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どうしても存在する「どうしようもない」

ボクシングの元世界チャンピオンが再びタイトルを獲るために動き出す。
その結果がどうなったのか。
沢木耕太郎さんの「一瞬の夏」を読んでいただければ、一つの事例を知ることができます。

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同時に別の年代、別の世界、別の競技、スポーツに限らず様々な挑戦者が存在している。
もちろん、会社の命運をかけたプレゼンに脈が早くなることを自覚しつつ、恐怖に打ち勝とうとしているあなたも含まれる。

巨大な樹木に感じる畏怖の正体が、その内側に刻まれている円の数であるならば、そのような人間も同様の感情を抱く対象であることは間違いないからだ。

今日、箱根の山道を歩いていると頭上から破裂音が聞こえた。
反射的に上に向けた視線はすぐに地上に戻された。三歩ほど進んだ先に私の二倍はありそうな長さの枝が転がっていた。成長した太い木の破片も枝という表現でいいのか。幹と表現した方がいいのだろうか。もし、直撃していたら夕方のニュースで取り上げられるくらいの事故にはなっていただろう。アナウンサーがどのように落下物を表現したのか気になる。

層を重ねた樹木も折れる。
どうしたって折れることはある。
そのとき樹木はどう感じるのだろうか。
太陽に向けて伸ばした枝(太さに関係なく枝と呼ぼう)が折れたときに何を考えるだろう。
他の木々が生い茂る森の中で太陽に届かなかったときは、自らを何者だと思うか。

多様性の時代だからという理由で納得するのもいい。
負けや失敗はないと考えるのもいい。

しかし、どうしようもないことがどうしたってある。

「考え方」や「思考法」で解決できることもあるだろうが、そんな些末なことが覆い隠している。
破裂音の後に存在する震える静けさを。

いつか、私自身がこの静けさの中にいる自分を見つめる時がくるといい。

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