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ピアノの悲鳴


つらい時はピアノを弾く。

アイリッシュハープが大好き。これは習い始めた幼少期から一切揺らがない事実だが、しかし私は、つらい時あまりハープを弾かない。つらいという気持ちが解決しないからだ。

ハープは怒りに任せて「叫ぶ」ことができないように作られている。弦を弾く時、縦に張られた弦に対して横方向に指が動く。強く弾いてもびよんびよんと輪ゴムをはじいたような音になりあまり美しくない。速弾きをしたくても、技術が伴わないとバラバラと残響が山積し不協和音となる。

やわらかな心で、ゆったりとした速度で。そうして弾くと、必ずハープは応えてくれる。優しくまろやかな音が私を包み、ふんわりと眠くなってくる。
そんな楽器だ。だから好きだ。

しかし、どうしてもつらい時。
言い換えれば叫びたい時、攻撃したい時、どこか遠くへ逃げ去ってしまいたい時。

そんな時はピアノを弾く。というより、強く叩く。
私は粗暴ではないので(そして腕力もないので)、強く叩く「気持ち」で弾くというだけだ。それが全身に渦巻くエネルギーの呪縛から私を解放してくれる。言葉にならない気持ちがピアノを通して「語られる」。
ハープもピアノも私の生活には欠かせない楽器だ。

全身の力を腕から手、指に思い切り伝えても、楽譜に書かれたフォルティシモには到達している気がしない。大きな音が耳に入る。

痛い。

ちょっと無理するとこうなる。今日の練習は終わり。


私は聴覚過敏のためにピアノに向かなかったのだと気付いたのはピアノをやめて随分後だった。逆に言うと、小さな楽器・アイリッシュハープは、その音の静かさと穏やかさが最も私に適していたのだった。
私はASD(自閉スペクトラム症)という発達障害を持っている。ASD特性のひとつに「聴覚過敏」という「人よりも極端に音に過敏」というものがある。日常生活では耳栓やイヤーマフをして街の騒音を適度に遮りながら過ごしている。これがわかったのは大学時代のことである。それまで私は「よくわからない怖がりの人」ということになっていた。

昔、レッスン室で弾くピアノは「痛くて」、私はいつもレッスン室から逃げ出したかった。発表会の時だけ人が変わったように生き生きとピアノを弾く私を見て周囲は「発表会が好きなんやね」と言ったが、なんのことはない、今ならわかる、広いホールだと聴覚過敏が和らぐというだけだ。

一心不乱にピアノを弾く小学生の私に、「もっと優しく弾きましょう」だとか「歌うように弾きましょう」だとか、かけられる言葉の意味はわかる。そう弾くことができないささくれ立った心で私は一心不乱にピアノを弾いた、いや叩いた。「そんな弾き方では何もならないよ」。何になりたいわけでもない。「そんなにイライラしているならピアノじゃなくて外に出たり運動してきたらいいのに」。できないから弾いている。誰も分からない、一人のこどもが抱える“言葉として表現することができない聴覚の痛み“!すなわち聴覚過敏。
聴覚過敏があると人混みがつらい。電車もつらい。友達の楽しい話し声もつらい。怖くて外に出られない、怖くて人にも会えない。聴覚過敏に加えて、いつも疲れている、いつも体が重い、運動をしたくてもできない。イライラする。どうしようもない怒りが湧いてくる。私は何もできないが、ピアノを弾く、弾く、弾き続ける!なのに誰もそんな私のことを分かるはずがない。耳が痛いと言って耳鼻科に連れて行ってもらったことはあったが、聴力にも耳にも異常はなく、それ以上は誰も、概念を知らなかった。
人は他人のことをわからないのだ、という確固たる思想はその頃身についた。突き放したような言い方だが、わからないからこそコミュニケーションが大切だという話である。

ごく小さな音で電子キーボードを鳴らして私は初めて「ピアノが歌う」感覚を知った。作曲を始めた頃の話だ。浅く弾く。静かな音。深く弾く。雄大な音。ああ、先生のおっしゃっていた「深く歌う」とはこういうことか、とやっとわかった。耳が痛くない。頭も痛くない。目の前の楽器が私が歌うのと同じような感覚で鳴っている、ごく小さな音で。私は嬉しかった。


あるとき、とある建物のロビーのような場所に「ご自由に演奏してください」とアップライトピアノがあって、お言葉に甘えて弾かせてもらうことにした。大学帰りの18時ごろだったと思う。その時が久しぶりの電子キーボードではない『ピアノ』演奏だった。
発表会で弾いたことのある曲を弾いた。鍵盤は重く、力を入れても指が滑る。広い場所だが音が室内に反響してまた少し「痛い」。だんだんと、上手くいかなかったピアノレッスンを思い出して腹が立ってくる。叩きつけたつもりがフォルテ程度の音。ああ、私は何もできない、ピアノばかり弾いていてそのピアノも上手くならなかった、そんな人生の悲鳴が、ピアノを通して鳴っていた。

「うまいねえ」

空間に声が響いた。振り返ると見知らぬ清掃業者のおじさんがいた。作業服を着たその人はマスクをしていたが初老くらいの年齢かと見受けられた。その人は少し頭を下げ、「練習中、すみませんね。」と言い、それからもう一度、私に聞き間違いと思わせたくないかのように、「ピアノ、うまいね。私は音楽のこと全くわからへんのやけどね。」と言って、清掃のバケツを持って去っていった。その後ろ姿に私は「ありがとうございます」と声をかけた。届いただろうか。

私はこの思い出を今でも大事にしている。
偶然その方が聞いて下さって、褒めて下さった。おそらく音楽的に言えばおよそ上手な演奏ではなかったと思うのだけれども、その時の一言は、過去のどんな苦しい経験をも洗い流すような清々しい一言だった。ピアノへの禍々しい愛憎は無事に前向きな気持ちへと変わり、胸のつかえが取れたような気がした。きっとあの方は私のことを何も知らない。ピアノへの感情も、聴覚過敏のことも。それでいい。人は他人のことをわからない、だからコミュニケーションをとる。

あの時、私は助けてもらえたのだ。

私はこれからも音楽をやっていいんだと思えた夕暮れのピアノ、何気ない会話、モーツァルトのピアノソナタハ長調K.545、溌剌とした響き。

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