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もしもジュリエットが死ななかったら、という設定で始まる最高に楽しいミュージカル

2023年9月29日、中秋の名月がたまたまスーパームーンと重なった日、シンガポールのマリーナベイサンズのシアターで上演されていたミュージカル『&Juliet』を見ました。ロンドンのウェストエンドで上演され、ニューヨークのブロードウェイでヒットし、トニー賞にノミネートされ、オーストラリアで上演されていた後に、シンガポールでも上演されたものです。

約2年ぶりに、長年住んでいたシンガポールに旅行すると決めたのは、実は、このミュージカルがシンガポールにやってくるからと言っても過言ではありませんでした。ウェストエンドや、ブロードウェイでのトレーラーやインタビュー映像がYouTubeに上がっていたのを観て、この作品は何としても観たいと思っていたのです。

このチャンスを逃したら、ロンドンかニューヨークに行かなければならない。しかも一年中やっているわけではない。シンガポールでこのミュージカルが上演されるというタイミングは逃すべからざる運命的なタイミングだったわけです。

期待に違わず、というか期待以上に、この作品は素晴らしいものでした。あまりに素晴らしかったので、私と妻は、すぐに、滞在中にもう一度観ようと決め、結局、2度観ることになりました。

最初は、3階バルコニー席の最前列で観たのですが、もっと近くで観たいという気持ちになり、一階席の右の端の前から数列目の席を取りました。後ろを見ると、ちらほらと空席があるのが残念でした。シンガポールの人たちはこんなに素晴らしいものをなぜ観ないのか、と憤りさえ感じたのでした。

ジュリエットが死なず、自分の生きるべき道を見出すというストーリー

ネタバレになるので、ストーリーを知りたくない方はこれ以降は読まれないほうがよいかと思いますが、ストーリーを知っていてもこの作品の素晴らしさが損なわれるということは決してないと思います。

この作品はウィリアム・シェイクスピアが書いた『ロミオとジュリエット』を下敷きにしています。元のストーリーでは、運命の導きによって出会ったロミオとジュリエットは、お互いの家が敵同志なのに、恋に落ちてしまいます。途中は端折りますが、最後の悲劇的結末はあまりにも有名です。眠り薬で仮死状態にあっただけなのに、ジュリエットの死を目撃したロミオは服毒して死んでしまいます。やがて目覚めるジュリエット。ロミオが死んでしまっているのを知り、短剣で自ら命を絶つという運命のすれ違いの悲劇です。

実は、このミュージカルには、原作者のシェイクスピアとその妻、アン・ハサウェイが登場するのです。これがまた面白いのですが、『ロミオとジュリエット』の作品を書き上げたばかりのシェイクスピアが、妻の前で、あらすじを解説します。アンは、最後にジュリエットが死んでしまうという箇所だけが気にいらないと主張します。そして、夫のシェイクスピアにその箇所を強引に書き換えさせるのです。

ジュリエットは、短剣で自害する直前で躊躇し、生き延びてしまいます。シェイクスピアがそのように書き換えてしまったからなんですが、その後、ロミオの葬式があって、彼が生前付き合っていた元カノらが何人も(元カレも!)葬儀に参列したりします。軽薄な遊び人だったことがバレてしまいます。ジュリエットに囁いていたような愛の台詞を他の何人にも言っていたのです。ジュリエットもびっくりです。ジュリエットの両親は、ジュリエットに尼寺に行くよう命令を下します。もちろんジュリエットは尼寺で一生を終えたくははありません。

ここで、ジュリエットの友達として登場するのが、メイというノンバイナリーの登場人物。何でも相談できる親友という設定です。そしてもう一人、シェイクスピアの妻、アン・ハサウェイ自身がエイプリルという役で、もう一人のジュリエットの友達として登場してしまいます。ジュリエット、メイ、アン(エイプリル)は、乳母(ナース)のアンジェリークと共に、尼寺に送り込まれるのを避けるため、ベローナを抜け出して、パリに行く決断をします。

パリに行く馬車(というか自転車)の運転手として登場するのがシェイクスピア自身です。このミュージカルでは、シェイクスピア夫婦が至るところに登場するのが面白いのですが、この作家夫婦のギクシャクした関係の修復というストーリーももう一つのストーリーとして進行していきます。

パリにつくと、ある館でパーティーが開催されていて、そこにジュリエットたち一行が潜り込みます。パーティーを主催していたファミリーの父親はランス。そして気弱な息子のフランソワ。父親のランスは、息子のフランソワにパーティーで結婚相手を見つけるか、さもなくばスペインとの戦場に行けと命じています。フランソワはどちらも気乗りがしません。そんな中で出会ってしまうフランソワとジュリエット、そしてフランソワとメイ、さらにはランスとアンジェリーク(何とジュリエットの乳母のアンジェリークは前職ではランスの家で乳母として働いていた)。

ジュリエットはフランソワの悩み(戦争には行きたくないということ)を解決するために、フランソワと結婚することを提案し、結婚式が行われることになってしまいます。でもジュリエットの親友のメイは、フランソワを気にいってしまっています。さらに、父親のランスは妻と死別していて、久々に会ったアンジェリークに恋心をいだいてしまいます。そんな状況で迎えるフランソワとジュリエットの結婚式。

そこに、何と、死んだはずのロミオが蘇って登場してきます。シェイクスピアの妻のアンの知らない間に、シェイクスピアが勝手に、ロミオの復活を書き足してしまうのです。実は、毒薬の効き目が弱く、眠りから覚めてしまったとの設定です。ボンジョヴィの『It's My Life』を歌いながら、満面の笑顔で上空から登場するロミオ。再び命を得たことの幸せ、そして再びジュリエットに会えた幸せを、身体いっぱいで表現して、この歌を歌います。

それを見て、ジュリエットが発する言葉が “Shit!”。絶妙な間です。こんなぐちゃぐちゃの状況の中で、何で、よりによって死んだはずのロミオまでが登場してくるんだというカオス状態。ジュリエットは気持ちの整理がつきません。

一方、結婚式を盛り上げるために男たち(フランソワ、ランス、メイ、そして変装して結婚式に潜り込んでいるシェイクスピアとロミオも)が歌うバックスリートボーイズの“Everybody"。ステージはハイテンションのコンサート状態です。しかしその後、花婿であるはずのフランソワがまさかの告白。自分が選ぶのはジュリエットではなく、メイだという爆弾発言、しかも自分の結婚式の最中に!

ジュリエットはいたたまれず、その場を逃げ出します。やがてロミオと出会い、打ち解けて話をします。その間に、これまでぎくしゃくしていたシェイクスピアとアンの関係も、このドタバタを通して修復していきます。

ジュリエットは、自分の道は自分自身で選ぶということを決意し、最後は見事なハッピーエンド!素晴らしいミュージカルでした。

90年代以降のポップスの名曲が絶妙なタイミングで登場するミュージカルはもはや音楽コンサート

ストーリーも面白いのですが、次から次へと登場する90年代ポップスが、ストーリーにぴったりで、絶妙なタイミングで登場します。バックストリートボーイズ、ブリトニー・スピアーズ、ボンジョヴィ、デミ・ロヴァート、ケイティ・ペリーなどのヒット曲が使われています。

実はこれらの曲、作曲したのは、マックス・マーティンというソングライター。この人がこんなにすごい曲を一人で作っていたのは驚きです。

上の画像の左側がマックス・マーティンです。数々の賞を受賞していて、米国でのヒットシングルの数は、ポールマッカートニーとジョンレノンに次いで多いとのこと。また、このミュージカルで登場する曲は、内容も歌詞もストーリーに見事にハマっているのです。まるでこのミュージカルのために書き下ろされた曲のような気さえしてしまいます。

こちらがこのミュージカルで登場する曲のリストです。

こちらは前半に使用された曲のタイトル、原曲の歌手名、そして劇中で歌うキャスト(オレンジ色)です。

こちらが後半の曲。歌詞が言葉がオリジナルとは違ったコンテキストで登場し、それが妙にマッチするので、めちゃくちゃうけていました。

たとえば、ブリトニー・スピアーズの“I'm not a girl"を、ジュリエットの友達のメイが歌うのですが、これも秀逸です。原曲が、少女(girl)と大人の女性 (woman) の狭間の存在を歌っているのですが、ノンバイナリーのメイが歌うと、歌詞がそのままで、女でもない、男でもない、その中間で悩む存在というメッセージになります。

たまたま私たちが観た観客も、ゲイの人やノンバイナリーの人がかなり目につきました。彼らから(彼女らから)したら、このミュージカルの内容はとても勇気づけられるものだったのではないかと思います。

命を与えられ蘇ったロミオが歌う“It's My Life"とか、ランスとアンジェリークの老齢カップルが歌う“Teenage Dream"など、どの曲も見事なタイミングで登場するので、実に面白かったです。

ステージの最初と最後にジュークボックスが象徴的に登場していますが、これらの曲がまるでジュークボックスから聞こえてきたかのような、そんなノスタルジックなイメージを持たせようとしていたんですね。

ステージの中央部が回転するという仕掛けも何度かありましたが、これも昔のレコードのターンテーブルをイメージしていたのかもしれません。

キャストの演技力、歌唱力、ダンス力が素晴らしく、キャステイングもダイバーシティを意識

シンガポール公演は、オーストラリアのキャストを中心に構成されていました。ロンドンもブロードウェイも主役のジュリエットは黒人の女性でしたが、今回のジュリエットを演じたロリンダ・メイ・メリポールさんは、オーストラリアのクィーンズランド州の原住民族のクーンカリ(Kuungkari)という人種だそうです。アジア人っぽい雰囲気なのですが、素晴らしい演技力、歌唱力、ダンス力でした。発音、発声、声量、リズム感、セリフの表現力、演技力などすべてが素晴らしかったです。

当日、会場で買ったパンフレットを見ていて、一つ感動したのは、キャストの名前の下に(he/him) とか、(she/her) とか (they/them)という表記があることでした。以前、別の記事でノンバイナリーに関する話を書いたことがあるのですが、ノンバイナリーの人々は性別をはっきりさせるような代名詞を嫌がります。その場合、三人称単数のthey/themというのを使うのです。つまりthey/themと書いてあるだけでノンバイナリー(あるいはLGBTQ)という意味になるのです。。

これを見ると、ロミオもメイもthey/themです。他にも何人かthey/themがいます。フランソワ役は、意外にもhe/himなんですね。ランス役のヘイデン・ティーさんは、he/him/they/themという表記ですが、これはどういうことなんでしょうか?いわゆる両刀使い?バイセクシャル?ちょっと謎です。

あと上の画像の右下のベンボーリオ役のライリー・ギルさん。この人、女性かと思っていて、ロミオの親友ベンボーリオを女性という設定でやっているんだと思ったのですが、これを見ると、they/themなんですね。またこの画像では切れてしまっているのですが、解説を見ると、“Riley is a Queer non-binary performer"と書いてあります。クイアーでノンバイナリーのパフォーマー。LGBTQの最後のQです。

Rileyという名前が男の子の名前だけかと思って調べてみたら、女の子につけるケースも多く、中性的な名前のランキングのベスト5に入っている名前のようですね。

ロミオの親友も、ジュリエットの親友もあえてノンバイナリーという設定のこのミュージカル、実にダイバーシティーを意識しているんですね。

日本では味わえない西洋風のノリと、エレガントな開演前とインターミッションの雰囲気

観客に西洋人が多かったので、客の反応で客席とステージが一体化し、非常に盛り上がりました。ところどころ、音楽コンサートのような雰囲気になったりもしました。また最後はスタンディング・オベーションで、かなり多くの観客が踊り出していました。こういう雰囲気はなかなか日本の劇場ではない気がします。

また、開演前やインターミッションでの雰囲気も素敵です。これまで何度か西洋人の観客の多いミュージカルをシンガポールで観ていますが、開演前には、広々としたロビーで飲んだり、スナックをつまんだり、おしゃべりしたり、写真を撮ったりして過ごすのがとても楽しいです。

今回は、私は最初は白ワインとポップコーンを、2度目はシャンパンを飲みました。何かパーティーに参加しているような雰囲気がして、ちょっとワクワクします。こういう優雅な雰囲気はなかなか日本では味わえないですね。

ミュージカルの内容もそうなのですが、観客の雰囲気、始まる前からの雰囲気など含めて、素晴らしい体験でした。シンガポールで、日本人の知り合いや、シンガポール人の知り合いに「絶対見るべきだ」と言ったのですが、私がいくら言っても、残念ながら説得力がなかったです。

この演目は、言葉の問題もあり(そもそもこれらの洋楽の楽曲の歌詞は日本語翻訳では無理)、もし見事に翻訳できたとしても、これだけの演技力と歌唱力を持ったキャストを揃えることは難しいと思います。また、もし海外キャストをそのまま日本に連れてきて上演できたとしても、観客との一体感と反応を再現することは無理なのではないかと思います。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の原作からは大きく逸脱した作品ではありますが、シェイクスピアの喜劇で表現したかったことはこういうことではないのかと思えるような作品でした。シェイクスピアの時代にはなかった音楽と現代的な設定で再構築した、この新しい物語が与えてくれた感動は、シェイクスピア喜劇の本質のような気がしました。

シェイクスピアの時代は、言葉と演技力に頼るしかなかったのですが、今の時代はいろいろな要素を総合芸術として使うことができます。あらたなツールを使って、シェイクスピアが表現したかったものを現代に再生できたのではないか、とそんなことを感じました。

日本人でこのミュージカルをご覧になった方、あるいはこれからご覧になる可能性のある方は少ないかと思うのですが、あまりに素晴らしく、これは歴史に残しておくべき作品なのではないかと思ったので、ここに紹介させていただきました。これを再び、どこかで観ることができるのだったら、ロンドンにさえも飛んでいきたいという気持ちです。チャンスがある方は是非、ご覧になっていただければと思います。





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