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中国に来て寛容になれた

中国に来て、日本では無意識に色々なことを気にしていたことに気づかされた。そして少し寛容になれた気がする。

一つ目は店員さんの態度について。
中国ではお店に入ると「いらっしゃいませ〜」と言ってくれるが、それまでは座ってスマホをいじってることが多い。接客する時以外は別のことをしているが、会計の時はちゃんと会計をしてくれる。日本ではずっと立ってて、スマホを触っている店員さんを見たことない。

今年の1月、日本の友人とベトナム旅行に行った時、ベトナムでは店員さんがおしゃべりしててなかなか会計をしてくれずに待っている時間があった。一緒に来ていた日本から来た友人は、「え?ちゃんとやってくれるかな。大丈夫かなこのお店。」と不安を口にしていた。日本にいた時、私も同じようにきっと感じていただろうけど、今はいつか対応してくれるだろうとのんびり待っている自分に気づいた。

二つ目はエレベーターに乗った時。
日本にいる時は、エレベーターに乗ると無言の圧力と気遣いによって成り立っていたと感じる。
降りる人が優先で、乗ってきてボタンに近くなった人がボタンを操作する。この絶対的な無言の圧力。そして私がボタンの前に立った時は、なるべく1秒でもスムーズな開閉を心掛けていた。
病院で働いていた時には、ゆっくりエレベーターに乗ってくる人がいたり、ボタンの操作がゆっくりな人にいちいち、「もっと早くしてよ」と心の中で急かしてしまっていた。その1秒が許せなかった。
しかしこちらのエレベーターでは乗り降りは激しいが、このような圧力や気遣いはない気がする。

三つ目はエスカレーター。
日本ではどんなに混んでいても一列に並んでないといけない。絶対2列で並んだ方がスムーズだとみんな分かっていても、誰も最初の2列目の先頭になろうとしない。なぜならその人は白い目で見られるから。その時に急いで登る人がいるか誰も分からないけど、もしかしたらいるかもしれないその人に道を開けている。
中国に来た最初の頃、エスカレーターに乗る位置は東京と反対だったので、私はその2列の先頭の人になってしまった。間違えた!と周りを見て焦って隣に移動しようとしたら、私の後ろに人がパラパラと繋がっていって、2列になっていた。そして誰も私を見ていなかった。急ぐ人のために道を開けないと、と自意識過剰になっていたのは私だけだった気がする。こちらでは急ぎたい人は、「ちょっと私通りたいから避けて」と言ってくるか、そもそもそんなに急いでいる人がいない。

私は一体何に急いでいたのだろうか。
私は一体何に気を遣っていたのだろうか。

日本には多くのこういう無言の文化がある。それはみんなが心地よく生活していくためのものではあるが、今は少し窮屈だなあと感じる。

私は、店員さんはきちんと接客すべき、エレベーターに乗る人は皆スムーズな乗り降りをするために協力すべき、エスカレーターの片方は開けておくべき、と「こうすべき論」を無意識にそう思い込んでいて、周りにも同調圧力をかけていた。

そんな私は中国に来て、いい意味で寛容になれた気がする。

必要な接客に関してはちゃんとするけど、それ以外は干渉しない、私がしてほしいことは会計であって、そのことをちゃんと果たしてくれればそれでいいと思うようになった。店員さんの態度については、スマホ見てたって、おしゃべりしてたっていいでしょ、と寛容な気持ちになれば全然気にならなくなった。

エレベーターだって数秒待てば勝手に扉は閉まるし焦らなくても全然大丈夫じゃないか。
エスカレーターだって焦って登り降りするものじゃないじゃないか。

文化の違いもあるとは思うが、まあそういうこともあるよね、焦らずいこう、と受け入れて寛容になると少し生きやすさを感じた。ガチガチに固まっていた「こうすべき論」を少し柔らかくすることができた気がする。

ドラマ「不適切にもほとがある」でも寛容になりましょうって言っていた。すごく共感できたメッセージだった。

こうすべきということは、自分の価値観であって大切なものだけど、人に押し付けるものではないと思う。私は私の価値観で、あなたはあなたの価値観があるよね、そうかそれでいいのか、と思えるようになった。

中国に来て気付くことができて良かった。寛容な心を持つのことはとても生きやすくなるなあと思った。

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