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しあわせで過去を上書きして

毎年同じ場所で咲く同じ花を見に行っている。同じなのに、同じだなぁと思いつつも毎年足を運び、カメラを構える。

そろそろ桜が咲きそうとの知らせを聞くと、去年の光景が目に浮かび、今年はいつ行けるかなと考える。

浮かぶ景色は映像とともに、そのときの自分の気持ちも一緒に流れてくるのだ。これは素敵なことか、それとも……


私にとっては、あまり素敵なことではない。

花が咲いたという美しい景色とともに思い出すのは、つらくて苦しくてモヤモヤ、または少し寂しいものばかりだ。

つい最近は菜の花が綺麗に咲くスポットで、苦しい時期を思い出してドキドキした。

当時は夜勤の仕事前に訪れ、これから仕事だと思うとすごく嫌で嫌で嫌で、嫌すぎて。どんな様子だったか忘れてしまったが、今思えばあの頃からもう限界が近づいていたんだろう。

菜の花畑に好きな人と遊びに来たというのに、楽しいというよりも、時間や次のことを気にする苦しさが勝っていた。最悪だ。

そんなものを思い出し、苦しくなった。あの頃と同じ好きな人は私を見て、「もう大丈夫だよ」と言っていた。うん、そうなんだ……もう私には関係の無い過去で、何も心配することはない。

今の私には関係ないこと。そのときはすぐに切り替えができたが、そこで終わらせることは出来なかった。


帰ってきて数日後、ふと思い出した。まるで菜の花畑に立っているかのように、あのときの気持ちがまた蘇った。どうして

未だにつらいことをふと思い出すことがある。そのたびに酷く心がぎゅっとする。普段家にいる時ならそんなに大したことはないが、特別な場所だととても苦しい。

まだ気持ちが上書きされていない場所は苦しくなる。菜の花畑はそうだった。去年行かなかったから。一昨年の苦さがずっと隠されていた。

去年にだいぶ上書きしたと思っていた。でも、まだ隠れているところがある。

あといくつあるのだろう。いつまでこうなんだろう。早く上書きしたい。上書きできるまで、苦しい。


菜の花畑で撮った写真は、一昨年とは全然違った。私は当時よりだいぶ太ってしまったが、そんなことが気にならないくらい楽しそうに笑っていた。


写真を撮ると、撮ったものが思い出として残る。写ったものが本物として記憶されてしまうのだ。

自分の顔くらいなら、写真の中の表情から当時の気持ちも読み取れる。

今年は大丈夫だろうか。もう、来年はなんともないだろうか。


地雷をひとつひとつ除去していく、毎回無事じゃないけど。こうするしか方法がない。自分で散りばめた爆弾は、自分が受けるしかないのだ。


上書きするのが、これからはすべてしあわせでありますように。


いろいろ書いてみるので、他の記事も覗いてみてください✨