「AI」と「人間」の関係を、アクターネットワーク理論で紐解く ―自分は他者であり他者が自分である
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以前こちらのnoteで、ブルーノ・ラトゥール氏のアクターネットワーク理論(ANT)について書いたことがあるのだけれども、そのアクターネットワーク理論を用いると、「人間」と「機械」の関係も"いくつものアクターが次々と意味を変換していく行為の連鎖"として記述されることになる。
いわゆる、今話題の人間とAIの関係のようなものも、人間というものAIというモノの「本質」を予め設定して固めた後から無理にくっつけるというイメージではなく、AIとの関係で人間という存在者が「発生」し、人間との関係でAIが、なんらかの「モノ」としての姿を発生させていく、という風に考えることができるようになるのである。
(ところで、意味を変換していく行為の連鎖とはなにか??)
これについてはこちら↓のnoteに書いているのでよろしければ参考にどうぞ。
さて、人間と機械の関係である。
ここでいう「機械」には、昨今話題の「AI(人工知能)」も含まれる。
アクターネットワーク理論の考え方で「人間」と「機械」について書いてみると、次のようになる。
アクターとしての人間と機械は、意味を「ずらす」
「人間」と「機械」はそれぞれアクターである。
アクターは行為する。どのような行為をするかというと、他のアクターから受け取った「意味」を別の意味に「翻訳」「変換」するのである。
アクターとしての「人間」と「機械」は、それぞれのやり方で「変換」「翻訳」を行う。
変換すること、翻訳することは予測不可能なズレを引き起こす。何を何に置き換えるのかのルールは予め決まっていないし、置き換えられる前のものと置き換えられた後のものは完全にイコールではない。置き換えは「同じさ」をのなかにズレを生じる。
あるアクターが変換し、ずらした意味は、他の第二のアクターに送られる。第二のアクターもまた変換し、意味をずらす。この予測不可能なズレを生じる「変換」行為の連鎖を記述することがアクターネットワークを記述することであった。
それではアクターとしての「人間」と「機械」は、どのようなズレを生じる変換を行っているのだろうか?
人間と機械の関係を「カニバリズム」として記述する
ヒントになるのが人類学者の久保明教氏の著書『機械カニバリズム』である。
久保明教氏は「人間」と「機械(AIもここに含まれる)」との関係を「カニバリズム」という概念で捉える。
「カニバリズム」とは即ち「食人」、文化人類学の鍵になる対象=概念のひとつである。
久保氏が参照されているのは、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによるカニバリズムの概念である。(エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ(2009=1015)『食人の形而上学』)洛北出版)。
カニバリズムの概念は、人間と機械という向かい合う「ふたつ」の物事の関係を考える鍵になる。
何かと何か、ふたつの極があり、その間に関係があるという図式はネットワークの最小単位である。ふたつの極がありその間に関係がある、という形式。
カニバリズムの「食べるー食べられる」という関係は、この二極関係を、予め確定して存在するものが、後から、二つそれぞれの本質を保ったまま他方に何かを送り出したり、他方から何かを受け取ったりすることとは考えない。
食べる―食べられる関係においては、食べられた側はもはや元の姿を保ってはいない。また食べた方も、他を食べ自身のうちに取り込んだことにより食べる前とは別の自分になっている。
食べる―食べられる関係とは。自分は他であり他が自分である
食べる―食べられる関係とは、他者が自分になると同時に自分が他者になる、自分と他者が同時に両方であるという不思議な関係である。自己と他者は他方と隔絶してそれ自体で閉じて自存しているわけではなく、自己であると同時に他者でもあり、どちらか一方に二者択一で押し込められるものではない。
カニバリズムの概念が可能にする関係とは、極になるものが先にあって、後から関係がつながるという順序ではできてない。順番が逆である。先に関係がはじまることで、両極の役を演じるものが一方でもあり同時に他方でもあるものとして「記述」できるようになる。
「カニバリズム」的関係のモデルで記述すれば、人間と機械の関係も、互いに分離されそれぞれ閉じた固定的な二つのものの間で、どちらが他方を規定するを問う二者択一の問題のではなくなる。人間と機械の関係は双方が「自己を他者として作り上げる」動的な相互作用ということになる。
人間はAIを含む「機械」を用いながら日常を過ごすことにより、人間+機械のハイブリッドとして、人間でもなく、機械でもない、「第三のアクター」へと「生成する」と久保氏は書いている(『機械カニバリズム』p.19)。
人間+機械の「ハイブリッド知能機械」への生成が、同時にそのハイブリッドシステムを構成するサブシステムとしての「人間」の生成でもあり、「機械」の生成でもある。
ここでいう生きられた「異なる世界」とは、人類学における多自然主義の考えに基づくものである。
多自然主義の人類学は「一なる自然と多なる文化という二項対立を放棄」することにはじまる。
そして、ある人が「生きる世界」とは「現実に存在する世界を彼らなりの仕方で作り上げていく実践の産物である」と考えるのである(同p.36)。
この世界を制作する実践の数だけ、複数の、多数の「世界」が作り上げられる。それら多数の世界の下に「複数の文化=自然を俯瞰し比較する超越論的な視点」の「前提」となる素朴実在論的な「同じ世界」を持ち込むことはできない(同p.37)。
また同時に多数の世界からなる全体を「一望のもとに俯瞰できる「人間」」も存在しないと考える(同p.38)。
多自然主義の人類学は「この世界に存在するものについて異なる見解をもつ存在者同士の相互作用が、統一的な基準がないままに把握され、変容していくプロセス」を記述する試みになる。
久保氏は、人間と「発達し続ける知能機械」との相互作用もまた、こうしたプロセスとして捉える必要があると論じる(同p.38)。
そこで問われるのは「機械との関係を通じて人間なるものはいかに変化していくのか」ということである(同p.83)。
例えば、インターネットでも、スマートフォンでも、情報メディア技術は個々人を記号の流通ネットワークに結びつける。
情報メディア技術が結びつけるネットワークは、人間をその外部から支配したり拘束したりする人間と「対立」するなにかというよりも、むしろ人間と一体化し、人間をして記号過程として動作するひとつのシステムとして機能させる。
今日問題になりつつある人間とAIとの関係もまた、こうした人間と機械のハイブリッドが行う「記号」の処理、記号と記号の置き換えの処理として、記述され議論の対象として捉えられる必要がある。
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