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【小説】幽明境にて、一杯

 おに様はおっしゃいました。

「下手なことをしてみろ、…すぐにでも噛み砕いてやるからな。」

 そう告げたおに様は、声色こそ氷のように冷たく、稲妻のように鋭いものでございましたが、でもどこか、悲しそうなお顔をされているように感じました。
 わたくしが素直におに様にこのことをお伝えすると、どうやらおに様を怒らせてしまったようでした。わたくしは、おに様のそのようなお顔を見とうありません。



 おに様はおっしゃいました。

『お前はそうやって呑気そうに笑っていればいい。…全く、平和ボケした阿呆め。』

 そう告げたおに様は、幾分か優しい顔をしておられました。そしてその大きな手で私の血濡れた顔を撫でてくださいました。ああ、おに様。わたくしは今汚のうございます故、おに 様の御手が汚れてしまいます。
 わたくしが素直におに様にこのことをお伝えすると、おに様はその大きな腕でわたくしを包み込んでくださいました。わたくしは、おに様のあたたかくたくましいそのお身体が愛おしうございます。


 おに様はわたくしにおっしゃいました。

『お前に出会えてよかった。』

 そう告げたおに様は、黒い面布の奥で柔らかな笑みを浮かべていらっしゃいました。わたくしには見えなくとも分かります。おに様は、今までわたくしが出会ったありとあらゆる生き物の何よりも心根が優しい御方であると、わたくしは知っているからです。
 わたくしは素 直にそのことをお伝えしようと口を開きましたが、残念ながら、おに様が先にわたくしをがぶりと食べてしまいました。 まったく、おに様は本当にずるい御方です。


 おに様はおっしゃいました。

『どうした。今更緊張しているのか。力を抜け。お前はただ、俺の横に座っていればいい。』

 そう告げたおに様は、肩を竦め、愉快そうに笑っていらっしゃいました。今まで着たこと のない正絹の黒の引き振袖には絢爛な花の刺繍が施されていて、どうしてもわたくしには物珍しく映るのです。おに様はそんなわたくしを肴に杯を傾けていらっしゃいました。
 楽しそうに笑うおに様の笑顔に、わたくしは河豚のように頬を膨らませておりました。


 おに様はおっしゃいました。

『物好きで、変わった奴だ。お前も、…俺も。』

 そう告げたおに様は、わたくしにおに様の朱色の杯を差し出されました。わたくしが戸惑っていると、おに様は肩を揺らして言いました。

『ああそうか、祝言までお預けであったな。仕方ない。もう暫し待ってやろう。』

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