小柄な体格にどちらかといえば童顔な女性だった。二十代前半と言われても納得する佳穂は、その見た目で毎回クジラのように飲む。もちろん目立っていた。一方、自分はコソコソと空いているテントを中心に、気の向くまま数軒の酒蔵を回っていたので、佳穂の方から声をかけられた時には、人違いかと思った。

「あなた、いつもいますよね。飲みましょうよ」

かなり直球の誘いだった。いや、その時は深い意味もなく、たまたま鉢合わせた時に声をかけられただけだったと思う。
 すでに赤ら顔だった佳穂に腕を引っ張られて飲んべえの輪に連れ込まれた。祭りみたいだった。日本酒という酒の性質だろうか。輪になって飲んでいると何かを祝っているような、何かを祀り上げているような気分になった。
 佳穂を含めた数人と次のイベントでの再会を約束し、季節が変わる度にお祭り騒ぎを楽しんだ。そのうちに二人で飲みにいくようになり、彼女となり、妻となったわけだ。妻になるまでに至る経緯にはそれなりの冒険やいさかいもあったのだが、全ては日本酒の力が災いし、鎮めてもくれたのもまた日本酒の力だった。 

 ***
 
 もう一人、日本酒を通して知り合った人物がいる。
 横浜市役所の同僚だった熊澤裕貴という男だ。

 その年は部署の忘年会の後、二次会でカラオケに行くことになった。二次会も居酒屋であれば行こうかなと思っていたのだが、カラオケにはどうも行く気になれず、こっそり集団から抜け出した。そして横浜駅の西口と北口の間、鶴屋町の辺りにある、小さな角打ちをやっている酒屋で一人飲み直すことにした。秘密基地のようなところにあるその店は三宅にとってのサードプレイスと呼べる場所で、誰かを誘っていくことはない。

 そこに熊が現れた。

 アイヌ模様のラベルが特徴である〈十勝〉純米吟醸に三宅が口をつけていると、熊澤の大きな身体が扉から滑り込んできた。苗字が身体に影響を与えることもあるのか、本当にヒグマのように大きい身体だった。顔はアニメーションのクマのような可愛げはなく、リアルな熊のごとく迫力がある。

 しかし、なんとも人の懐に入るのがうまい熊だった。店内に入るなり、ぐるっとその場を見回すと、旧知の友人のように手を挙げて近づいてくる。そのまま隣に腰をおろす。

「美味いよな、日本酒」
と言うと、本当に美味そうに咽喉を鳴らす。

 日本酒で喉を鳴らすように飲む人間はほとんどいないと思う。ゴクゴク飲むビールとは根本から酒の位置付が違う。咽喉を潤すように十五度のアルコールを飲む熊澤は本物のヒグマかと思わせる。鮭ではなく酒を好む熊だ。
 熊澤は見た目とは裏腹にフルーティで丁寧に作られつつも、後味に複雑さを残すような酒を好んだ。好みがばっちり三宅とあっており、なによりこの秘密基地を知っていながら、一人でしか来ないというところに好感を持てた。仲間意識といった方が近いかもしれない。

 その後も何度か店で顔を合わせると、横並びでその季節の味を楽しんだ。
 友人と言われると少し違う。なにせ熊澤との付き合いはこの角打の店だけなのだ。しかも大して会話をしない。その関係性を友人と呼んでいいのか、初めてのことで分からなかった。
 
 ***

 熊澤が市役所を辞めて、北海道の東の方にある、彼の生まれ育った村へ帰ったということは、しばらく経ってから人づてに聞いた。故郷で暮らす両親の都合らしい。それ以上は聞いていない。

 普段の生活では関わることがなく、自分にとってのサードプレイスと呼べる場所でのみ顔を合わせる存在は、三宅にとって居心地のよいものだった。
 私生活でも仕事でも落ち込むことが続く時期は誰にもある。無責任な自己啓発本を地面に強くたたきつけたくなる時期だ。そんな時期にも心を軽くしてくれる時間と空間を作れる場所と友人を見つけられたことは、人生を少し生きやすくする。実はそこそこ大事なことだと思う。

 日本酒を通して、人生における重要な人物と出会い、大切な時間を過ごすことができた。三十代半ばになり、そのような思考を繰り返していくと、日本酒という存在を神聖視していく自分がいるように感じる。もちろん、日本酒を崇めて祈りを捧げるようなことはしない。そんな宗教は存在しない。ただ、他の食べ物や飲み物よりも少し贔屓してしまうのだ。そして、希少な酒が発売されれば「飲んでおかないと」と義務感のような感情が湧き上がってくることも自覚している。
 それくらいのめり込んでいくと、自然と”どのように作られているのか”にも興味が沸いてくる。旅行先で各地の酒蔵見学を観光の一つに加え、佳穂と二人で蔵人の言葉をメモにとっていくのが二人の暗黙の了解となっていた。製造工程を知った後で飲むその土地の酒は味わい深いものだった。
 物事の成り立ちを知って嬉しい気持ちになるのは年寄りへの第一歩だろうか。

 自分にとって大切なモノ、特別なモノは多くの場合で人生を豊かにするが、時にはその存在ゆえ心をかき乱すこともある。
 特別なモノとなった日本酒が転売されているのを見ると三宅は無性に苛立ってしまう。飲んで楽しむものが金儲けに使われていることが何となくだが許せないのだろう。自分は日本酒の世界を理解しているつもりの人間であり、日本酒を理解していない側の人間が介入してくるのがなんとなく許せないという気持ちもあるのだと思う。それくらい客観的に自分の感情を理解した上でも、苛立つ感情を抑え難い時がある。何かに当たるわけではなく、ただ静かに苛立ち、いつもより飲む量が増えるだけなのだが。

 生産数が少ない希少な日本酒を正規のルートで購入するには大きく三つの方法がある。

 一つ目は酒蔵から特別に卸されている酒屋の常連になること。酒屋によってはポイントカードを導入していて、そのポイント数によって常連とそうでないお客を区別している店もある。

 二つ目はお金で解決できる方法だ。他のお酒とセットで○○円以上なら購入する権利が与えられるパターンである。これは通販ではよく目にする。
最後の三つ目は、抽選という方法だ。一部の酒では購入券が抽選で付与される。〈而(じ)今(こん)〉や〈十四代(じゅうよんだい)〉などの期間限定酒は抽選で当たらないと一般人が購入することはほぼ不可能といえる。その酒が抽選日の数日後には定価の数倍の金額で販売されているのを見ると、悔しさがにじむ。自分は単純に飲んでみたいのだ。作り手もきっと美味しく飲んでほしい。飲んで「旨い!」といって笑顔になってほしい、そう思っているはずなのだ。なのに、飲むことを楽しまない人々の手に渡り、杜撰な管理の元で保管された繊細な酒は本来の味を失い、ラベルだけが価値を持つ虚像となっていく。それを悔しいと思う。

 SNSでは転売行為に対するムーブも起きている。

#日本酒転売をやめよう
#日本酒転売を止めよう

というタグ付けをして投稿することが一部で行われている。もちろん、片手間で加えている程度の訴えが転売を止めることはないだろう。なんなら少しの影響も無いかもしれない。それでも、この発信者達はどこかで自分の立ち位置を示すことにより、少しでも行動できている自分に気持ち良く酔えるのだろうと想像する。

 ***

 佳穂の誕生日に向けて三宅にはどうしても購入したい酒があった。パイナップルジュースくらいジューシーという口コミで有名な〈花浴陽(はなあび)〉という酒だ。埼玉の秩父地方で丁寧に酒造りに取り組む蔵のブランド酒である。店頭販売も特約店への卸し分もあっという間に完売してしまう。
「優花と一緒に飲んだ時に、優花がビックリしすぎて、店員さんに『これ、なんか前のジュースの味がのこっちゃってるんですけど』って言ってて超ウケた」
と、話をしていた。

 佳穂が以前にどこかの居酒屋で飲んですごく美味しかったこのエピソードは何度も聞いた。その度にもう一度飲みたいと繰り返していた。

 その酒を仕入れたくて、新酒が出回る時期に特約店のオンラインサイトを毎日何度も見ていた。それでもなかなか入荷されないので、試しにフリマアプリも覗いてみた。フリマアプリでは想像通りというか、かなりの割高な価格で並んでいる。当然、品質も信用ならない。それでも手に入るのであれば・・・・・・、と購入しそうになる衝動を押さえ込んだ。

 転売屋から購入してはダメだ。
 転売を認めることになる。それは転売を助長することになり、品質の悪い酒が出回ることの肯定につながる。それじゃあ美味い酒を作るために努力している酒蔵が報われないじゃないか。定価で売られる酒を買い占めて値段をつり上げるようなやり方のせいで、味を楽しみたい人の手に渡らないのも許せない。

 希少な酒の味を想像しつつ、葛藤の末に購入ボタンを押しはしなかった。それが正しい行いだと思った。

 ***

「もう一年くらい経つのかな。おれは熊澤が退職した日がいつなのか正確には知らないけど、それくらいじゃないか?」
熊澤の退職日から数えると、正確には十ヶ月前だった。日付を聞いてから記憶をたどると、退職の直前にもこの角打の店に二人横並びで座っていた。つまり、二人の再開も十ヶ月ぶりということになる。

 北海道の故郷に戻っていた熊澤が出張で横浜に行くという連絡をしてきたのは八月の終わり頃。横浜にいた時は連絡を取り合ったことなんて無かったのだが、男同士の友情というのは案外そんなものだ。

 ごく短い近況報告を交わすと、酒の話題に移っていく。
 「都会は酒の数が違う」とやけに繰り返すので聞くと、北海道の東側では大きなデパートもなく、品揃えが豊富といえる酒屋で買い物するには道央まで遠出するしかない。居酒屋で飲むにしても選択肢が限られる。とりあえず味の安定している瓶ビールを飲むことが増えたと話していた。幸いなのは酒の肴になる食事はどこで食べても美味い。ただの刺身の盛り合わせが特別な日に食べる食事くらいのクオリティだと続けた。
「なるほど。酒を飲み比べて、味の違いを楽しめるのは都会に住む恩恵なんだな」
熊澤の言う北海道の食材で目の前の日本酒を楽しみたいと想像しつつ答える。
「それにしたって、熊澤くらい趣味が日本酒飲み比べになっているようなやつが、耐えるしかないというのも大変じゃないか」
熊澤のことが気の毒に思えて口にする。すると意外な言葉が返ってきた。

「いや、それがな、フリマアプリってあるだろ。あれがなかなか便利でさ。最初は公式のオンラインショッピングのサイトを覗いて時々購入をしていたんだけどな、手に入らない酒もあるじゃないか。ダメ元でフリマアプリを使ってみたんだよ」

酒が好きだというつながりで友人になった男がフリマアプリで酒を買ったという話を続ける。切り子のグラスに向ける表情がこわばっていくような気がした。

「まぁ管理がしっかりされていない酒もあっってさ、がっくり・・・・・・なんてこともままあるんだけどさ」
と、笑いながら熊澤が話すのを思わず遮ってしまう。
「転売された酒なんて買うなよ。なんで」
つい険のある言い方になってしまったことを自覚するが止まらない。
「転売するやつらは丁寧に作っている酒蔵の人達だったり杜氏の人の気持ちを踏みにじってるよ。酒が全然別物の味になったって構わないと思ってんだよ。そんなところから買うのだって、お前も加担してるようなもんだぞ」
一息に非難するためだけの言葉を並べる。

 口に出してみると、自分が普段思っているよりもさらに強く心が動くのを感じた。

 熊澤は三宅から敵意を向けられたことに驚いたようだった。しかし、一口酒に口をつけると表情を元に戻し、逆に三宅に問いかけてきた。
「まぁな。そう考えることもあるよな。三宅はやっぱりフリマアプリで酒を買ったことは無いか?」
「当たり前だろ。あんな金を稼ぐためだけに希少な酒を買い占めて、日本酒の世界全体の足を引っ張るようなやつらから購入してたまるかよ」
熊澤はもう一口、少し濁りのある液体で唇を潤す。
「なるほど。酒蔵の人達も同じ考え方なのかな?」
熊澤は三宅の気持ちを煽りたいのだろうか。当たり前じゃないか。酒作りをしている人達に限ったことじゃない。モノヅクリに励む人達はよいモノを作って、それを愛してくれる人のところへ届けたいに決まっている。事実、多くの有名銘柄の酒蔵では卸先の酒屋や居酒屋を厳選していると聞く。卸した酒がきちんと保存できる環境か、担当者が酒のことを理解しているか、ここならと信頼できる店で無いと卸してもらえないとどこかの本で読んだことがある。それくらいこだわっているのだ。転売されるなんてもってのほかだろう。

 三宅が何も言わないでいると熊澤はそのまま話を続けた。
「いや、最初に購入したときの相手の人がかなりしっかりと管理してくれていてさ。味の劣化とかも全然感じなかったんだよ」

 一度区切ると、和み水を飲む。

「その酒が届いたときに一緒に、短い手紙ともいえないようなメモかな。そんなのが入っててさ。フリマアプリらしいよな。そこに、抽選で当たって購入権を手に入れた時はすごく嬉しかったって。ただ、商品が届くまでに自分の病気のことが分かったから、もう酒は飲めないって。だから必要な人に譲りたいんだって書いてあったよ」
熊澤はそこまで話すと切り子のグラスに視線を落とす。
「まぁ顔も知らないし、直接会話したわけじゃないから本当のところは分からないけどな。おれはこの手紙の人は日本酒にもそれを作る人に対してもリスペクトがある人だと思う。そして、おれはその人がつないでくれたおかげで、美味い酒が辺境の地でも味わえたことに感謝したよ。あ、もちのろんで定価とほとんど同じ金額で売ってくれたから、その人が送料分だけ損してるかな」

 けっきょく熊澤は自分の話をすると、時間だからと言って店を後にした。そのまま出張を終えて北海道の東の方へと帰った。それきり連絡はとっていない。別れ際にした挨拶も覚えていない。
 
 ***

 佳穂の誕生日が来た。三宅は〈花浴陽 美山錦純米吟醸無濾過生原酒〉の四合瓶を夕飯の席で取り出した。オンライン、実店舗どちらの特約店にも何度も目を通し、足を運んで、やっとの思いで手に入れたのだ。
 噂通りの味わいに二人で顔を見合わせて笑った。「フルーティーな味わいだね」という言葉では括れない。全く別の種類の味覚が口に広がり、改めて日本酒の世界を面白いと感じた。

 この貴重な酒を手に入れる時に少し自分の考えと向き合う瞬間があった。
 ちょうどタイミングがよかったのか、特約店の冷蔵庫に〈花浴陽〉が二本残っていたのだ。常連になっていたこともあり「二本買いたいなら買っても構わない」と店主から言ってもらえた。めったに無い機会だ。一本は佳穂のために。もう一本を熊澤のところに送ってやろうか。目の前の美味い酒を酒好きな人の所に届けたい。自然とそう思えた。

 もしかしたら、熊澤がフリマアプリで購入した出品者も同じように考えたのかもしれない。ただ、自分には具体的な相手がいて、その人はそうではなかっただけ。誰か本当に必要としている人に譲りたい、という思いがそこにあったのかもしれない。
 全ての出品者がそんな善良な心の持ち主ではないだろうが、スマホの画面上だけでは判断できない、その人なりの正義が存在する可能性がある。
 熊澤に送る酒には短い手紙を添えておいた。短い手紙の最後に、また横浜に来たときには並んで酒を飲もうと書いておいた。新酒の季節が終わる頃だった。

#創作大賞2024  #お仕事小説部門 #小説 #転売

前後の話はこちら…

一人目:
https://note.com/preview/nd120a67cb87b?prev_access_key=c32d846c58f23ec1ba10cf88417d306a

二人目:
https://note.com/preview/n1677805de6fa?prev_access_key=0762beaea919a1eb2dff5fbfee0dd96a

四人目:
https://note.com/preview/ncbd0c7bda024?prev_access_key=a6dd2cff405d206054f7d1b1a83557c1

五人目(完):
https://note.com/preview/nd2de123d58f9?prev_access_key=d04b5f906836a869da85b412e0caa792


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