中沢新一著『構造の奥』を読む・・・構造主義と仏教/二元論の超克/二辺を離れる
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中沢新一氏の2024年の新著『構造の奥 レヴィ=ストロース論』を読む。
ところで。
しばらく前からちょうど同じ中沢氏の『精神の考古学』を読んでいる途中であった。
さらにこの2年ほど取り組んでいるレヴィ=ストロース氏の『神話論理』を深層意味論で読むのも途中である。
あれこれ途中でありますが、ぜんぶ同じところに向かって、というか、向かっているわけではなくすでに着いているというか、最初から居るというか。
ようは同じ話なのであります。
すでに「ここ」に「すべて」が「ある」のであるけれども、妄分別で切り刻まれた「心」では、ここ-にある-すべてを”分かる”ことはできない。
分かるを、分けるを、妄分別モードのそれではなくて、別のもっと励起された、あるいは沈潜したモードでもって実行すること。そういう叡智を「いいなあ」と思っている。
+ + +
すなわち
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-
という具合に言葉を並べるために、ひとつひとつのΔについて、
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
という四項関係が必要であり、この四項関係を分けつつ結びつけるために、一例として描くと下記のように”β”で表記した別の四項関係が四つに分かれたり図の中央に収縮したりを繰り返す脈動が必要である。
そしてこのようなかっちりと固まったかにみえる構造体を描くのも誤解を招くもので、これは脈動する規則正しい振幅が重なり合って描かれる波紋のようなものなのである。
というようなことをなんとなく考えつつ、あちこち読んでいるのである。
ふと油断すると、ふっと心に浮かんでは、分けのわからない(笑)ことを分別し、選ばせようと仕向けてくるこの言葉という名の死者たちの声の無量の残響たちを共振させて、歌わせるようなことができればよいなと思うのであります。
*
*
さて『構造の奥』である。
構造には、その「奥」がある。
ある、というか、その「奥」について語り得る、というこの本のタイトルからしてなんともホッとする。「ある」なんていうのも妄分別である分けだけれども、「妄分別だからダメ!」と分別するのではなく、果敢にそのまま「これはこれでよし」と遊ばせておく。
二元論の超克
『構造の奥』の冒頭から、中沢氏によるレヴィ=ストロース「論」の核心が明らかにされる。
レヴィ=ストロース氏の「構造主義」とは、「二元論の超克」の試みである、というのが中沢氏の読みである。
ここがポイントである。
レヴィ=ストロース氏が「構造」を論じるところを一見しただけでは(あまりにも一見にすぎるが)、例えば親族構造であれば
男 / 女
とか、
夫の兄弟 / 妻の姉妹
とか、
神話の分析であれば
月 / 太陽
獲物 / 狩猟者
とか、あれこれの二項対立が次から次に登場する。
こういうのが並んでくると、なにやらレヴィ=ストロースという人は、二項対立、二元的ペアをこの世界を構成する最小単位とみなし、その目録を作っているのだというように読めなくもない。そこで世界は根源的な二つの項、それ自体として端的に存在する第一項と第二項とが出会い、遭遇し、結合し、関わるところに発生するなにか、というようにとらえられているように見える。レヴィ=ストロース氏の構造分析が「二元論的な象徴分析として好意的に迎えられ」るというのもそういう感じである。
◇
しかし!
構造主義は「二元論」ではない。
構造主義は「二元論」を「超克」する。
超克というのはつまり、二元論の二元・二極を離れて、その二極が二極であるのはそもそもどうしてだろう、といったところから考え始める。
レヴィ=ストロース氏は、有名な『構造人類学』に収められた論文「双分組織は実在するか?」で、二元論の二極は所与の静的な実体(しばしばなにか究極の原因物のように誤解される)ではなくて、動的な関係を表現するための方便なんじゃないか、というようなことを書いている。要するに二元論だけで分かり尽くすことはできないよ、というのである。
このことに中沢氏は注目する。
難解すぎて破壊性に気づかれない
それにしても、破壊的なのに難解すぎて、その破壊性がバレないという中沢氏による「双分組織は実在するか?」評はおもしろい。
このこと自体が二元性の「超克」のひとつの表現のようにも思われる。
「こっちが真理だ!」、「こっちこそ正しい」、「向こうは間違いだ!」「間違いを黙らせろ!」と、正解/不正解をズバリと二つに分けて、一方に高い価値を、他方に低い価値を付与しようというのは、いかにもな二元論なのである。そういうことをしないし、読み手にもさせない。できないようにしておく。
その時「難解」であること、つまり”分かりにくい”、”分けーにくい”ということが役にたつ。二つに分けようにもどこがどうなっているのかよくわからないという、分けようにも分けようがないどちらか不可得な状態に、思考する心を励起する、いや、深く潜航させる、決まらなさに耐え続けることを強いるのである。そしてそれは叡智を研ぎ澄ますというか柔らかくしていく上で的確極まりない方法なのである。
*
大急ぎで二項をどこからか持ってきて、対立させて、片方を選んで、「ヨシ!」とやる。これが人類の分別「心」がどうしてもやりがちなアタマのツカイカタのパターンである。
ここで、二項対立を「切り分けるな」、片方を「選ぶな」と言ったのでも、二項対立を超克したことにはならない。
なぜなら、このような禁止、タブーの設定はそれ自体が
禁止じられた行い / 禁じられていない行い
をはっきりと分けて、「禁じられていない行い」の方だけを自分の領分として選び続けましょう、とする点でまだ典型的な「二元論」である。
* *
対立する二極はたがいに相手を巻き込みつつある
そういうのに対して二元論を超克する思考は、二項対立を切り分けるような切り分けないような、片方を選ぶような選ばないような、というところにじっくりと止まる。そして「この項はどこから来たのだろう?どうしてあるのだろう?そもそもあるのだろうか?」と思い始める。
(人間の)精神 / 自然
この二項対立からなる二元論は、現代を生きる私たちの集合的無意識、阿頼耶識の底に深く刻みつけられた二極であるが、この精神と自然は、もともと別々の二つのことではない、と構造主義なら考える。
「人間の精神」と「自然に内包された知性」とは相即相入、二つでありながら一つ、一つでありながら二つにからみあっている。
このように考える点が、構造主義の近代に対する新しさであり、今日に至っても、いや、21世紀の今日であるからこそ、輝くところなのである。
中沢氏は次のように書く。
あるいはここで「人間の精神(心)」の概念からして、自然と二項対立関係をなす一方の極としてではなく、自然と分かれつつつながった事柄として考え直される余地が開く。同じく中沢氏が『精神の考古学』で「セム」と「セムニー」という二つの用語で区別する、二つの「心」のあり方である。
『構造の奥』には四つの章が立てられている。
第一章 構造主義の仏教的起源
第二章 リュシアン・セバーク小伝
第三章 構造の奥
第四章 仮面の道の彼方へ
まず「構造主義の仏教的起源」という章題に目が釘付けになるので、ここから読んでみよう。
構造主義と仏教をつなぐ、というか”そもそもひとつ”ということを可能にするのが「二元論の超克」、「二辺を離れる」である。
* *
『構造の奥』20ページ、「構造主義の仏教的起源」の幕を開くのは、レヴィ=ストロース氏が『悲しき熱帯』の最後の方に記したチッタゴンの仏教寺院で受けた心象に関するテキストである。
『悲しき熱帯』で、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
哲学も、西洋の科学も、釈尊が瞑想したことに比べれば、その「断片」のようなものである。ここだけでレヴィ=ストロース氏が仏教というか釈迦の教えをいかにリスペクトしていたかがわかる。
中沢氏かここから、「構造主義」と「仏教」の思考の深い、そして明らかなつながりを解き明かしていく。
ここで中沢氏は、レヴィ=ストロースがルソーに傾倒していたことに注目する。レヴィ=ストロースはルソーを読みながら「苦悩する存在」としての人間、「同じ苦悩する同胞にたいする「憐れみ」」といったことにフォーカスしていく様子を中沢氏は捉えていく。
中沢氏はこの「苦悩する存在としての人間」「同じ苦悩する同胞への憐れみ」は、仏教における無明による妄念に苛まれる人間の心と、慈悲の教えに通じるものと読み解いていく。
執着が執着を連鎖的に生み、いわゆる「十二支縁起」によって固められる輪廻(サンサーラ)の現世が出来上がる。
1)老死への恐れが、
2)生への執着を生み、
3)有)への執着を生じ、
4)「外部の事物を自己の内部に取り込もうとする欲望「取」が生じ、
5)外的対象に対する「愛(渇愛)」が生じ、
6)外界の刺激にたいする好き嫌いの感情「受」)が生じ、
7)感覚「触」が生じ、
8)強化学習された感覚器官「六処」が生じ、
9)この感覚情報を統合した名色が生じ、
10)これがさらに寄り集まって「識」(認識作用)ができる。
11)そして認識作用に基づいて行為「行」が生じ、
12)ここに無明すなわち妄想分別で固まった心が出来上がる。
この12)無明が、1)老死の分別へとフィードバックして、生死の分別をさらに際立たせ、そして2)生の区別をさらに強化し、恐れをさらに強め、という具合にぐるぐると回っていく。
無明は分別する心による。
生/死を分けて、生/滅を分けて、「生」の方だけを選び取ろうと望みつつもそのようなことができるはずもなく、そうして苦悩する。
* *
ここでもうお分かりのように、苦悩は分別心、「分けること」「/」によって生じている。
生 / 死
有 / 無
欲しい / 欲しくない
過度に欲する / 欲しない
好き / 嫌い
感覚できる / 感覚できない
↑
左辺に執着
そしてこの「生」「有」「欲しい」「好き」「感覚できる」で目覚めた意識をいっぱいに満たしつづけていられるように、分節システム=識 〜 分別心を固めて自動化していく。と、これが無明。妄念、妄想分別である。
分別するでもなくしないでもなく
分けるということの扱い、特に生/死を分別するようなときに、わたしたちの「心」は一体全体、なにをしてしまっているのかを深く見抜くことで、人は人のままこの苦悩を離れることができる。
◇
ここに二辺を離れる、二元論を超える、ということが出てくる。
人が執着する「あれ」「これ」。
「あれ」は「あれ-ではないものーではないもの」としてなんとなく切り分けられている影であり、「これ」も「これーではないものーではないのの」としてなんとなく切り分けられている影である。
「私」もまた、それ自体として固有の所与の本質に依って存在する「実体」ではない。「私」もまた、「私ーではないことーではないこと」をあれこれ切り分けて束にした何かである。
もちろん、実体は「ない」が、影のようななにかとしては「ある」。
あるか?ないか?
ある / ない
のどちらを選ぶか?!
という話ではない。ありとあらゆる項、二項対立の他方に対する一方としての項は、「「有り」かつ「無い」」(中沢新一『構造の奥』p.37)、「どちらのものとも決めかねる」(中沢新一『構造の奥』p.43)というのが、ことばによって言えるもっとも適当なことである。
この分けるけれども分けない、分けるような分けないような、分かれているでもなく分かれていないでもない、という状態にコトバを励起していくことが、”二項対立を分けて片方を選ぶ”式の「二元論」の思考を超える道である。
*
中沢氏は「二元論の超克」こそ「仏教と構造主義の共通した主題」であると書く。ここ!『構造の奥』第一章のもっとも重要な覚えておきたいところである。
レヴィ=ストロース氏が研究の対象とした先住民社会こそ、二元論的な思考によらず、「非二元論的思考によって、現実に対処してきた」人類の思考の実践例であるという。
生/死だけではない。
真/偽、美/醜、内/外、男/女などの経験的で感覚的に対立する二極は、いずれの場合も「相互に相手を「呑み込みあっている」」(中沢新一『構造の奥』p.43)
・「「有り」かつ「無い」」
・「どちらのものとも決めかねる」
・相互に相手を「呑み込みあっている」二項対立
ここでも二項対立はあり、他方ではないものとしての一方の極として、ありとあらゆる項が存在している。しかし、二つに分かれているということが、まったく同時に、二つに分かれていないということでもある、という関係になっている。分かれていないからこそ分けるのであり、分けようとするからこそ分かれていないことがあきらかになってくる。
分かれていること / 分かれていないこと
分節 / 未分節
二(多)であること / 一であること
この分別もまた、分別なのである。
ということを知って、神話の思考は、分けたり繋いだり、繋いだり分けたり、過度に分離した二項があれば、それぞれを別のところで過度に結合させたり、といったことをしては、分かれているでもなく分かれていないでもない、を実演する。
無分別と分別さえ、「分かれているでもなく分かれていないでもない」という、徹底した非二元論を重視するのが仏教である。
夢、無意識、瞑想、そして神話もまた、二元論と非二二元論の間を自在に往来する。
中道。
つまり経験的感覚的に対立する二極のどちらか不可得、どちらでもあってどちらでもないようなことを、確固とした実体であるかのように見える二項対立の間に挟んでいく。
神話の論理は、この不可得な項(両義的媒介項)もまた、それ自体として確かに存在する実体ではなくて、別の不可得な項との対立関係の中で、他方ではないものとして分節される限りでそのポジションを得ているのだと教える。
こうして神話の語りは、最小構成で二項対立関係の対立関係の対立関係である八項関係が、八極を描くように広がったり、中央一点に収縮したりする脈動のようなことを浮かび上がらせていく。
二元論、たとえば
主体 / 客体
意識 / 対象
人間 / 自然
精神 / 物
といったことがまず二つに分かれている、と置いて、そこからこの両極のあいだにどういう関係を考えることができるのか、と問うのが「西欧的な二元論の思考」の基軸である。
現代産業資本主義の社会で生まれ育った私たちは、こういう二元論を”当たり前”だと思って生きるように強いられている分けであるが、こういう二元論は「人類の普遍」ではない。
「むしろ」である。むしろ、非二元論こそが、人類の心の底で動いている「思考」の根というか種というか芽である。この種、根、芽が、深く根ざしているのが「構造の奥」の、「空」であり、「心(無分別心と分別心のどちらでもあってどちらでもないような心)」、原初の「情報」が格納されたところである。
そこでいわば動きながら育ってきた分別心が、いつしかその動きを止めて、ことによると枯れ果てて「硬直化」してしまったところに、画然と固まった分別たる二元論が確立される。
しかしこの硬直化した二元論もまた、あくまでも、もっと深いところから育ち、生えてきたものだということを知ること。
それを知ることができるのが神話の論理によって動く神話的思考である。
そして中沢氏は次のように書く。
構造主義と仏教のつながりは、レヴィ=ストロース氏という個人の中で二つの理論がくっつけられた、ということではない。構造主義も仏教も、どちらも古からの人間の「心」の奥の底を、研ぎ澄まされた意識でもって観察したところに見えてくるダイナミックな”構造”なのである。
*
この章の最後に、中沢氏はおもしろいことを書かれている。レヴィ=ストロース氏による神話分析は「人類学の現場で」行われた「無我の行」である、という。
私も、学生の頃に読んで衝撃を受けたレヴィ=ストロース氏の著書『神話と意味』から、中沢氏は次の一節を引用する。
神話の分析は、「私」をこの「交叉点」にするということに他ならない。
分析者、分析する主体、分析する自我。
「分析してやるオレ様が!」みたいなもの。
そういう操作主体にして構成主体のような「我」は、”分析結果”の”創造者”のようなものは、神話を分析することに関しては登場しようがない。
神話は、いわばおのずから、強いて言うなら神話自身で勝手に変換を引き起こしていく。ある二項対立が別の二項対立を呼び、対立する二極のどちらでもあってどちらでもない両義的媒介項が治らざるを得ないポジションを区切りだし、その媒介項のポジションと対立関係をなすポジションを同時に区切り出すとともに、そこにまた別の何らかの二項対立関係を呼び込む。
というようなことを繰り返していく。
神話を分析すること、すなわち神話の語りから対立関係の対立関係の対立関係を解いていく動き自体が、神話論理として記述される構造の”すぐ奥”の脈動と、まったく異なることのない動き、互いに共鳴しあうひとつの動きなのである。
それこそが、二項対立が分かれつつつながる、分かれているような分かれていないような、どちらに転ぶかわからない、可能な分別についての情報だけを含んだ「空」にして「心」ということであり、そこには「我」と「我の対象」の二項対立もまたない、まだない、分けよう思えば分けられるが、まだ分かれていない。
そうであるからして、実は、私がここしばらく取り組んでいる、レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を深層意味論で読んでみる、という試みも、ここでいう「無我の行」に他ならないのであり、だからこそ、いくらでも、いつまでも、飽きることなく続けられるのである。
*
ちなみに、私が『神話と意味』でたいへんな衝撃を受けたのは、それまで「意味の意味とはどういうことか??」という問いに捉えられて他のことが考えられなくなっていた私のところへ「意味とは言葉の置き換えである」という一節をもたらしてくれたことである。
「意味とは言葉の置き換えである」。この一文で、いろいろなことを動かすことができるようになったように思う。
*
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