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「死にたい」という言葉を否定してはならない理由

闘病中に心の底から「死にたい」と思うことが何度もあった。

その瞬間ももちろん辛かったのだが、何より辛かったのはこの言葉を周囲の人間から否定される瞬間だった。
それは、当時私が経験していた人類としても未曾有の苦しみを、何の経験もない人間達から全否定(大したことがないとする)されたように感じたからだ。

10代では命を削って日本の最高学府を目指して勉強に励み、20代では自身の夢(起業)を叶えるために睡眠時間や休みを削って、誰よりも時間を大切にしてキャリアップに努めてきた。

ところが、27歳という若さで全てを破壊されることとなった。

コロナ(デルタ株)に罹患し、そこから人生が一変した。
何の改善の見込みもなく、ただただ毎日をやり過ごすことしかできない。
経験者にはわかるだろうが、この時間をやり過ごすだけのストレスは本当に計り知れない。

まだ当時、コロナ後遺症という言葉も全国的に浸透していなかった中で、全国20箇所以上の病院に足を運べども原因が分からない。
整体院や鍼灸師だけでも数えきれないほどの方にお世話になった。

どれだけ病院に足を運んでも、どれだけ様々な治療を体に施しても、全く改善するそぶりすら得られない。
気力と貯蓄がやせ細り、時間だけがいたずらに過ぎていく。

患者には、「読む」「書く」「見る」「聞く」「考える」といったことはもちろん、日夜激しい倦怠感の中で、一睡もすることすら許されずに、24時間365日にわたり、ただただ終わりの見えない苦しみが続いていく。

一方で、周りを見渡せばのうのうと生きてきた同世代は結婚や昇進といったライフステージの変化を迎えなんだか幸せそうに過ごしている。

いったい自分は前世でどんな重罪を犯してしまったのだろう。

最低限の生活すら送ることを許してもらえない。
この生活をいったいいつまで続ける意味があるのだろうか。

さらに追い討ちをかけるように、本来味方であるはずの、医師はもちろん、家族からも理解してもらえない。
「思い込みすぎではないか」「心の甘えじゃないか」「これまでの行いに原因があったのではないか」

こうした言葉(無理解)を浴びせられるたびに、もういつ死んでも後悔はないと徐々に確信するようになった。

そこで、人生で初めて遺書を書くことにした。
闘病生活から2年が経過した、若干29歳でのできことである。

ただし、一つの言葉が脳内によぎる。
それは、もし、ここで自殺してしまったら、これまで頑張ってきた自分自身に何より失礼なのではないか、ということだ。

そして、もういっそ、既に一度も二度も死んだような人生で、人の一生分のストレスを経験したのだから、これからは好きなことだけやって余生を過ごそう。

そう思えると、今この瞬間に死ぬことがもったいなく、だんだんとバカらしく思えてきた。

だから、今は普通の、量産型の人間の人生のように、朝からコンテナ(満員電車)で大量輸送され、社会的にあまり必要のない事業(大企業ほど企業の存続が目的)の仕事の進め方に戸惑い、上司や取引先にヘコヘコしながら、終業後は同僚と愚痴を言い合うなんていう、全く意味のない時間を過ごすつもりはない。

人生の底の底の底まで潜り、本当に大切なことや自分にとって大事なものが見つかったからこそ、それらだけで生活をできる限り埋めていきたいと感じている。

何度も言うが、たとえ10億をもらえたとしても、同じ2年半を生き延びる自信は到底ない。
が、この自分にとって本当にかけがえのないもの、心から価値を感じる羅れるもの、に20代で向き合いきれたことは本当に大きな財産になったと思う。

また、引き続きこれからも、1年半以上、私と同じようなコロナ後遺症(ME/CFSや鬱)に苦しんでいる方の社会復帰の支援も自分なりのペースで続けていけたらと思う。

タイトルから本文がだいぶ飛躍してしまったが、「死にたい」という言葉を周囲の人間が否定してはいけないという話でした。


※海外では安楽死が認められている国もあります。
いま死にたいと感じている患者さん、また周囲でサポートする方には、この動画からは考えさせられることが多々あるはずです。


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