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BORN TO RUN V



 この男がギリギリのラインで五輪の選に洩れた理由を、目の当たりにした。


 国木明彦。無冠の柔道王と呼ばれたこの男がプロ転向の意思を見せたのは、半年前。
 日本オリンピック委員会(JOC)と柔道連盟は、選考会議を開き、「優等生」志方謙一を推した。
 最終選考まで残りながらも、国木は五輪出場の道を失ったのである。
 「オリンピックは、国の威信を掛けて戦うレベルですからね。プロ格闘家が強いったって、そこまでの覚悟を背負ってる人は少ないですよ」
 国木は私にそう告げた。
 「自分が、オリンピックで金メダルを獲れるだけのコンディションが維持できるのは、あと2年が限界でしょ。次のオリンピックじゃ、篠原(同。篠原豊選手)あたりに抜かれかねない。だから、プロ転向です」
 国木は自らオリンピックの道を断念し、プロの道を選んだ。――いや、その表現は正しくない。
 プロ転向自体はかなり以前からのヴィジョンだったと彼は言う。
 「せっかく五輪が手に届く距離にいるんだったら、獲ってから辞めても遅くないと思ってたんです。でも、選考から洩れたんで、諦めました」
 その理由は明確だった。
 「同じオリンピックでも、【バトル・オリンピック】さんの所のメインエベントを一試合で、ファイトマネーが五千万円ですよ」
 契約金、プラス賞金。年3試合で2億。プロ野球並の収入だ。
 「オリンピックじゃ、金メダル獲ったって、せいぜいCM出演とか、スポーツ・キャスターですよ。世界で一番強いのにね。いきなり隠居生活ってのは笑えますよね」
 連盟からの報奨金が出ると言っても、メダルに対して一度だけ。サラリーマンが一生かかって稼げる金額がは1億から2億だと言う。確かに「世界一」強い男が納まっていい場所ではない。
 「今まではね、色々うるさかったんですよ。連盟とかが、プロ転向とか許してくれないんで。何人かプロ転向してくれたお陰で、そのしきたりも崩壊しましたけど」
 トラック運転手が短期間に荒稼ぎして、会社を設立すると言うような、その程度の人生設計だ。ただし、スケールは桁外れだが。
 「自分ね。許せないんですよ。柔道は弱いとか言ってる人」
 国木は笑って言った。
 昔の活劇では正義の味方は柔道使いで、悪の用心棒は空手使いだと相場が決まっていた。故大山倍達氏がモデルとなった「空手バカ一代」にそう記されている。
 しかし、今現在の主流はどうだろう?
 確かに「優等生」は柔道で、いわゆる「不良」が空手に憧れると言う図式にさほど変わりは無いのかも知れない。
 だが、一撃必殺で相手を倒せるのは空手。喧嘩には空手が向いている。柔道では喧嘩に勝てない。それが「世間の常識」としてまかり通るのだ。
 「TV報道されてる試合ですよ。柔道の最強を訴える最高のチャンスですからね」
 そのアグレッシヴな精神ゆえに、プロへの転向。――この時の私はまだ、国木の本質を理解していなかった。
 「だらだら話すのも何ですし、この辺で切り上げましょうか」
 国木はそう言って話題を打ち切り、嬉しそうに握った拳の人差し指を丸くして、クイっと上げた。
 「一杯、どうです?」
 一杯どころか、一杯一杯になっても帰れない事を覚悟しつつ、私は苦笑いした。
 最初は5倍の速度。国木の喉の渇きが癒えてからも、3~4倍。私が飲めなくなってしまうと、また5倍ぐらい。
 国木がビールを飲む速度だ。当然の事ながら、会計は居酒屋ではなく高級クラブ並になった。
 一軒目を出る。かなり飲んでいた私は、最初のトラブルが何だったのかを知らずにいた。
 だが、それは一瞬で酔いが吹き飛ぶような出来事。
 私たちを取り囲んで威圧しているのは、一目見てわかる風体の、やくざが複数。
 「お前、舐めてんのか?」
 下っ端らしい、細い身体の男が、顎を上下させながら喋る。
 私の体内のアルコールは一瞬にして消化され、赤かったはずの顔面は蒼白になった。
 「ほら、俺が鳴海(空手。鳴海一選手)ぐらいに顔が売れてたら、やくざだってそうそう絡んでこないでしょ。柔道の存在がないがしろにされてる証拠ですよ」
 動じた様子もなく、国木がコソコソと私に耳打ちする。私の耳にはその半分の言葉も入ってこない。
 「何をコソコソと相談してんだ、ぁあ?」
 先頭の下っ端が詰め寄る。
 「安全な所で見てて下さいね。逃げないで下さいよ」
 国木が私にそう告げ、下っ端のほうへ進み出た。
 「なに、お前。やるの?」
 やくざが、ありえない事態に笑う。その瞬間だった。
 国木の目の前に立っていたはずの、やくざの姿が消えたのだ。
 声もなく、のた打ち回るやくざ。
 国木の大外刈りが一閃していたのだ。
 「構える・掴む・投げるの3モーション」ではない。「構える・掴む・投げる」が1モーションなのだ。
 虚を衝かれているやくざを、三人。大外刈りと出足払いだけで倒す国木。この時の事を、国木はこう語った。
 「喧嘩でね、柔道ってムチャクチャ有利なんですよ。僕ら、武器を二つも持ってますから」
 一つは言うまでもない。地面だ。
 「地面なんて、武器としては強力過ぎて手加減が難しいぐらいです。頭から投げたら死んじゃいますしね。尾てい骨ヒビ、とか骨折ぐらいに調節するんです」
 この時のやくざが立ち上がって来れなかったのは、まさにそれだ。
 アスファルトやコンクリートに、自重で衝突する。致命傷は避けられない。
 柔道とは「柔らの道」と書く。柔道で言う一本は、美しく背中から落とす。理由は明白だ。
 背中から綺麗に落とす事と、下手糞で無茶苦茶な投げ方ではダメージの質が違う。前者がグローブで殴る「ノックアウト」なら、後者は拳で思い切り殴る「痛み」だ。
 場合によっては、後者の方が役立つ事もある。
 柔道が「一本」や「技あり」を認めるのは、投げた相手を、自分の思うがままにコントロールし、最も美しく、かつ安全に背中から落とす事が出来ると言うアピールなのだ。
 すなわち、相手を再起不能に陥れるために、頭や首から落とす事も出来る。それは、まさにグローブと拳の合わせ技だ。
 「もうひとつの武器は、服です」
 確かにそれは、プロ格闘にない要素だった。
 「普通、誰だって服は着てるでしょ。酔って脱ぐ癖でもない限り」
 国木は茶化したが、それは紛う事のない事実だ。
 「柔道着ほど都合良くは出来てませんけど、服を着てる以上、ドアにノブが付いてるようなモンです。簡単に投げられます。まして、だぶついた服を好むようなヤクザさんとかね」
 残った数名のやくざは、たかだか一人の男に子供扱いされている事実に驚愕していた。
 「お前、柔道屋か」
 今まで動いていなかった格上と見られるやくざが話し掛けた。
 「そう言うアンタは、空手屋でしょ」
 立ち方や、拳でそう判断したのか、国木が答える。
 空手対柔道、日本武道における永遠のテーマを目に出来ると思った瞬間だった。
 やくざは、とんでもない事を口走る。
 「殴られる心配はねえぞっ! いっぺんに掛かれ!」
 柔道は、空手と違い、対複人数の技がある訳ではない。だがこの時、国木は、笑っていた。
 残ったやくざが、一度に襲い掛かる。三人。
 だが国木は、一番近い距離にいた一人の懐に飛び込み、あっという間につりこみ腰を掛けた。
 驚愕は、その直後。
 つりこみ腰で浮かせたやくざを中空で振り回すようにして、別のやくざにぶつけたのだ。
 棍棒を振り回すよりも強力な一撃が、一人のやくざを吹き飛ばし、さらに、そのやくざを空中に投げ捨て、もう一人のやくざに衝突させたのだ。
 何十キロもある荷物を投げつけられて立っていられるのはプロレスラーぐらいだろう。
 格上のやくざが、ありえない事態に立ち尽していた。
 「柔道が実戦向きじゃないなんて、誰が言い出したんでしょうねえ。柔道は武道なのに」
 国木は、にやにやと楽しそうに笑う。
 後に、彼の喧嘩好きと、酒が入ると抑制が効かない事を周囲の話から知る事になるのだが、彼は酔っていた訳ではない。
 酒が入ると抑制が効かなくなるのではなく、酒を言い訳にしてストッパーを外すと言った方が正しい。
 オリンピックの選に外れた国木。
 プロ転向を許された国木。
 真相は、オリンピック代表には出来ない国木であり、連盟を追い出された国木だと言えなくもない。


津野田孝一(イベント・プロデューサー)



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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。