ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論(ANT)とは? ー中間項と媒介子、二項対立をその発生へと回帰させる
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この本では「アクターネットワーク理論(ANT)」の全貌が詳細に明らかにされていく。
ラトゥール氏は2021年に京都賞も受賞されている。
上記の京都賞のWebサイトには、ラトゥール氏の取り組みのエッセンスが次のように記されている。
人類の活動に応答して地球環境は破壊的ともいえる変化を見せつつある。
しかし、我々人類は、自分たちの日々の活動が地球環境を蝕み、「破壊」しつつあることを知りながらも、その破壊のプロセスを止めるような行動を速やかに取ることができずにいる。
経済活動、社会活動、なにより快適なライフスタイルと、人間にも人間の都合がある、という具合の言説は巷にあふれている。今日の人類が「人間らしい」と思っているライフスタイルを継続するためには、「自然」や「環境」の側にも少しは負担を我慢してもらわないと、という具合の言説もよくある。
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そういう風に考える時、私たちは大前提として、「人間」と「自然・環境」とを別々のものとして、対立させているのではないか、というのがラトゥール氏の問題提起である。
人間と、自然・環境を、別々の、対立関係にある二つの事柄と考えること。これが上の引用にある「近代の二元論的構図」ということの意である。
この「二元論的構図」の中で、「自然」は「人間という主体が働きかける客体」ということになる。つまり人間と自然の関係は、働きかける側と働きかけられる側の関係に置き換えられる。
働きかける人間の側は、主体的で、能動的で、アクティブで、創造的であり、意思決定を下し、コントロールをする者である。一方で働きかけられる側である「自然」や「環境」は、受動的、付随的、非創造的で、意思など持たないものの側に置かれる。
要するに下記のような具合に二項対立関係を重ね合わせることで、「人間」ということの「意味」、自然環境ということの「意味」を分節化しているのである。
能動 ー 受動
創造 ー 非創造
↓ ↓
<<人間>> ー 自然・環境
第一次的 ー 第二次的
価値が重い ー 価値が軽い
そしてこの二項対立関係のうち、「人間」のほうに「偏極」して重みがある、重要性が高い、と考えてきたのが「近代」の二元論である。
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固着した二元論を発生させるプロセスから分節システムを解き放つ
人間と自然・環境を分けて対立させて、そしてそのうちの一方である「人間」の側に重みを置き過ぎてきた近代の二元論。これを乗り越えようというのがラトゥール氏の思考である。
ラトゥール氏のアクターネットワーク理論(略してANT)もまたそうした思考である。
アクターネットワーク理論(略してANT)は、異なる二つの世界、異なる二つの意味分節体系を生きる複数の人間、異なる複数の生命、そして異なる複数の「モノ」などなど二項からなる関係を、言語によって記述し思考するとは、なにをどうすることなのかを深く理解する手がかりとなる。
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例えば、最近でいえば、AI(人工知能)のようなものがある。
AIは、「人間」と「機械」の境界を揺さぶろうとするモノである。
AIは人間と機会という安定した二項対立からなる意味の秩序を揺るがす「あいまい」な存在である。
そういう二項対立関係にある二項のどちらでもあってどちらでもないようなあいまいなものと、一見確固たるものに見えながらも実はとても曖昧な存在である「人間」のようなものとの関係を、我々はどういう言葉で、どういう論理を組んで考えることができるのか??
そういった問いを深める上で、ラトゥール氏のアクターネットワーク理論は重大なヒントを与えてくれる。
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『社会的なものを組み直す』の冒頭でラトゥール氏は、まず「社会的なもの」の概念を次のように規定する。
社会ということをどう定義するか?
この問いは、社会を対象とする専門の科学である「社会学」の分野ではたいへんな議論が重ねられてきた。ラトゥールは本書の冒頭からこの問いの深みに入っていく。
結びつける動きの変化、として観察・記述するほかない「社会」
社会的なものが「つなぎ直し、組み直していく固有の動き」であるということは、逆に言うと何では「ない」のだろうか?
これについて、ラトゥール氏は次のように書いている。
社会的なものは「実在する領域や特定の対象を指し示すものではなく、むしろ、移動、転置、変換、翻訳、編入の呼び名」である(『社会的なものを組み直す』P.122)。
社会的なものは「実在する領域」や「特定の対象」を示すものではない。ラトゥール氏の思考の型を理解する上で、ここは忘れてはならないポイントである。
「社会」といった言葉がぽんと出てくると、私たちはついつい「社会」なるものが、「実在する」何かとして存在するというふうに受け取ってしまう。
そこから「社会」なるものが、能動的に働きかける人間と予め対立している、受動的で働きかけられる得体の知れない塊のようなものとして、どこかに転がっているという感じになる。
そういう実在するものとしての社会観に対して、ラトゥール氏は否というのである。
◇
社会は、実在するモノではなく、動かず固まったモノではなく、何か個物として転がっているモノではなく「移動、転置、変換、翻訳、編入」する「動き」「作用」である。
モノではなく、コト。
止まっておらず、動いている。
自性によって輪郭の中に閉じ込められたものではなく、閉じつつ開く動きである。
このように言い換えてみてもいいかもしれない。
動きとしての社会的なものの動き方・作用というのが”どういう動きか”といえば、結びつけ、関係を関係付けることである。
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そういう作用や動きとしての「社会的なもの」を、私たちは、どこに、どうやって、どういうパースペクティブの下に捉えることができるのか??
結びつける動き、関係を開き関係づける動きを、動きとして記述し言語化し、モデル化するためには、それに適した言葉を、概念を、開発する必要がある。そしてアクターネットワーク理論とは、まさにこの新しい概念と概念の連関を開発する試みなのである。
ラトゥール氏によれば、関係を関係付ける作用としての社会的なものとは「はい、これです」と眼の前に拾い上げることができるような、それ自体として予め一定のカタチをもって転がっている事物ではない。
関係を関係付ける作用としての社会的なものは「非社会的な資源の結びつきのわずかな変化を通して見つけるほかない」事柄であるという。
社会的なものとは、結びつきの変化を通して見つけるしか無い事柄
ここが重要である。
そしてその結びつきの具体的な姿は「入れ替えできないさまざまな移送装置の循環から突き止められるしかない」という(『社会的なものを組み直す』p.70)。
結びつきを「移送装置」の「循環」として捉える・記述するというのである。
(ここまで続々と耳なれない言葉が登場して戸惑われるかも知れないが、それで良いのである。耳慣れた言葉が無自覚のままに行なっている分節(二項対立の区切り出し)を、相対化し、その無自覚さを自覚するよう促すのが、こういう耳なれない言葉たちなのである。耳慣れない言葉たち。それこそが次に書く中間項ではない「媒介子」なのである。)
「もの」の二つのあり方ー中間項と媒介子
さて、ラトゥール氏が繰り出す耳慣れない言葉の最たるものは「もの」である。
もの、などという言葉は、極めて一般的で常識的で、誰でも知っていて日常的に使っている言葉であるけれども、そういう言葉をこそ、耳慣れないもの、不気味なものへと変容させなければならない。そうすることが、私たちを自明だと思っている対立関係(たとえば、冒頭の必要以上に重みを与えられた人間と軽くみられた自然・環境との対立)から引き離し、新たに思考し直す道へと歩ませるのである。
様々な「もの」たちは、社会的な関係をつなぎ、結びつける。
この「もの」とは何か?
それは私たちが日常素朴に「もの」という言葉で意味させようとしている何かとは異なり、そこを超出るモノである。
ラトゥール氏の「もの」には、その移送装置としての働き方に応じて二つのあり方があり、それが結びつける社会的な関係にも二つの様態があるという。その二つというのは中間項と媒介子と呼ばれるものである。
組み直される社会的なもの1 「中間項」としてのもの
中間項としてのものとは「意味や力をそのまま移送する」モノであるとラトゥール氏は書く。意味がそのまま移送される中間項による移送の仕方とは「インプットが決まればアウトプットが決まる」というものである。
中間項を介した移送では、意味の変換やコードの変容は生じない。
組み直される社会的なもの2 「媒介子」としてのもの
これに対して、もうひとつのものの移送装置としての働き方として、媒介子としてのものというあり方がある。媒介子としてのもの=移送装置は「それが運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする」とラトゥール氏は書く。
ここでいう翻訳というのは、あるものの異なるものへの「変換」「転換」である。媒介子による変換・転換は予測不可能な新たな組み合わせを生じる。
ここでいう翻訳とは「ある原因を移送する関係ではなく、二つの媒介子の共存を引き起こす関係である」とラトゥールは書く(『社会的なものを組み直す』p.204)。
媒介子では「インプットからアウトプットを予測することは決してできない」のである。媒介子の移送装置としての働き方は、コードを変換し、新たな意味を生み出す予測不可能な動きをする。
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例えば「正常に作動するコンピュータは複合的な中間項の格好の例と見なせる一方で、日常の会話は、恐ろしく複雑な媒介子の連鎖になることもあり、そこでは、感情や意見、態度が至るところで枝分かれする」とラトゥールは書く(『社会的なものを組み直す』p.75)。
ここでは正常に動作しているコンピュータと、日常会話とが対比されている。
コンピュータが正常に動作している場合、例えば「A」というキーを押すと、画面に「A」という文字が表示される場合には、コンピュータとその操作者のあいだには「インプットが決まればアウトプットが決まる」という関係が成立している。「A」を画面に表示させたいと思ってキー「A」を押すと、実際に画面に「A」が表示される。スムーズ、円滑、予想通り。なんの問題もない。操作者にとっての「意味」は「そのまま移送する」される。
この場合、正常に動作しているコンピュータは「中間項」である。
これに対して、日常会話では、感情や意見、態度が至るところで枝分かれする。誰が何を突然言い出すかわからず、結論も決まっていなければ、話の筋道も決まっていない。
次から次へと言葉が明るみに出され、それを聞いた人たちが、それぞれ好き勝手に次に連なる言葉を思い浮かべ、口に出す。
会話のそういう姿はちょうど、正常に動作していたコンピュータが突如不具合を起こしてしまい、キー「A」を叩いているのに、画面に表示されるのは「wwwwwwwwwwwwwwwwww」になってしまった、というのと同じような事件である。
この場合、会話の場を織りなす言葉や身振りや表情やその他様々な微細な「もの」たちは、インプットに対するアウトプットが予め決まった中間項ではなく、媒介子になる。
中間項的なスムーズさ、問題のなさの方をコミュニケーションのベストな姿だと決めてかかる見方からすれば、この感情や意見や態度の枝分かれ、など、避けて通りたいストレスフルな事態に思えるかもしれないが、しかし実はこちらの方こそが、「社会的」と呼びうる関係性を変化させたり、結び直したりする時の鍵なのである。
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こうした中間項としてのもの(と人)と、媒介子としてのもの(と人)が、ふくざつに絡まり合い織りなす関係こそが、アクターネットワークなのである。
「アクター」のネットワーク
次に「アクター」という言葉にフォーカスしてみよう。
アクターネットワーク理論における「アクター」とは、ラトゥールによれば「行為の源ではなく、無数の事物が群がってくる動的な標的」である(『社会的なものを組み直す』P.88)。
アクターというと、日常素朴なことばの意味としては、何か主体的な行為の源泉のようなイメージを喚起するが、アクターネットワーク理論ではそのような意味では用いない。
アクターネットワーク理論のアクターは「事物が群がってくる動的な標的」であるという。なんともうまい表現である。
アクターは行為の主体ではない。
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アクターの主体的な(?)行為として錯認されるような出来事は、微細なものたちの中間子だったり媒介子だったりする移送の働き、翻訳の働きを観察すれば、何らかの単一の主体の統御下にある操作というふうには見えなくなる。
雑駁な分節システムで観察していると、働きかける側と働きかけられる側からなるシンプルな関係に見えてしまった出来事も、ものの移送・翻訳作用に注目してみると、働きかける者としての素朴な意味での”アクター”を超えて予測不可能な結びつきを引き起こす、制御不能な異常事態である。
行為はアクターに属することはなく、アクターによって完全に制御されることもない。
行為は他者との関係のなかで、むしろアクターにとっての「他者」によってなされるのである(『社会的なものを組み直す』p.86)。
ラトゥールは、「行為は複数のエージェンシーによってアクターを超えてなされる」という社会学の当初の知見こそが、至るところで「翻訳」が生じ、ひととものの存在が生じ、変容する動的な関係を記述することを求めるのだと書く。
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ラトゥールはまた、アクターを、それを超えるなんらかの「エージェンシー」に「合成してしまわない」ように注意を促す。
いろいろと考えを巡らせていると、遺伝子であるとか、脳であるとか、量子とか、なんでもそこに回収できそうなエージェンシーの姿をした何かが続々現れてくるが、それもまたあくまでも「もの」である。
ラトゥールは、このアクターをどうイメージすると良いかについてもちゃんと書いてくれている。
即ち、アクターネットワーク理論の「アクター」は「点、原子、源」として描かれるべきでものはなく、「星型」で描かれるべきであるとする(『社会的なものを組み直す』p.416)。
この「星型」については、井筒俊彦氏の意味分節理論の確信にも関係するところである。このあたりを繋げて読んでみると面白いかも知れない。
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アクターの先を行きながら、分かちがたい結合を引き起こすのが行為である。行為はアクターに帰せられないと同時に、アクターをメタレベルで規定する別の「なに」かに帰せられることもない。
行為は「驚くべきこと、媒介、出来事のままにしておくべき」事柄である(『社会的なものを組み直す』p.87)。
行為は「分散され、まだら模様であり、複合的であって、定位されず、アクターにとっても分析者にとっても謎のままである」(『社会的なものを組み直す』p.115)。
冒頭に書いた「人間」と「自然・環境」との関係もまたANTに依るならば、単純な二項対立(「二元論的構図」)としてではなく、様々な小さなものから、大きなものまで、いくつものアクターが複雑に絡み合った「分散」し「まだら模様」を呈し、「複合的」で「定位されない」謎に満ちた変換作用の連鎖ネットワークとして捉え直される。
アクターとしての「もの」たちはネットワークの「ノード」として互いに関係を取り結ぶ。ものたちは、ある場合には中間子として作用し、またある場合には媒介子として作用しながら、他のアクターと繋がっていく。そうしてアクターとアクターの関係を、いくつもの移送と変換の処理が多重化されたノード(線)によって結ばれた関係として記述観測することもできる。
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人間と自然が「二つ」の別々のものではなくて、多にして一、一にして多のアクターたちのネットワークの中の複雑に絡み合ったふたつの系であるとするならば、私たちが普段何気なく考えたり感じたりしている人間と自然の関係も、その見え方の様相を大きく変容させられることだろう。
驚くべきこと、謎のまま
驚くべき謎を発見することこそが、あらゆる知性と認識の始まりであるのだけれど、しかし人間の知性のロゴス的な側面は、その謎を、整然と線形に並ぶ記号たちの論理へと「変換」するように働く。
これはあくまでもロゴス的知性という「もの」ないしアクターが「媒介子」となって作用し、生み出した、ひとつの「変換」の形でしかないのだけれども、しかししばしば現代人は、この変換を「正解」あるいは「本当の正体」に至る「中間項」だと思いこんでしまう。
知性は、謎を解き、正解へと至る透明な通路(「中間項」)である、と。
しかしそれは知性のひとつの側面でしかない。
知性には、謎に出会うこと、謎を謎として気づき、戸惑い、困惑することができるという側面がある。
この謎を作ること、問題を作ることも、また「媒介子」としての知性の大切な役割なのである。
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