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★神は何処か、あるいは「明日があるさ」と慰められること。

「神」とは、「宇宙」そのものです。

神に肉体があるとするなら、それが宇宙なのです。これは私の「神の概念」です。更に私が思うのは、神は何もしない、何も手を下さない、ただそこにいる、そこにあるだけです。

だから、私たちががむしゃらに努力しても就けない仕事があったり、とてもツラい境遇に対峙しているのに終わりがみえなかったりして、「神様…」と手を合わせるのだけど、神は何も手を下さないので、祈りなど叶うわけがないのです。

「神は宇宙、宇宙が神」というような概念をもつと、スピリチュアルだとかカルトだとかくくられることがありますが、私は「神は何もしない」という立場をとっているので、「願うこと」あるいは「祈ること」で、明日が変化してくれると考えることにためらいがあります。

では、自分がツライとき、あるいは他人(ひと)がツラそうにしているときはどうするのか。

私が以前述べたように、私たちにはいつ「死」が訪れるかわかりません。そして、死の痛みは「心残り」です。だから、苦しい思いや悔しい思いをしている最中に、いきなり「死」と臨むような境地、「死にそう」と思うような境地に追い込まれたら、できる限り今この瞬間まで心で感じたこと、頭で考えたことを、肯定的に書き換えていくしかないと考えるのです。

私の家族はとても貧乏でした。私は高校生のときから下校後と休日はアルバイトに明け暮れ、学校の授業料を自分でまかなって家計を助け、でも大学へ行けるほどの費用が作れず、進学はあきらめました。アルバイトに行かないと父から折檻されたので、両親を助ける子どもだったという美談でもありません。

このことで自分の人生がうまく運ばないのだと、相当親を憎みました。20歳で家を飛び出して上京し、もう折檻を受けずに会社に勤めていたのに、なぜか毎日毎日、痛くて、悲しくて、苦しかったです。私の場合そんな気持ちを抱えたままでは「死にたい」というより、「死んでも死にきれない」と考えていました。それが今なら、自分が「適応障害」であったことがわかるのですが、当時の私は気づく術がありませんでした。

私の適応障害については、また別の機会にお話しますが、そういう人間に「過去は忘れて、明日や未来に希望を持とう」と励ますというのは残酷なことです。最近ではよく知られてきましたが、「がんばって」という言葉もかけてはいけません。

経済的な事情、肉体的な事情、あるいは精神的な事情から、生きていることがツライ人にとって、明日や未来は容易に変えることはできないので、かえって相手を追いつめるだけです。

「神は宇宙、宇宙が神である」と考えると、私たち一人ひとりは神の細胞といえるかも知れません。私が神の一つの細胞とするならば、あなたも、あの人もただ一つの細胞です。

各各が新陳代謝を繰り返し、生まれては消え、消えては生まれ、私たちがただここに神をいさせているだけなのです。

とても悔しいことかも知れないのですが、私はそう思うことによって、「私の就きたかった仕事やしたかったことは、他の細胞がしてくれている」という考え方をするようになりました。

だから私は医者であったり、女優であったり、総理大臣や国王だったりするのです。

ツライ人生を生き続けていくために、私が身に着けた処世術です。

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