BORN TO RUN


 いつものランニングコース。毎日、行きと帰りで欠かさず15kmは走り込んでいる。今は帰り道の夜の10時。
 道場での稽古を終え、家までの帰り道を休憩なしで走り続ける。帰ったら、熱いシャワーを浴びて、飯の後に、柔軟を終えて眠るのだ。
 普段なら、そこで冷えた缶ビールを楽しむ所だが、大会が近い。酒は控えている。アルコールを禁じて二ヶ月。最初は、飲んだ方が調子が良い気がしていた。今も、酒は飲みたい。
 だが、今は勝って勝利の美酒に酔いたいのだ。万年四位の汚名をそそぐ、これが最後の機会かも知れないのだから。
 勝ちたい。雨宮と、藤宮の二人に。
 フルコンタクト空手の、全日本選手権。「ニの宮」と呼ばれる、雨宮譲と藤宮錠の二人に勝ちたい。
 毎年、準決勝でどちらかに当たって敗北している。勝てない相手ではないのだ。自分だけの勝手な思い込みかも知れない。そう思いたいだけかも知れない。だが、手も足も出ない、そんな相手じゃないのだ。
 昔は、師範を前に「勝てない」という事がどれほどの力量差であるかを思い知らされた。だから、雨宮にも藤宮にも、まるで敵わない実力差があるとは思っていない。
 それでも勝てなかった。足りなかったのだ。鍛錬が。訓練が。気迫が。根性が。知恵が。戦略が。練習量が。筋肉が。体重が。スピードが。技が。そのどれなのか、どれもなのか。とにかく足りなかった。だから、負けたのだ。
 今年で36才。技は日々、キレを増し、重みを増している。だが、スピードや反射神経、根本的な体力は確実にピークを過ぎている実感があった。ここからは確実に下り坂だ。衰えを遅らせる事は出来よう。だが、食い止める事は出来ぬ。
 対応力や応用力、技や読みは積み重ねられる。事実、スピードは落ちても、技のキレは増している。パワーは落ちても重みは増している。
 その究極に辿り着けば、時代小説の剣豪や、伝説の拳法の達人になれるのかも知れない。
 だが、俺は今勝ちたいのだ。いや、今勝たねば、もうあの二人に勝つチャンスはない。そして怪我もなく、あの二人にさえ勝てば、今年は世界大会への切符が手に入る。あの二人以外に負ける要素はない。初の世界だ。これを逃せば、四年後は40才。だからこそ、初の世界は、おそらく最後の世界だ。
 そんな事を考えながら、ランニングコースを走る。
 自宅との間にある、夜の公園。もっとも人っ気がなく、道も暗い。中央の広場まで速度を上げて走り込む。中央の広場で息を整えながらのシャドウボクシング。自分に足りなかったのは何なのか。なぜ勝てなかったのか。
 自問自答を繰り返しながら、虚空の闇に拳を振る。夜風を足刀で斬る。あの二人も、いや、それ以外の連中も、俺以上に鍛えてくるかも知れない。それでも勝てるのか? いや、勝つしかないのだ。
 広場の噴水の周囲を、敵を想定しシャドウしながら、ぐるりと回る。
 そして、自宅方面へ抜ける小道へと、最後の走り込みだ。ここを抜けると、また人や車が多くなる。無遠慮に走れる場所はここが最後だ。暗がりだが、とにかく人が少ない一本道なので、人にぶつかる心配はしなくていい。特にこの時間なら、まず人と出会う事はない。実際、このこの数ヶ月で見ても、この小道で出会った人間の数は10人を越えないだろう。
 ただ、そう言えば数日前、この小道で妙な男に声を掛けられた。それが気になる。
 いつもより道を暗く感じるが、それは思考のせいではない。街灯が一つ切れているのだ。今時珍しい事もあるものだ。いや、一つじゃない。二つ? それは不自然じゃないか?
 そう思った瞬間だった。
 足がつんのめる。
 街路樹がざわめく。
 いや、両脚だ。何かにつまづいた訳じゃない。何かに引っ掛かった。否。引っ掛けられた。
 俺はその不自然な何かに思考を巡らせるより早く、地面に柔らかく両手をついて受け身を取る。大丈夫だ。間に合った。急な身体の捻りを入れたから何処か故障したのではないか、と意識を走らせる。
 問題ない。稽古とトレーニングで充分に身体はほぐれている。どこも壊れちゃいない。そして、俺の身体はほぐれてるだけじゃない。存分に温まっている。
 俺は跳ね起きるようにして、つまづいた場所側に向き直りながら、構えを取った。それから、自分が何に引っ掛けられたかを確認する。
 ロープだ。それも、わざわざ黒いロープだ。あの瞬間の街路樹の葉が鳴ったのは風の所為ではない。誰かが、街路樹にロープを括り付けて罠を張ったのだ。それも、かなり低い位置に、発見されにくいよう、黒いロープで。
 愉快犯がやるような事じゃない。これは、本気だ。そして、俺はたった今、そいつの事を考えながら走っていた。
 「暗い夜道には気を付けなくっちゃなぁ」
 生垣の中から黒いロープの端をつかみながら、男が出てきた。声には聞き覚えがある。そう、三日だか四日ほど前、このランニングコースで、「俺と勝負しろ」と声を掛けてきた男だ。
 「怪我はなかったかい? 羽柴弓彦サン」
 男が、粘つく声で道路に出てきた。何者だ。何が目的か。わからない。だが、敵意があるのかも読めない。しかしそれでも間違いなく、害意はある。それも、特級に危険な害意だ。
 「ああ。怪我はないようだが、、、」
 俺は探りを入れるつもりで構えを解かずに男を見る。
 「そいつぁ良かった。怪我のない万全のコンディションでないと、怪我をさせる楽しみが減るからなぁ」
 ひひ、と下品な声で笑う男。暗がりで分かりにくいが、黒いトレーナー姿。背は180cmに満たない。どちらかと言えば細身に見えるが、夜に黒い服装である。今判断するのは軽率だろう。
 「俺は喧嘩はしない、と先日言ったはずだ」
 息を整えながら、俺は告げた。
 「だよねぇ。こないだは走って逃げちゃったモンね。そんなに大会が大事かい? 羽柴サン」
 「お前には関係ない事だ」

 間違いない。こいつは、俺の事を知った上で戦いを挑もうというのだ。しかも、路上の喧嘩で。空手屋に。この現代に。
 「そう。関係ない。羽柴サン、あんたの事情も関係ない。俺と勝負してもらう」
 俺に、大会に出場してもらっちゃ困る連中がいるのなら、俺も出世したモンだ。雨宮も藤宮もこんな卑怯な真似はすまい。それに、知った顔ではないから、同門の人間でもない。可能性があるなら、俺と同じ三位だの五位だので足止めを食ってる西脇か。だが、俺を壊しても「二の宮」も止めなきゃ意味がない。貰えて三位じゃリスクが大きい。
 「言ったろう? 喧嘩はしないと」
 「ちゃんと聞いてよ。喧嘩じゃない。勝負だって」
 「試合なら、正式に手続きを踏んでーーー」

 俺が言い終わらないうちに、男が右脚だけを動かした。
 ぼっ
 と男のトレーナーが風を破る。
 前蹴り気味のサイドキック。
 巫山戯半分ではない。この男は確実に武術を身に付けている。絶対に届かない距離で、見せるためだけに蹴りを放ったのは、伊達や酔狂で勝負を仕掛けてきたのではない、という意思表示だ。
 男の蹴りは恐ろしくキレがいい。重さも充分だろう。だが、スピードはそれ程じゃない。見える。躱せる。
 攻撃には見える攻撃と、見えない攻撃がある。正しくは、目で追える攻撃と、追えない攻撃と言うべきか。
 見える攻撃には、しっかり見える攻撃と何とか見える攻撃までの段階がある。そして、見えたからと言って対処出来るかどうかの問題もある。だが、見えない攻撃ではない。
 見えない攻撃には段階がない。見えないのだから。
 だが、こいつの動きは見える。無論、今のがトップスピードとは限らない。油断は禁物だ。
 そう思った矢先、男が急に接近してきた。
 両腕は下がってる。来るなら蹴りか? いや、いずれにしろ路上で争いたくはない。バックステップで距離を取る。ーーーが、奴もそのまま距離を詰める。
 まだガードは上げていない。倒すなら今だが、どうする? 顔面はまずい。腹部か胸部辺りを強打して逃げるか?
 逡巡したその時、男が右の回し蹴りを放った。大丈夫だ。大丈夫だ。喧嘩で回し蹴りを使うなんてのは、思ったよりこいつは喧嘩慣れしていない。
 軌道が大きい回し蹴りはかなりキャッチされやすい。路上で足を掴まれるのは相当にリスキーだ。それを使うなんて。間合いも少し遠い。脛ではなく、爪先程度しか届かない。
 躱せた。だが、左腕でガードする。キレも重さもあるだろう。だが、このスピードならガードが間に合う。
 そう思った瞬間、ガードした左腕に、硬い痛みがあった。
 回し蹴りを受けたぐらいで、こんな痛みが走るはずはない。これはーーー、
 俺はもう一度バックステップして、男との距離を取る。男も後退して距離を取っていた。何故だ? 追撃する気はないのか?
 「悪いね。この勝負、俺の勝ちだわ。今、あんた、舐めてただろ、俺のこと。今の攻撃はスウェーで躱せた。なのに、受けた。今の感触からすると、よくてヒビぐらいは入ってるぜ。折れてるかもなぁ。残念だなあ、大会。いや、左腕一本だから、隠して戦えばイケるかもよ?」
 男が饒舌になる。なんと不愉快な男だろう。
 だが、左腕が故障したのは恐らく事実だ。通常とは違う感触に、違う激痛。それに、受けた瞬間の感触も違った。爪先程度しか当たっていないのに、ハンマーで殴られたような衝撃。
 男はそれでも構えを取ろうとはせず、上半身をゆらゆらさせたかと思った瞬間、一気に踏み込んできた。
 俺は左腕と左脚を上げてガードする。もう一度左腕を狙って来るか? それともーーー、
 そう思った瞬間、下から突き上げるように、右脇腹にとんでもない硬さと痛みが突き抜けた。肋が折れたか?
 左前蹴り。おかしい。奴のフォームからすれば、来るのは右半身のはず。何故、左から?
 それに、このダメージは何だ? まるで金属バットで殴られでもしたかのようなーーー、
 いや、まさか。そう思った瞬間、男の右ローキックが、俺の左脚を襲っていた。ようやくわかった。こいつは、その三発の蹴りを全て爪先で行った。
 この男、「安全靴」か何かを履いてやがる。気付いた瞬間、怒りなのか、それとも鍛錬の成果か。無意識のまま、右脚を軸に、最短で最速の左フックを放っていた。
 だが、俺の左フックは、いとも容易く右腕に防がれていた。こいつはさらに間合いを詰めて、フックの格好の的だったが、ひょいと上げた右腕にも、何かが仕込まれていたのだ。
 安全靴だけじゃない。鉄パイプのような何かを、腕に仕込んでいたのだ。
 卑怯な。そんな事を考えたのが先だったか、それとも、下から突き上げてきた攻撃に、意識を刈られたのが先か。その攻撃が安全靴の爪先だったか、それとも膝だったのか。見えていないからわからない。
 ただ、その攻撃を、綺麗に顎に決められた事だけは鮮明に覚えている。
 俺の意識は暗闇に沈んだ。
 目覚めたら、病院のベッドだった。大会にも出られる状態じゃなかった。
 そして病室で読んだネット記事で、近頃、格闘家に対する「辻斬り」が行われていると知った。自分がその被害者の一人である事も、だ。



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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。